高松氏は、部活の選手たちに向けて「部活一般教養」のようなプログラムを作ることによって、「体育会系」という視野狭窄を回避できるのではないかと言います。彼は、ドイツの10代向けのサッカーのトレーニングキャンプで、適正な職業を考えるプログラムが用意されていることに触れていましたが、これも、選手という「職業」を相対化させ、「サッカーバカ」という視野狭窄に陥らずキャリアを形成することを念頭においていると理解できると言うのです。そのように考えると、「部活一般教養」プログラムを作ることは、自分たちの世界観を相対化し、より広く社会のなかの自己像を考えることにほかなりません。
日本に目を転じると、Jリーグ加盟を目指すクラブ、「奈良クラブ」で選手およびスタッフを対象に座学を入れるという動きがあるそうです。同チームは2018年末に運営において新体制をしき、「サッカーを変える 人を変える 奈良を変える」というビジョンを発表しました。それに伴い座学を始めたようです。これは選手たち自身の視野を広げ、成長につながるのではないかと高松氏は言います。また、それ以上にこういう取り組みが日本でも増えるとスポーツそのものが社会の一部であり、同時に社会を作るエンジンという形に変わって行く可能性があると言うのです。
いまこそ、「スポーツの役割とは何か」という問いが重要ではないでしょうか。日本の場合、ドイツのようなスポーツクラブを急ごしらえで無理に増やすとか、部活を学校からいきなり放り出すといったことをするのも難しいです。また、現場で奮闘されている方からいえば、どこから手を付けてよいやら、見えてこないかもしれません。しかし、「スポーツの役割」とは何かという問いを立てていけば、一世代かけてスポーツ文化、ひいては学校の「部活」も変わるはずだというのです。
その結果、スポーツを「社会の一部」に持っていくことができ、多様な社交、健康づくりなどの実現によって、スポーツをより人々の幸せにするものに変えられるかもしれないと言うのです。もちろん社交には摩擦も出てくるでしょう。しかし、スポーツをするということは、相互敬意を学ぶことでもあるのです。人格と意見は異なるものであり、教養があれば意見と意見をうまく対峙させることにつながるはずだというのです。
さらに、スポーツを「社会の一部」と考えていくと、老若男女がスポーツに対して、様々な関わり方ができるかどうかが大切になってきます。関わる拠点は先ほど高松氏が提案した学校の「余暇部活」でもいいでしょうし、スポーツクラブでもいいでしょう。関わり方もいろいろあります。自分でスポーツを楽しむのもよし、指導やオーガナイズをする役回りでもいいでしょう。あるいは、たまに行われるであろうイベントやパーティに参加するだけでもいいでしょう。それにしても、とりわけ働いている人にとっては「可処分時間」を増やす必要があります。
そう考えると「スポーツ側」から、労働環境に関する政策にまで提言する必要もあるでしょう。この中にはもちろん先生たちの労務問題も含まれてきます。これ以外にも「スポーツ側」から社会そのものをよくするために、働きかける課題はたくさんあるはずだというのです。高松氏は、こういうアクションが「スポーツ側」から出てくること、これが、「社会を作るエンジンとしてのスポーツ」の段割だとまとめているのです。