現実主義

ブレグマンは、「Humankind」(希望の歴史)という本を書いた目的の一つは、現実主義という言葉の意味を変えることだったそうです。現在、現実主義者という言葉は、冷笑的の同義語になっているようだと言うのです。とりわけ、悲観的な物の見方をする人にとっては、その傾向にあると言います。

しかし、実のところ、冷笑的な人は現実を見誤っていると言うのです。そして、彼は、こんなことを言っています。「わたしたちは、本当は惑星Aに住んでいて、そこにいる人々は、互いに対して善良でありたいと心の底から思っているのです。だから、現実主義になろう。勇気を持とう。自分の本性に忠実になり、他者を信頼しよう。白日のもとで良いことをし、自らの寛大さを恥じないようにしよう。最初のうちあなたは、騙されやすい非常識な人、と見なされるかもしれない。だが、覚えておこう。今日の非常識は明日の常識になり得るのだ。」

そして、この本の最後をこんな言葉で締めくくっています。

「さあ、新しい現実主義を始めよう。今こそ、人間について新しい見方をする時だ。」

この本は、2020年にオランダとアメリカで刊行されました。日本では、昨年の2021年7月に発行され、その二か月後には、2刷されています。翻訳した野中香方子さんは、あとがきで、こんなことを書いています。

本書は、発売直後から「人間の本質に迫る大作」「あらゆる格差と統合しうる一冊」「希望の書」として話題になったそうです。原書のタイトルは、アメリカ版は、「人類:希望に満ちた歴史」とあり、オランダ版は、「ほとんどの人は善良である:新しい人類の歴史」とあるそうです。では、なぜ、ブレグマンは、人間の本質の探究を思い立ったのでしょうか。前作「隷属なき道」で、彼はベーシックインカムで格差を救うというアイデアを提示したそうです。しかし、刊行当時、ブックツアーで彼がそれについて語ると必ず、「お金をばらまいても、人はろくな使い方をしない。なぜなら人間は本来、怠け者で、自分勝手で、不道徳な生き物だからだ。どうせ、酒や麻薬に使ってしまう」と反論されたそうです。

そうした反論に応えようとするうちに、ブレグマンは、冷笑的な人間観が社会に染み込んでいること、それどころか自分自身、人間に対する暗い見方にとらわれていることに気づきます。

ブレグマンはこう問いかけます。「長い間、私の関心を引いてきた問いは、なぜ誰もが人間に対してそのように暗い見方をするのか、というものだ。…何が原因で、私たちは、人間は本来邪悪だと考えるようになったのだろうか」

この疑問を追求することで生まれたのが、この本です。彼は、まずは独自取材によって、心理学の定説を覆します。そして、人類史、思想史、資本主義に至るまで、幅広い領域を網羅・統合する考察を行ったうえで、「人類の本質は善である」との結論を下したのです。そして、どうすればこの新たな人間観に基づく世界を築くことができるか、具体的な事例を挙げながら語っているのです。

そして、歴史と進化論と進化心理学の観点からもその謎を探求していきます。私たち人間は、ネアンデルタール人ほど強くなく、勇敢でなく、おそらく賢くもなかったにもかかわらず、なぜ、私たちだけが生き残ったのか。

彼の考察は、私が長い間、取り組んできた課題に対して、勇気をもらった気がします。

善行は伝染する

2010年、二人のアメリカの心理学者が優れた実験によって、善行は伝染することを明らかにしたそうです。彼らは、お互いを知らない120名の被験者が参加するゲームを企画しました。被験者は四つのグループに分けられました。初めに、各自、いくらかの現金を与えられます。グループの基金に寄付するかどうか、いくら寄付するかは自分で決めます。第一ラウンドの後、全てのグループはシャッフルされ、第二ラウンドでは、前回同じグループだった人とは一緒になりません。

次に起きたのは、正真正銘、お金が増えるトリックでした。第一ラウンドで、誰かが1ドル多く寄付した場合、そのグループの他の被験者は、次のラウンドで、平均で20セント多く寄付しました。グループのメンバーが前回とは違っていたにもかかわらずです。この効果は第三ラウンドでも見られ、被験者は平均で5セント多く寄付したのです。最終的に、1ドルの寄付が2倍以上の寄付を導きました。

ブレグマンはしばしば、この研究のことを振り返るそうです。その教えを覚えておきたいからです。善行は池に投げ込まれた小石のように、あらゆる方向に波紋を広げます。この実験を行った研究者の一人は、次のように述べています。「寛大さがソーシャルネットワークを通して、どれほど連鎖していくかは、わからないが、数十人、あるいは数百人に影響する可能性もある」

優しさは伝染するようです。それは非常に伝染しやすく、ただ遠くから眺めている人にまで伝染します。その影響を最初に研究した心理学者の一人は、ジョナサン・ハイトだそうです。1990年代末のことでした。彼は論文において、老婦人の私道の雪かきを手伝った学生について語っています。その学生の友人は、この私心のない行為を見て、後にこう記しています。「ぼくは車から飛び出して、彼を抱きしめたくなった。歌って走って、スキップして、笑っているような気分だった。ただただ快活になった。誰彼なく褒めたくなった。美しい詩やラブソングを書いたり、子どものように雪の中で遊んだり、彼の善行を誰もに話したくなった」

ハイトは、親切な行動が、人々を驚かせ、感動させることを発見したのです。彼が被験者たちに、この種の経験からどんな影響を受けたか、と尋ねると、彼らは、自分も外へ出て、誰かを助けたくなった、と答えたそうです。

ハイトはこの感情を「高揚(elevation)」と呼んでいます。人は、単純な優しい行為を見ただけで、文字通り、心が暖まるようにできています。さらに興味深いのは、人からこのような話を聞いただけで、そうなることです。まるで心のリセットボタンが押されて、冷笑的な気分が一掃され、この世界が再びはっきり見えるようになるかのようだと言います。

最後の10条は、「現実主義になろう」です。

最後に、ブレグマンが最も大切にしているルールを、私たちに教えてくれます。彼が、この本を書いた目的の一つは、現実主義という言葉の意味を変えることだったそうです。

善行を恥じない

ウィッヒマンは、このようなキャンペーンで重要なのは、その後もドアを開いたままにしておくことだ、と強調しています。2011年の夏、彼の組織はドイツの過激なロックフェスティバルで、シャツを配りました。極右のシンボルが派手に描かれたそのシャツは、ネオナチの思想を支持しているかのように見えました。しかし、洗濯すると、別のメッセージが現れたのです。「シャツにできることは、きみにもできる。わたしたちは、きみが極右から自由になるのを助けよう」

このメッセージは、安っぽく聞こえるかもしれませんが、翌週から、EXIT-Deutschlandにかかってくる電話の数は3倍になったそうです。ウィッチマンは、自らのメッセージがネオナチをいかに混乱させたかを知ったのでした。ネオナチは嫌悪や怒りを予期していましたが、救いの手を差し伸べられたのです。

9条は、「クローゼットから出よう。善行を恥じてはならない」と言っています。

手を差し伸べるために必要なものはただ一つ。それは勇気だとブレグマンは言うのです。なぜなら、手を差し伸べることで、情に流される人とか、自己顕示欲の強い人という烙印を押される恐れがあるからだといいます。「貧しい人に施しをする時、それを吹聴してはならない…」と、イエスは山上の垂訓で警告し、「祈る時は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられる父なる神に祈りなさい」と言われました。

一見、賢明な助言のように思えます。いったい誰が、聖人ぶっていると思われたいだろうとブレグマンは言います。善行は隠れて行う方がはるかに安全だと言うのです。あるいはせめて、次のような言い訳を用意しておきたいといいます。「忙しくしていたいだけだよ」「どのみち、要らないお金だから」「履歴書が立派になると思ってね」

人は親切心から行動しても、しばしば利己的な動機をでっちあげることを、現代の心理学者たちは発見しました。これは、ベニヤ説が最も定着している、個人主義の西洋文化において、最もよく見られます。それは理にかなっているといいます。つまり、もしあなたがほとんどの人は利己的だと仮定しているのなら、どんな善行も本質は疑わしいからだというのです。あるアメリカの心理学者が記している通り、「人は、自分の行動が純粋な思いやりや、親切心からのものであることを、認めたくないようだ」

あいにく、この遠慮はノセボのような働きをするといいます。あなたは利己主義のふりをすることによって、他の人々の人間の本性に対する冷笑的な見方を強化します。なお悪いのは、善行を隠すことだといいます。そうすると、他の人はそれをお手本にできません。実に残念なことだとブレグマンは言います。なぜなら、「ホモ・パピー」の秘密のスーパーパワーは、互いを真似るのがきわめてうまいことだからだというのです。

しかし、彼は、誤解しないでほしいと言います。他の人を刺激するために、自らの善行をひけらかす必要はありません。また、善を支持するために、自らの善行を吹聴する必要もありません。山上の垂訓で、イエスは弟子たちにそれを戒める一方、別のことを奨励しています。「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」

別の道

ブレグマンの挙げる8条は、「ナチスを叩かない」です。

もし、あなたがニュースの熱心な崇拝者なら、絶望感にとらわれるのは簡単だと彼は言います。知らん顔をしている人々がいるのに、リサイクルや、税金を払うことや、チャリテイへの寄付に、何の意味があるだろうというのです。

もし、そんな考えか浮かんだら、冷笑主義は「怠惰」の言い換えにすぎないことを思い出そうと彼は問いかけます。それは責任をとらないための言い訳だというのです。もしあなたが、ほとんどの人は腐ったリンゴだと思っているのなら、不正に立ち向かう必要はないといいます。いずれにしても、世界は崩壊するからです。

また、シニシズムに怪しいほど似た、積極行動主義も存在します。彼らは慈善家ですが、その主な関心は、自己イメージにあるといいます。自分はすべてを知っていると思い込み、他者を思いやることなく、偉そうにアドバイスします。悪いニュースは、彼らにとっては良いニュースです。なぜなら、「地球温暖化が加速している!」とか、「不平等は思っていたより悪い状況だ!」といったニュースは、自分たちが正しいという証拠になるからです。

しかし、ドイツのヴンジーデルという小さな町が示したように、別の道もあるといいます。1987年、ヒトラーの腹心だったルドルフ・ヘスが獄中で自殺し、ヴンジーデルの墓地に埋葬されると、その町はネオナチの聖地になりました。現在でも、毎年へスの命日である8月17日には、スキンヘッドのネオナチが暴動や暴力が起きるのを期待しつつ、町中を行進するのです。

そして毎年、まさにそのタイミングで、反ファシズム主義者がこの町にやってきて、ネオナチの望みどおりの状況をもたらすのです。当然ながらマスコミのカメラは、誰かがナチを殴るさまを映し出します。しかし後に、それは逆効果であることがわかるのです。中東への爆撃が、テロリストにとってマナという、神がイスラエルの民に与えたとされる食べ物であるように、ナチを殴っても、彼らを力づけるだけです。彼らはそれを自分たちの正当性の裏づけと見なし、新兵の勧誘がしやすくなります。

そこでヴンジーデルは、異なる戦略を試すことにしたそうです。2014年、反ナチ組織EXIT-Deutschlandを率いる冗談好きのドイツ人、ファビアン・ウィッヒマンが、絶妙なアイデアを思いつきました。ルドルフ・ヘスのための行進を、チャリテイウォークにしたらどうだろう?ヴンジーデルの住民は、そのアイデアを気に入りました。ネオナチが歩いた1メートル毎に、町の人々は10ユーロをEXIT-Deutschlandに寄付するのです。そのお金は、極右グループからの脱退の支援に使われます。

イベントに先立って、町の人々は街路にスタートとゴールのラインを引きました。そして、行進に感謝する垂れ幕をつくったのです。一方、ネオナチは何が起きようとしているのかを知りませんでした。当日、ヴンジーデルは大歓声で彼らを迎え、ゴールラインに到着すると、紙ふぶきを浴びせたのです。このイベントは、正しい目的のために2万ユーロ以上を生み出したのです。

自ら愛す

愛は小さな愛から始まると言います。自己嫌悪に悩まされている人が、他の誰かを愛せるでしょうか。家族や友人を大切にしない人が、世界の重荷を担うことができるでしょうか。小さなことをうまく扱えるようになって、ようやく大きなことを引き受けることができるのです。あの193名のオランダ人乗客の中には、研究者から人権擁護家まで、この世界をより良くしようとしていた人々が数多く含まれていました。それでも彼らの死を最も嘆いたのは、彼らに最も近しい人々だったはずです。

わたしたちは人を区別します。えこひいきしますし、身内や自分に似た人々のことをより気にかけます。それは恥ずかしいことではありません。それがわたしたちを人間にしているのだとブレグマンは言うのです。それでも理解しなければならないのは、他の人々、遠くの見知らぬ人々にも、愛する家族がいることです。そして彼らもまた、あらゆる点でわたしたちと同じ人間であることだということです。

7条は、「ニュースを避けよう」を挙げています。

今日、遠い地域についての最大の情報源になっているのは、ニュースです。夜のニュース番組を見ると、現実をよく知っている気分になるかもしれませんが、実のところニュースは、あなたの世界観を歪めているとブレグマンは言います。ニュースは人々を、政治家、エリート、人種差別主義者、難民といったグループにくくりがちです。なお悪いことに、ニュースは往々にして、「腐ったリンゴ」に焦点を絞ります。

ソーシャルメディアについても同じことがいえるといいます。少数の不良が遠くで叫んだヘイトスピーチが、アルゴリスムによってフェイスブックやツィッターのフィードの上部にプッシュされます。これらのデジタル・プラットフォームは、わたしたちのネガティビティ・バイアスを利用して儲けていて、人々の行動が悪くなればなるほど、利益が増えるのです。なぜなら、悪い行動は人々の注目を集めて、クリック数を増やし、クリック数が多ければ多いほど、広告費は上がるからです。このことがソーシャルメディアを、人間の最悪の性質を増幅するシステムに変えたのです。

神経学者は、わたしたちのニュースとプッシュ通知に対する渇望は、一種の中毒だと指摘するか、シリコンバレーはずっと前からそれに気づいていました。フェイスブックやグーグルのような企業の経営者は、自分の子どもに対しては、インターネットと「ソーシャル」メディアに費やす時間を、厳しく制限しているそうです。教育の専門家が、学校でのipadの活用やデジタルスキルの教育を褒めそやしている裏で、ハイテク企業のエリートは、麻薬王さながらに、自分の子どもたちがその有害な事業に取り込まれないようにしているのです。

では、わたしのルールは何でしょう。それをブレグマンは、紹介しています。テレビとプッシュ通知を遠ざけ、オンラインでもオフラインでも、もっと繊細な新聞の日曜版や、もっと掘り下げた著述を読みます。スクリーンから離れて、人々と直に会うのです。自分の体に与える食べ物と同じくらい、心に与える情報についても慎重になるのです。

では、彼のあげる8条は、何でしょうか?それは、「ナチスを叩かない」です。

人との距離

マレーシア航空のポーイング777型機が、ウクライナのクラボヴォ村の外れに墜落し、ブレグマンが、そのニュースを初めて聞いた時、あまり実感を伴いませんでしたが、その後、オランダの新聞を読んで、衝撃を感じたそうです。その記事は、カレイン・カイザー(25歳)とローレンス・ヴァン・デル・グラーフ(30歳)の写真から始まります。飛行機に乗り込む直前に自撮りした、巻き毛の女性とブロンドの男性の、とても幸せそうな写真です。記事によると、二人はアムステルダムのボートクラブで出会いました。ローレンスは、優れた学生新聞「プロプリア・クーレス」に執筆し、カレインはアメリカで博士号を取得する直前でした。

そして、二人は深く愛しあっていました。

「二人はいつもお互いに夢中で、いつも一緒にいる幸せなカップルだった」という友人の言葉が紹介されていました。ブレグマンは、新聞の7ページ目の、イラクでの残虐行為に関する記事は読み飛ばしたくせに、この二人の記事を読んで泣きそうになりました。偽善的ではないか、と彼は自問したそうです。往々にして、この種の報道は彼を悩ませるそうです。たとえば、船が沈没して、乗客全員が亡くなった時に、オランダの新聞は「二人のオランダ市民がナイジェリア沿岸で死亡した」と報じます。

そうは言っても、人間には限界があります。わたしたちは自分に似た人、同じ言語を話し、外見や背景が似通った人々のことをより気にかけます。ブレグマンも、かつてはオランダの大学生で、大学のクラブに所属し、そこでゴージャスな巻き毛の女性と出会ったそうです。また、学生新聞「プロプリア・クーレス」に寄稿するのが好きだったそうです。ローレンスの友人は、同紙の追悼記事にこう書いています。「ローレンスを知る人にとって、彼のパワフルな動きを止めるのに対空ミサイルが必要だったことは、驚くに値しない」。

亡くなる数時間前に、彼らが自撮りした笑顔の写真を新聞社に送ったのは、カレインの兄弟でした。「どうかオランダと世界に、わたしと姉妹と両親が経験している痛みを伝えてほしい。これはオランダの数百人の人々の痛みなのだ」と彼は記しています。

彼の言う通りでした。オランダ人の誰もが、その飛行機に乗った人を知っている誰かと知り合いだったのです。この時、ブレグマンは、オランダ人に対して、それまで抱いたことのない気持ちを抱いたそうです。なぜ、わたしたちは自分と似ている人のことを、より気にかけるのでしょうか。ブレグマンは、悪は遠くから仕事をすることを語っています。距離は人に、インターネット上の見知らぬ人への暴言を吐かせます。距離は兵士に、暴力に対する嫌悪感を回避させます。そして距離は、奴隷制からホロコーストまで、歴史上の最も恐ろしい犯罪を可能にしてきました。

しかし、思いやりの道を選べば、自分と見知らぬ人との距離が、ごくわずかであることに気づくだろうと言います。思いやりは、あなたに境界を越えさせ、ついには、近しい人や親しい人と、世界の他の人々が、等しく重要に思えるようになります。そうでなければ、ブッダは、家族を捨てたでしょうか。そうでなければ、キリストが弟子に、父と母、妻と子、兄弟と姉妹を置き去りにせよと説いたでしょうか。

もっとも、これらは極論と見なしていいだろうとブレグマンは言います。

理性的な決断

わたしたちは日々、理性的な議論や証拠を使用し、法とルールと同意に基づく社会を築いています。人間は、自分が思っているよりはるかに上手に考えます。理性の力は、わたしたちの感情的な性質を覆う薄い膜ではなく、わたしたちが何者であり、何が人間を人間にしているかを語る本質的な特徴なのだと言います。

ブレグマンは、刑務所に関するノルウェーの構想を振り返っています。それは直観に反するように思えますが、理性を働かせて再犯率を調べてみると、犯罪者を扱う優れた方法であることがわかると言います。あるいは、ネルソン・マンデラの政治倫理を思い出しています。彼は常に、口を閉ざし、感情を抑え、明敏かつ分析的であり続けました。マンデラは、優しいだけでなく鋭敏でもありました。他人を信頼することは、感情に基づく決断であると同時に、理性的な決断でもあるのだとブレグマンは言うのです。

当然ながら、他の人を理解するために、その人に同意する必要はありません。ファシスト、テロリスト、あるいは『ラブ・アクチュアリー』のファンが、どう考えているかは、ファシスト、テロリスト、あるいは感傷的な映画のファンにならなくても理解できると言います。そして、ブレグマンは、自分は、その最後のグループの誇り高い一員であることを言っています。他者を理性のレベルで理解するのは一つのスキルだと言います。それは、鍛えることのできる筋肉です。

理性の力がとりわけ必要とされるのは、感じのいい人でいたいという欲求を抑制する時だと言います。わたしたちの社交的本能は、時として、真実と公正さの妨げになります。そこで、ブレグマンは、考えてみようと呼びかけています。わたしたちは、誰かが不当な扱いを受けているのを見ても、面倒な人間だと思われたくなくて、口をつぐむことはないでしょうか。平穏さを保つために、言いたいことを飲み込むことはないでしょうか。権利のために闘う人々を非難したことはないでしょうか。

このことは、ブレグマンは、このテーマを考える上で抱える、大きなパラドクスだと思っています。人間は社会的な動物になるために、進化してきたと彼は論じていますが、時として、その社会性が障害になることがあると言います。歴史が語るのは、進歩はしばしば、ビュートゾルフのヨス・デ・ブロークやアゴラのシェフ・ドラムメンのように、他の人から見たら、偉そうな、あるいは不親切に思える人々から始まるということです。彼らは、公の場で堂々と自説を主張できる、ずぶとい神経の持ち主だと言います。あなたを不安にさせる不愉快な話題を持ち出す人々だとも言います。

このような人々を大切にしようと言います。彼らこそ、進歩の鍵なのです。

そして、6条は、「他の人々が自らを愛するように、あなたも自らを愛そう」です。

2014年7月17日、マレーシア航空のポーイング777型機が、ウクライナのクラボヴォ村の外れに墜落しました。乗客と乗員は298名で、うち193名はオランダ人でした。親ロシア分離主義者が撃墜したのです。生存者はいませんでした。ブレグマンが、そのニュースを初めて聞いた時、298名が亡くなったことは、実感を伴いませんでしたが、その後、オランダの新聞を読んで、みぞおちを殴られたような衝撃を感じたそうです。

共感と思いやり

リカールとの次のセッションでは、シンガーは別のことを試みました。彼女は再びルーマニアの孤児について、考えることを求めましたが、今回は、孤児の境遇に身を置いて、孤児と共に感じるのではなく、リカールが長年磨き上げてきたスキルを用いて、孤児のために感じることを求めました。リカールは、孤児たちの苦悩を共有するのではなく、彼らへの優しさ、気遣い、思いやりを呼び起こすことに気持ちを集中させたのです。彼らの苦悩を自分も経験するのではなく、それとの間に距離を置いたのです。

モニターを見ていたシンガーには、すぐに違いが分かりました。リカールの脳では、以前とは異なる部分が明るくなったのです。前回は前島が光りましたが、今、光っているのは、線条体と眼窩前頭皮質だったのです。

何が起きたのでしょうか?リカールの新しい精神活動は、わたしたちが「思いやり」と呼ぶものです。共感と違って思いやりは、エネルギーを搾りとりません。事実、前回に比べて、リカールは、はるかに気分が良かったのです。なぜなら、思いやりは、よりコントロールしやすく、客観的で、建設的だからです。思いやりは、他者の苦悩を共有することではなく、それを理解し、行動するのに役立ちます。それだけでなく、思いやりは、わたしたちにエネルギーを注入します。それは他者を助けるために必要なものなのです。

他の例としては、たとえば、あなたの子どもが暗闇を怖がっているとします。この場合、共感とは、子どもと一緒に、部屋の隅にしゃがみ込み、声をひそめて話すことです。一方、思いやりとは、子どもを落ち着かせ、怖がる必要はないとなだめることです。当然、あなたはそうするでしょう。

では、わたしたちは皆、マチウ・リカールに倣って暝想を始めるべきなのでしょうか?最初、ブレグマンは瞑想にニューエイジっぽいイメージを持っていたそうですが、実のところ、瞑想によって思いやりを鍛錬できるという、科学的証拠がいくつかあるそうです。脳は鍛えることのできる器官なのです。そして、運動で体形を維持できるのであれば、心に対しても同じことをしてみてはどうだろかとブレグマンは提案しています。

第5条は、「他人を理解するよう努めよう。たとえその人に同意できなくても」です。

正直に言うと、ブレグマンは、瞑想に挑戦しましたが、今のところ、あまりうまくいっていないと言います。どういうわけか、eメールやツィートに邪魔されたり、トランポリンで遊ぶヤギの動画に、気をとられたりすると言うのです。それに、彼は、「五万時間の瞑想だって?申し訳ないが、わたしにも生活がある」というのです。

幸い、ズームアウトする方法は他にもあると言います。それは18世紀の啓蒙哲学者が選択した方法、すなわち、理性、あるいは知性を働かせるのです。物事を合理的に理解する能力は、脳のさまざまな領域を動員する心理プロセスです。理性によって何かを理解しようとすると、前頭前皮質が活性化します。それは、額のすぐ後ろにある領域で、人間のものは動物の中で例外的に大きいのです。

もっとも、この皮質が重大な過ちを犯すことを示す研究は、無数にあるそうです。人間は常に理性的なわけではなく、冷静でもないことを、それらは語っています。しかし、ブレグマンは、そうした報告を過大評価すべきではないと考えていると言います。

白金律

ブレグマンは、「自分がされたくないことを人にしてはいけない」という黄金律では不十分だと考えるに至ったそうです。彼は、以前のブログで紹介したように、共感が悪いガイドになる可能性について触れています。他者が何を望んでいるかを、わたしたちは常に正しく理解しているわけではないと言うのです。自分にはそれがわかっていると考えている経営者、CEO、ジャーナリスト、為政者は、他者の声を奪っているに等しいと言うのです。テレビでインタビューされる難民をほとんど見かけないのも、民主主義とジャーナリズムがたいてい一方通行になっているのも、福祉国家が父権主義に染まっているのも、すべて、他者が何を望んでいるかを自分はわかっていると思いこんでいるせいなのだと彼は言うのです。 それよりも、質問から始める方が、はるかに良いだろうと言います。ポルト・アレグレの市民参加型民主主義のように、市民に発言をさせようと提案します。ジャン・フランソワ・ゾブリストの工場のように、従業員に自分のチームを指揮させようと提案します。シェフ・ドラムメンの学校のように、子どもたちに学習計画を立てさせようと提案します。

黄金律のこのバリエーションは、「白金律」と呼ばれますが、ジョージ・バーナード・ショーが、その本質をうまく言い当てているそうです。「自分がしてもらいたいと思うことを他人にしてはいけない。その人の好みが自分と同じとは限らないからだ」

次の4条は、「共感を抑え、思いやりの心を育てよう」です。

白金律が必要とするのは共感ではなく、思いやりだと言います。その違いを説明するために、チベット仏教の僧侶マチウ・リカールをブレグマンは紹介しています。彼は、自分の思索をコントロールする伝説的な力を持つ人物です。「もしあなたが、そんな力を身につけたいと思うのであれば、彼がそうなるために要した五万時間の瞑想に精を出しなさい、というのがわたしからのアドバイスだ」と言います)

数年前、リカールは、神経学者のタニア・シンガーの研究に協力して、脳をスキャンしたそうです。シンガーが知りたかったのは、共感を感じている人の脳内で、何が起きているかということ、さらに重要なこととして、共感に代わるものがあるかどうか、だったそうです。

その準備として、前の晩、シンガーはリカールに、ルーマニアの孤児についてのドキュメンタリーを見せました。翌朝、シンガーは、これからスキャナーに入ろうとするリカールに、孤児のうつろな目、か細い手足を思い出すことを求めました。リカールは、彼女の言葉に従い、ルーマニアの孤児がどういう気持ちだったかを、できるだけありありと想像しました。脳画像では、前島が活性化していたそうです。耳のすぐ上にある脳領域です。

一時間後、彼は打ちひしがれていました。

これが、共感がわたしたちに与える影響だと言います。それは人を消耗させます。後の実験で、シンガーは一群の被験者に対し、一週間のあいだ毎日、15分間目を閉じて、できるだけ深く他者に共感することを求めました。15分は彼らが耐えられる限界でした。その一週間が終わると、被験者は皆、以前より悲観的になっていたのです。ある女性は、列車に乗り合わせた客を見ても、苦しみしか見えなくなったと言いました。

黄金律

この200年間、哲学者と心理学者は、純粋な利他主義は存在するのか、という問題に頭を悩ませてきました。しかし率直に言って、その議論自体、ブレグマンは、意味がないと言います。誰がそんなに親切にするたびに、気分が悪くなる世界に暮らしていることを想像してみるといいと言います。そんな世界はまるで地獄です。

良いことをすると、気分が良くなる世界に生きているというのは、素晴らしいことです。わたしたちは食べ物を好むのは、それがなければ飢えるからです。セックスを好むのは、それをしなければ絶滅するからです。人助けが好きなのは、他者がいないと自分もいなくなるからです。良いことをすると気分が良くなるのは、それが良いことだからだと彼は言うのです。

悲しいことに、無数の企業、学校、その他の機関は、誤った通説を土台として組織されていると言います。その通説とは、「人間は本質的に、常に互いと競いあうようにできている」と、いうものです。ドナルド・トランプは、その著書『大富豪トランプのでっかく考えて、でっかく儲けろ』(Think Big and Kick Ass)でこうアドバイスします。「相手ではなく、自分に勝ち目があるうちに、敵を粉砕し、自分のためになるものを奪い取れ」。

実のところ、これは逆だと言うのです。最善のシナリオは、すべての人が勝者になるものです。ノルウェーの刑務所はどうだったでしょうか。そこはより快適で、より人道的で、より経済的でした。オランダのヨス・デ・ブロークが始めた、在宅ケア組織は?低コストで上質なケアを提供し、スタッフの賃金は高く、スタッフと患者の双方が満足しています。これらは誰もが勝者になるシナリオです。

同じように、許しに関する文学も、他者への寛容さが自分のためになることを強調しています。それは、人間の天分であるだけでなく、良い取引でもあると言います。なぜなら、許すことができれば、反感や悪意にエネルギーを浪費しないですむからだと言うのです。事実上、自分を解放することになるのです。「許すことは、囚人を自由にすることだ」と、神学者のルイス・B・スメデスは書いているそうです。「そして、その囚人が自分だったことに気づくことだ」

次に挙げた第3条は、「もっとたくさん質問しよう」です。

世界史上の、ほぼすべての哲学に共通する黄金律は、「自分がされたくないことを人にしてはいけない」というものです。この教えは、2500年前の中国の思想家、孔子がすでに述べています。その後、ギリシアの歴史家へロドトスや、プラトンの哲学にも登場し、数百年後、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典に組み込まれました。

最近では、何十億人もの親が、わが子に、この黄金律を繰り返し教えているそうです。それには二つの形があると言います。「自分がそうされたいと思うように、他の人に接しなさい」という積極的教えと、「自分がされたくないことを他人にしてはいけない」という消極的教えです。神経学者の中には、この教えは数百万年にわたる人類進化の産物であり、わたしたちの脳に、プログラムされている、と考える人さえいます。