部活一般教養

高松氏は、部活の選手たちに向けて「部活一般教養」のようなプログラムを作ることによって、「体育会系」という視野狭窄を回避できるのではないかと言います。彼は、ドイツの10代向けのサッカーのトレーニングキャンプで、適正な職業を考えるプログラムが用意されていることに触れていましたが、これも、選手という「職業」を相対化させ、「サッカーバカ」という視野狭窄に陥らずキャリアを形成することを念頭においていると理解できると言うのです。そのように考えると、「部活一般教養」プログラムを作ることは、自分たちの世界観を相対化し、より広く社会のなかの自己像を考えることにほかなりません。

日本に目を転じると、Jリーグ加盟を目指すクラブ、「奈良クラブ」で選手およびスタッフを対象に座学を入れるという動きがあるそうです。同チームは2018年末に運営において新体制をしき、「サッカーを変える 人を変える 奈良を変える」というビジョンを発表しました。それに伴い座学を始めたようです。これは選手たち自身の視野を広げ、成長につながるのではないかと高松氏は言います。また、それ以上にこういう取り組みが日本でも増えるとスポーツそのものが社会の一部であり、同時に社会を作るエンジンという形に変わって行く可能性があると言うのです。

いまこそ、「スポーツの役割とは何か」という問いが重要ではないでしょうか。日本の場合、ドイツのようなスポーツクラブを急ごしらえで無理に増やすとか、部活を学校からいきなり放り出すといったことをするのも難しいです。また、現場で奮闘されている方からいえば、どこから手を付けてよいやら、見えてこないかもしれません。しかし、「スポーツの役割」とは何かという問いを立てていけば、一世代かけてスポーツ文化、ひいては学校の「部活」も変わるはずだというのです。

その結果、スポーツを「社会の一部」に持っていくことができ、多様な社交、健康づくりなどの実現によって、スポーツをより人々の幸せにするものに変えられるかもしれないと言うのです。もちろん社交には摩擦も出てくるでしょう。しかし、スポーツをするということは、相互敬意を学ぶことでもあるのです。人格と意見は異なるものであり、教養があれば意見と意見をうまく対峙させることにつながるはずだというのです。

さらに、スポーツを「社会の一部」と考えていくと、老若男女がスポーツに対して、様々な関わり方ができるかどうかが大切になってきます。関わる拠点は先ほど高松氏が提案した学校の「余暇部活」でもいいでしょうし、スポーツクラブでもいいでしょう。関わり方もいろいろあります。自分でスポーツを楽しむのもよし、指導やオーガナイズをする役回りでもいいでしょう。あるいは、たまに行われるであろうイベントやパーティに参加するだけでもいいでしょう。それにしても、とりわけ働いている人にとっては「可処分時間」を増やす必要があります。

そう考えると「スポーツ側」から、労働環境に関する政策にまで提言する必要もあるでしょう。この中にはもちろん先生たちの労務問題も含まれてきます。これ以外にも「スポーツ側」から社会そのものをよくするために、働きかける課題はたくさんあるはずだというのです。高松氏は、こういうアクションが「スポーツ側」から出てくること、これが、「社会を作るエンジンとしてのスポーツ」の段割だとまとめているのです。

社会をつくるエンジン

高松氏は、ドイツでも何度か「熱くなりすぎた親たち」を見たことがあるそうです。ピッチの上の子どもたちより、ゲームに入り込んでいるのです。確かにあまり褒められた状態ではないと言います。一方、昨日紹介したような看板がたつあたりは、「スポーツの場」として、まだまだ正常といえるのではないかと言います。闘争心を抑制し、秩序ある行為であろうとすることは「スポーツ」の特性だというのです。それを看板で再確認しようとしているわけです。

では日本の「スポーツ」はどうでしょうか?高松氏は、少し大きな視野から考えてみています。今日の日本は早急に近代化を行い、急速な経済成長を追い求める「若い国」ではありません。持続可能性のある成熟した国家像を考える時期にあると高松氏は考えています。そして、日本はデモクラシーをベースにした国でもあると言うのです。スポーツも社会の一部です。そのように考えると、「持続可能な成熟国家」「デモクラシーベースの国」という二つの条件に応じたスポーツ文化を考えていくべきだと彼は提案しています。また、ドイツのスポーツクラブがそうであるように、スポーツは「社会の一部であると同時に、社会を作るエンジン」でもあると言うのです。

こういうふうに考えると、健全なデモクラシーを維持するにはどうすべきか、といった問いが重要に思えると言います。そうすると、たとえば既存の「体育会系文化」をリフォームしていくという発想も出てくるかもしれません。部活の「先輩後輩システム」は相互敬意の形と考える。そして後輩は先輩に服従するような関係ではないことを明白にする。そんな方針がたつと思うと言います。そうすることで、意見を自由に表明する「先輩・後輩」の人間関係が成り立ちます。さらに「人間の尊厳」というところから考えていくと、指導者と選手の関係も変わってくるのではないかと言います。そして相互の「尊厳」をきちんと意識するような学校組織づくりという課題を設定することができるのではないかというのです。

それから、ドイツのスポーツ文化と比較したときに見えてくる問題が、タコツボ効果です。これに対して、部活の枠組みで多様な「社交」の機会が作れるかどうか。視野狭窄に陥らないようにどうすればできるか。こういう方針を立てることで、既存の体育会系を「創造的体育会系」にリフォームできるかもしれないというのです。

学校部活をベースに多様な社交の機会を作る方法として、「余暇」と「競技」の両方を作ると面白いかもしれないと言います。競技部活は試合に出て頑張りたい人がやればいいのです。余暇部活は体力健康維持とリラックスが目的です。ここでは先輩・後輩に関係なく、場合によっては先生や保護者も自分たちの「余暇スポーツ」として混じってもいいのではないかと言います。受験生にとっても、定期的に息抜きができる場所にもなってくるはずだというのです。さらには高齢者や一般の人にも来てもらってもいいのではないかと言います。余暇部活は生徒のための教育・厚生のためであり、同時に地域社会のための厚生の場にするのです。こうすることでスポーツを軸に多様な交流の実現にもつながります。

「体育会系」という視野狭窄を回避するには、部活の選手たちに向けて「部活一般教養」のようなプログラムを作るのもよいかもしれないと高松氏は提案します。

自己決定する私

高松氏がこれまで述べてきたことを整理すると、このようになります。

まず、スポーツは自己決定の行動であり、「やらされる」ものではありません。そして、スポーツクラブは、ソーシャルアクションとして存在します。その「自己決定する私」に対してインプットとして、自己決定ができるようになるために必要なことがあります。まず、世界の構造、歴史、制度を知る「教養」が必要になります。そして、常に「Why」を考えます。そして、意思、意見のプレゼンテーションの訓練が必要になります。さらに、倫理的価値の学習が必要になり、自己決定のための情報収集力が大切です。これらは、学校教育、成人向けの教育の役割が大きいのです。ここには、デモクラシー教育としてのスポーツクラブが存在します。

次に、「自己決定する私」からアウトプットとして自己決定で行うことがあります。まず、社会運動、政治活動などへの参加、意見の表明をします。さらに、自由意思による時間、能力のシェアとしてボランティア、NPO活動などがあります。そして、PTAやNPOの役員などへの立候補、社会・政治運動のイニシアティブなどに率先的行動します。次に、自己決定による自分のための諸活動として、スポーツ、文化などの活動、休暇の取得があります。これらは、自由、公共性の理解、デモクラシーと連動しています。

最後に、リレーションとして、他の「個人」との関係の原理があります。それは、「平等」「寛容」「連帯」です。それらは、あくまでも「人間の尊厳」が軸になっており、スポーツの人間関係と通じています。

森の学童クラブ

今まで紹介してきた高松平藏氏の主張は、「ドイツの学校には なぜ 『部活』がないのか」(晃洋書房)によるものであり、そのサブタイトルとして、「非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティ、そして豊かな時間」とあります。現在、賛否両論の中で日本でオリンピックが行なわれていますが、オリンピックをやるかやならないかという議論だけでなく、もう一度スポーツというものを考える時期かもしれません。

そのヒントになるかもしれません。最後に、高松氏は、この本の「終章」で、「スポーツは社会の一部、そして社会を作るエンジンである」ということで、これからの日本の部活、スポーツにとって必要なことを述べ、ある提案をしています。

まず、彼は、いくらドイツの人々でも、必ずしも聖人君子のような人ばかりではないと言います。ただドイツの特徴的なことを引き出し、基本的な制度や思考の枠組みをほぐしていくと、ドイツのスポーツ文化が少し見えてくると言うのです。これは、日本のスポーツ文化を考える上で、刺激になるのではないかという立場で書いているのだとことわっています。ですから、ドイツの「まずい例」を挙げています。

SNSでサッカー場にたてられた看板が話題になったことがありました。それは、次のような内容です。

森の幼稚園

「忘れないでください!1、(試合をするのは)子どもたちです 2、あくまでも試合です 3、トレーナーも趣味としてやっています 4、審判もまた人間です 5、これはワールドカップではありません」

子どものサッカーの試合で、観客席の親が興奮することがあります。それに対する看板です。

役に立つ

日本で「スポーツバカ」が出てきやすいのは、タコツボ構造の部活でスポーツを行っているからともいえるのではないかと高松氏は指摘します。これは日本の基本的な考え方にも見られるのですが、役に立つ「技術」「ノウハウ」の追求はとても熱心で、高度に発達しました。ロケット部品にもなる高度で信頼性の高い「ものづくり」もその成果もそうでしょう。また明治時代に日本は近代国家の体裁を実現しましたが、これも手っ取り早く欧米から「役に立つ」技術や制度を取り入れたところにあると思っていると言います。

ただこの傾向がひどくなると、視野狭窄ともいえる状態がでてくるのではないかと言います。たとえば文化面でいえば「おたく」と呼ばれる、特定の分野にのめりこむ傾向のある人も出てきやすいというのです。「体育会系」も同様だと言います。これらはそれぞれの分野で、高度化や精緻化がなされていくのですが、一般的な教養を持ち、社会と広く関連させる発想が乏しいことが散見されると言います。

昨今、国じたいが「役に立つ」「役に立たない」で学問を判断する傾向がありますが、日本のよくない特徴が出てきているように思うと言います。「役に立つ」ものだけを手っ取り早く集めて成長させるべき若い時期の国なら必要なことかもしれません。しかし成熟した国では適していないのではないかというのです。

それに対して、ドイツを見ていると、即物的に「役に立つ」「役に立たない」というよりも、教養を重視します。教養があるからこそ「自己決定」ができると言うのです。社会にどう参加するかという考えも出てきます。著名なスポーツ選手がチャリティなどを行うこともこういう視野の広さと関係があると言います。そして技術者であっても、アスリートであっても教養があるから自分のことをきちんと語れるわけだというのです。教養主義だから、スポーツバカは存在しないのではないかと高松氏は言うのです。

日本のスポーツ選手は、外国のメディアにとって取材対象として面白くないといわれることがあります。というのは、取材をしても競技の話しか出てこないことが多いからだというのです。逆に欧米の選手は広く自分を語り、政治についても知っているため、記者との応酬も面白いというのです。もっとも日本の場合、スポーツ選手や芸能人が政治発言することにアレルギーを持つことが多いので、競技のことしか話さないというのは、日本社会とマッチしているともいえると高松氏は言うのです。

ところで、彼が紹介した大西鐵之祐さんの著書『闘争の倫理 スポーツの本源を問う』によると、日本でも、大学で体育会ができるまでは、スポーツが行われたのは学校内で一般のクラブだったといいます。第二次世界大戦以前、中学生も学外のクラブでスポーツをしていたそうです。しかしながら「教育的じゃない、外部の者や先輩なんかと一緒にやっているとろくな指導をやらない」ということになりました。それで学校教育の中に取り込んだそうです。これで社会の基礎集団としてのクラブが機能しなくなり、学校中心のタコツボ型のスポーツになったと指摘しています。「スポーツバカ」が出てくるのは必然的だといえるでしょう。

スポーツの世界の価値観

教育における欧米とアジアの母親の価値観の比較を高松氏は紹介しましたが、スポーツのせかいではどうでしょうか?スポーツの場合、「自己決定」で競技に挑む場合、どれだけ知識と情報をもとに、自分を認識し、目的に達するために必要なトレーニング方法、そしてどれだけの時間が必要か逆算するロジカルな発想ともよくあうと高松氏は言います。日本の部活で頑張っている生徒には、「やらされている」と感じる人もいるようですが、「自己決定」ということがべースにないシステムにいるからかもしれないというのです。

高松氏は、あまりよい言い方ではないとことわっていますが、日本の体育会系の人をさして「脳みそが筋肉」「スポーツバカ」といった侮蔑の表現があると言います。彼の解釈ではスポーツ以外のことに目がいかない「自己決定なき状態の狭量なスポーツマン」ということになるのではないかと言います。このため、日本のスポーツマンは一種の洗脳状態のようになり、「勝利至上主義」を受け入れやすくなるのかもしれないと言います。また勝利至上主義は、試合が学校対抗の試合制度になっているからともいえると言います。

学校単位の勝利至上主義というメンタリティは、最近になってできたものでもないようだと言います。日本に近代スポーツを普及させたのは、明治初期、イギリスからやってきたフレデリック・ウィリアム・ストレンジだといわれています。「倫敦から来た近代スポーツの伝道師」(高橋孝蔵著)によると、ストレンジが来日したのが1875年。そこから1888年に34歳の若さで亡くなっていますが、この間「スポーツによる人間形成」というイギリスのスポーツ観が高等教育機関に伝わっていったようです。

当時の高等教育機関であった高等学校、いわゆる「旧制高校」では、19世紀末から運動部が次々と作られました。旧制高校は現在の「高等学校」とは異なります。中学校4年を終了した者、あるいは同等以上の学力のある男子が通うもので、帝国大学の予科として機能していて、いわばエリートが通った学校です。

イギリスのパブリックスクールも同様で、スポーツはエリートのものでした。「勇気」「男らしさ」をよしとした点で、旧制高校とは共通点があったようだと高松氏は言います。しかしながら、いざ試合となると、両者には差がありました。どういうことかというと、イギリスの場合、ゲームはゲームという一種の相対化するような見方があったことに対し、日本の場合はゲームに対して「徹底主義」や「没我」「徹頭徹尾犠牲」といった態度やメンタリティがあったといいます。応援団にしても、味方を鼓舞するだけではなく、対戦相手を罵倒してでも勝利に導くのだという考え方があり、「フェアプレー」とは言い難い行動がありました。

自転車可の車両

この日英の比較を知ると、ドイツは、イギリスとよく似ていると高松氏は言います。スポーツをしているのは数多くある「自分」のひとつで、試合となれば熱くもなるが、あくまでも自分の一部が投影される場所ということがうかがえると言います。試合に出るのは、あくまでも「自己決定」であるということだというのです。もちろん、チームワークは重要ですが、個人はチームや、チームが属している学校などの組織と自己を同一化することはありません。トレーナーにしても、勝たせたいという気持ちはもちろんありますが、日本の学校スポーツのようなプレッシャーは構造的に生まれにくいと高松氏は言うのです。

知識

ドイツでは、「抽象化が行われた知識」と、実地で「身体的に覚えていくこと」が分離しています。ドイツでの理論は抽象的な知識に価値がおかれているということです。では、なぜドイツで知識に価値がおかれているのかというと、一言でいえば、知識があれば自分で判断できるという考え方があるからだと高松氏は言います。ドイツの学校のカリキュラムを見ると西洋を中心とした世界の構造を知るために、歴史・言語・哲学といった側面から様々な科目に分節化しているのがわかると言います。こういう世界の構造を知ることは、ただ目の前のお手本を「まねぶ(模倣する)」ことよりも、目の前のことに対して「Why」、疑問をつきつけると言うのです。場合によっては批判的に見るということだと言います。そのためには知識や情報を多く持つべきであるということになります。

ハロウィン

彼が以前紹介した社会的能力に「自己認識と外部認識」や、批判の能力などもはいっていることも、なるほどと思えると言います。これがスポーツの指導などで日本と違うかたちになってくると言うのです。つまり「自分で判断できる人間を目指す」ということがべースにあるわけです。

「自分の人生は自分で構築する」という人生観なのです。では、この自己決定ができることに価値をおく考え方はどこからきたのでしょうか。社会史をたどると、かなり昔まで遡らなければならないのですが、直接的には19世紀だと言います。この時期、工業化にともない都市化がぐっと進み、「労働者」という階層ができました。ここで起こるのが、労働者にとって、時間を労働の単位としてみる感覚ができてくることでした。それから彼らは都市の周辺の村からやってきました。都市に住み始めると、地縁血縁という前近代的なしがらみから離れることになります。また、並行してカントをはじめとする、「理性」「個人」という考え方を精緻化する哲学分野の「知」も政治・社会に大きく影響してきました。これが結果的に、ドイツでは人間の位置づけそのものである「個人」という単位が強くなったといわれます。そして「自分の人生は自分で構築する」という「自己決定」の人生観が広がったとみられますが、同時にそれは、他者の自己決定を尊重すべきということにもなります。

そうなると、全人生のなかで仕事はあくまでも一部分であり、人生のために「健康」や「生活の質」を重視するという考え方も生まれます。「労働は自分の時間の切り売り」ということがはっきりしてくると、自由時間や余暇という概念も際立ってきます。長期体暇などの諸権利を明示するドイツの法律などは、こういう自我の感覚を保障するものという見方もできると言います。ポンと体みを取ることを「自己決定」し、それを尊重する他者、という構図が見出せると高松氏はみています。

また以前、彼は公共空間とは率先的に活動を起こしてもよい空間でもあるということに触れました。これも「自己決定をする私」というメンタリティがなければできないことだというのです。これが教育という側面からいうと「自己決定をする私」を重視するあまり、結果的に欧米人の親は「子どもたちが真に情熱を傾けられるものを見つけるよう勧め、その選択を支え、励ましの言葉をかける」というような、エイミー・チュアが「タイガー・マザー」の中でしている指摘につながるのではないかというのです。

欧米との違い

今日でも、サッカーのチームに子どもが入ってくるときに、「ウチの子をJリーガーにしてください」という母親もいるそうです。そこにはJリーガーに「仕立て上げる」ことが子どもの幸せになるのだ、という発想が見いだせるように思うと高松氏は言います。さらに、「仕立て上げる」(アジア)と「引き上げる(のばす)」(欧米)の教育観の違いについて、とてもうまくまとめていると言います。彼は、さらに引用しています。「欧米人の親は子どもの人格を尊重しようとし、子どもたちが真に情熱を傾けられるものを見つけるよう勧め、その選択を支え、励ましの言葉をかけ、そういった環境を整えてあげようとします。対照的に中国人の親は子どもを守る最善の方法は、彼らのために将来を用意して、子どもたちに何ができるかを気づかせてやり、才能や勤労習慣、それにゆるぎない内なる自信で身を固めることだと思っているのです。」

同書はドイツでもベストセラーになったそうです。特に教育観の違いは衝撃的だったのではないかと言います。エアランゲン市でも「我々はタイガー・マザー方式の教育をすべきか」といった講演も行われたそうです。

小学3年生の教室

高松氏は、日本との違いも指摘しています。日本語で「学ぶ」という言葉がありますが、語源的には「まねぶ」、真似をするということです。語源から考えていくと、いくつかの日本のやり方と関連づいてくると言います。たとえば、形(かた)を何百回も繰り返し、技能を獲得する教育法があります。職人、伝統芸などの世界でも、師匠の技能や芸を模倣、真似ていきます。これも形を真似し、「身体化する」というやり方なのだと言います。

一方、ドイツの教育方法を見ると、方法や構造を教えることに重点をおいているように思えると言います。いわば「抽象化が行われた知識」と、実地で「身体的に覚えていくこと」が分離しているわけです。彼は、ドイツの就職のシステムが日本と全く異なるということに触れていましたが、、デュアルシステムを見るとよくわかると言います。職業訓練中の若者は、職業学校で理論、そして訓練先の学校で実地訓練を受ける構造です。

このことは、保育士の資格を取る学校での在り方を比較してもわかります。日本では、理論を学ぶ1年間の授業の間で、3週間くらい現場で自習をします。ドイツでは、卒業する最終学年で、1年間ずっと現場で働きます。そして、給料も少しもらえるようですが、この評価によって資格が取れるか決められます。しかも、日本での実習期間中の評価では、資格取得ができないことはほとんどありませんが、ドイツでは、ここで落とされることもよくあるそうです。しかも、2年続けて評価が悪いと、それまで理論を学んだ数年間が取り消されると聞きました。

ここで、高松氏は、ドイツにおける「理論」に注目しています。それは、ドイツでの理論は抽象的な知識に価値がおかれているということです。そのせいか、博士号や教授という肩書きには日本以上の価値があると言います。では、なぜドイツで知識に価値がおかれているのでしょうか。

学童クラブの建物

アジアの教育観

「仕立て上げる」というよりも、「才能があれば引き上げる」という教育観が強いドイツですが、「練習がマイスターを作る」といった言い方もあるそうです。繰りかえし、根気よく練習をすることの重要性を表すものだそうです。しかし「才能があれば引き上げる」という考え方がまさるのでしょうか。たとえば勉強にしても「もう少しプッシュしてあげると、伸びそうな子ども」なのに、親も先生も適切なプレッシャーをかけないというケースが散見されると言います。

小学2年生の教室

そんなドイツに対しアジアの教育観は正反対といえるのではないかと高松氏は言います。示唆的なのが2011年に出版された本、『タイガー・マザー」(エイミー・チュア著、齋藤孝訳、朝日出版社)だと言います。その内容を紹介しています。中国系のルーツを持つ著者は子どもに毎日ピアノを練習させ、上位の成績を取るようにとスパルタ方式の教育を行いました。このやり方は個性を重視するアメリカ式となじまなかったのか、最後には子どもに反抗されます。教育観の文化的衝突を描くドキュメンタリーのような一面もあると言います。この中で、筆者のチュアさんは、学業での成功を強要するのは子どもによくないとする欧米人に対して、中国系の母親の多くは「学業での成功は子育ての成功の印」だといいます。そして、学業も運動も「金メダル」でなければならないというのです。だから、もし子どもが成績AではなくBをとってくると、「まずは叫び声を上げ、次に頭をかきむしって感情を爆発させることでしょう。打ちひしがれた母親は、数十の、いえ数百の練習問題を準備して、子どもがAを取るまで、つきっきりで勉強させることになります。自分の子どもが満点を取れると信しているからこそ、中国人の親は子どもに完璧さを求めるのです」と、この本の中に書かれてあるそうです。

同時にこの本には、欧米の教育観を批判的に書いているそうです。特に欧米人の親は子どもの自尊心を気にしすぎということを指摘しています。「子どもたちの自尊心のために良かれとやっていることが、子どもたちにあきらめを生んでしまったら、それは最悪のことではないでしょうか」とあるそうです。そして、欧米人とアジア人の母親の教育観の誤解と真意について次のように書いています。「アジア人の母親について、子どもが本当に興味のあることに無関心で、狡猾で冷淡で、無理強いし過ぎている人々として描いている本が、ちまたに溢れています。アジア人の親からすれば、子どもが悪くなっても自分たちの満足感を優先しているように見える欧米人の母よりは、自分たちの方が子どものことを大切に思っていいて、子どものために犠牲を払うことを厭わないと心の中で思っています」と書かれてあるそうです。

中国と日本を比べると、たくさんの違いもあるのですが、チェア氏が説いていることは大雑把にいえば、日本も含むアジアの教育観なのかもしれないと高松氏は言います。すなわち、ドリル方式と根性でやり抜くことを課し、ある状態に「仕立てあげる」という発想だというのです。スポ根ものを代表するマンガ作品「巨人の星」ともイメージが重なるとも言うのです。同作品では主人公・星飛雄馬を父親・一徹が子どものときから徹底的に鍛えあげるというところがよく知られています。これは、指導者が怒鳴りちらし、体罰を加え、絶対的な練習量で「強い選手」に仕立てる、典型的な「体育会系」式のトレーニングとも重なるというのです。

小学校の玄関ホール

引き上げる

ドイツでは、キリスト教とスポーツの組み合わせをどう考えればよいのでしようか?ヒントになるのがドイツの学校だと高松氏は言います。授業に「宗教(キリスト教)」があります。キリスト教徒ではない生徒はというと、「倫理」の授業を受けます。つまり宗教教育=倫理教育という位置づけになっているともいえると言います。倫理はより普遍的な価値の体系です。だからこそスポーツのあり方や企業経営にも含まれるのです。実際、キリスト教からスポーツに対する倫理的なアプローチを行っているそうです。スポーツフェステイバルで説教を行ったアーノルド師もその一人です。同師はエアランゲン大学で神学を学び、「スポーツと教会」というテーマで活動をしています。またバイエルン・スポーツ連盟の「スポーツと教会委員」のメンパーの一人です。スポーツ、倫理、宗教に関する議論は複雑なものがあるのですが、スポーツに付されている価値は、キリスト教と親和性が高いと言います。だからこそ、子どもに勧めるスポーツでも価値教育としての価値があるわけだと言うのです。

さらに踏み込むと、以前高松氏が述べていたように、スポーツは社会的アクティビティにつながっているのがドイツだと言うのです。倫理的な規範を実際の社会へ働きかける力や期待がスポーツにはある。スポーツフェスティバルでの礼拝を見ると、こういったドイツのスポーツ文化がよくわかると言います。

ドイツ語を見ると、「教育」を意味する単語が複数あるそうです。そのうちのひとつに「引き上げる」といったラテン語がもとになっているものがあるそうです。一般にいろいろなものをやってみて、もし才能があることがわかり、それを続ける意欲があれば、それを「引き上げる(伸ばす)」という考え方が、この言葉の語源からわかります。

この発想に沿って見ていくと、ドイツのスポーツのあり方ともうまくあうのではないかと高松氏は言います。彼が以前とりあげた子どもに勧めるスポーツの広告記事でも「お子さんにどのスポーツするか自分で決めさせてあげてください。多くの子どもたちは様々なスポーツを試しています」とさらりと書いていますが、「いろいろ試してみて、合うものを選び、伸ばしていく」という考え方に沿ったものといえるのではないかというのです。

「才能があれば引き上げる」という教育観は、子ども向けのスポーツプログラムにも反映されているように思えると言います。たとえば中高生ぐらいの年齢を対象にした、サッカーのトレーニングキャンプでは自分にとって適正な職業は何かを考えるプログラムが用意されているそうです。キャンプの参加者には「自分はプロの選手になるんだ」という意欲を持っている子どももいます。ところが、当然プロになれるのはごく一部です。それを考えると「サッカーこそが、自分の人生だ」などと思い込まず、少しサッカーから距離をおいて自分の適正を考えるべきだと高松氏は言います。適正な職業とは何かを考えることは「もし才能があるのなら、それを引き上げていく」という教育観と表裏一体になっているように思うと言うのです。

おもちゃ屋さん

価値

スポーツを通して子どもが身につけられるものには、「社会的能力」のほかに、寛容や公平といった倫理的な「価値」教育も挙げられています。そこで、高松氏はこれらの「価値」とは何なのかを考察していきます。昨日のブログでは、商工会議所が考える「社会的能力」を紹介してましたが、寛容や公平といった「価値」も扱っているそうです。たとえばバイエルン州北部のニュルンベルク市および周辺地区管轄の商工会議所は数年前から企業向けにCSR(企業の社会的責任)の啓発活動でサッカーを応用したものを展開しているそうです。2012年に同商工会議所が発行した約40ページのブックレット「フェアプレーとCSR、ダブルバスで」を高松氏は紹介しています。マンハイム大学教授、ニック・リンヒ博士が執筆、ドイツサッカー文化アカデミーと商工会議所が共同で製作したもので、まず経済とサッカーの中で重要なのは「フェアプレー」であると説きます。その心は次のようなものです。

「スポーツマンらしからぬ態度は損失につながる。社会を犠牲にし、自分の利益だけ実現した無責任な行動は、結果的に企業自身の自由を奪うばかりか、存在そのものが危ぶまれるでしょう。公平性と責任を受け入れることは、実は成功への投資。こういうことが伴ってこそ市場の中の自由競争という“ゲーム”の中でプレーヤーとして居続けられる。」と説いているのです。

冊子では具体的にサッカーと経済を次のように対比させています。

「公正な行動を手に促すこと」(サッカー)は「従業員に研修を行うこと」(経済)。「危険なプレー」(サッカー)は「安全基準の無視」(経済)に相当する」といった具合です。

CSRは、企業が社会的な存在であるということを強く意識したものですが、そこにスポーツ価値(公平、敬意、寛容など)を使っています。これらは社会において普遍的なものということを表しているのです。

高松氏が住むエアランゲン市では、数年ごとに「スポーツフェスティバル」が行われるそうです。なにやら運動会のようなものを想像するかもしれませんが、「スポークラブ見本市」と表現するのが妥当ではないかと高松氏は言います。ちなみに同市では100程度のスポーックラブがあるそうです。会場は市内の広い緑地地帯です。2012年7月に行われたものを見ると、サッカーやハンドボールをはじめとする球技類、スカイダイビング、グライダー、サマースキーにロッククライミング、カヤック、柔道、合気道、空手、テコンドー、フェンシングと70程度のブースが並びます。大掛かりな規模の器具を設置したり、柔道マット(畳)を敷いたり、グライダーを運搬して展示するなど、壮観だと言います。会場の中央には仮設舞台が作られ、各競技の紹介や市長らも交えたゲーム、それに地元のスポーツの著名人のインタビューなどが行われたそうです。

興味深いのは、この仮設舞台で礼拝が行われたことだと言います。フェスティバルの開催が日曜日だったということもあったそうですが、日本から見るとちょっと馴染みのない風景です。仮設舞台にさっそうと現れたのが黒い僧衣姿の牧師、ユリア・アーノルド師。説教で協調されたのは「寛容」「敬意」「公平」といった価値観だったそうです。そういった言葉を書いたビニールのポールを使い、テンポよく話を進めていきます。