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社内木鶏~2018年11月~

 

毎月の初心会議で実施している「社内木鶏」。

今月は到知の11月号の記事の中から、私は上記の記事を選びました。

 

 

(「社内木鶏」については下記をご覧ください)

 

https://www.chichi.co.jp/study/contentsstudy/shanaimokkei/

 

今回、曽野綾子さんの記事を選びました。まず最初に、自己丹誠とは何だろうか?!と思ったとき、自分を磨き高めていくことであり、何か厳しいイメージがありました。調べてみると、「丹誠」とは真心と同義語であり、自分自身に真心を込めるということかと思うと、少しイメージが変わりました。また、文中のなかで印象的であった言葉に、「途方もない夢や理想を持っていなかったから、うまくいったんじゃないでしょうか」「夫婦だけに限らず、相手になんでもかんでも求めすぎないってことは大事なことかもしれません。」という言葉でした。理想とは自分自身の価値観そのもののことですが、自分に理想を求めすぎることは自分のしたいことをしているだけで、人としてすべきことをしている訳ではなく、今回のテーマである丹誠という言葉のように、自分に真心を尽くしているわけでもないのかもしれません。

 

今月、現場に伺う中で、「褒める」ということや「求める大人像」ということに苦しむ姿を観ました。良いと思えば褒める。すごいと思えば褒める。反対に良いところが見つからないと褒められない。褒められる人と褒められない人の差に苦しむのは、自分の価値観を相手に求めているからであり、そのひとまるごとの個性、あるがままの存在そのものを褒めているわけではありません。自分自身の物差しで裁くのは自分の理想という価値観に軸足を置いた生き方をすれば、自分自身にも、人にも真心を持って接することが出来ず、求めすぎたり、裁いたりしてしまうのだと感じました。

 

 

そんな気づきを踏まえて自分を責めていないか、人を責めていないか。

真心を込めて自分に接しているか、人に接しているだろうか、そう問いかけてみると、

今を認め、異なりを喜び、ただ今、人に喜んでもらえる一日を過ごしていけたらなと心が明るくなりました。

 

この気づきを頂けたのも、保育園での日常があってこそです。卒園式が想い深いものですが、一人ひとりのその子らしさという個性。生まれ持っているもの、それをそのまま漢字一文字で表してくれました。娘は「お友達を導いてくれる存在でした」という言葉と共に、「導」という字を。息子は「様々な謎を探求することが得意な存在でした」という言葉と共に「謎」という字を頂けました。その時、その一文字にはそうなってほしいと「期待」されているわけでもなく、ただそのこのあるがままを認めてもらえたことが親として本当に嬉しく、、、例え性格が変わったところで、今度はその性格そのものを認めてあげることで、一生涯子どもたちのことを評価したり裁かずに済むのかと思うと安心したことを覚えています。

 

人それぞれに価値観があり、自分が今思うことも一つの価値観ですが、どんな風に自己を丹誠していくのかということについては、曽野さんの記事を読んで改めて、一つの価値観に縛られず、今の自分を大切に真心を込めて接し、今のその人を大切に、真心を持って接することを大切にしていきたいと思います。

 

ミマモリスト
眞田 海