高松氏は、ドイツでのスポーツを考察する中で、文化に根差したものとしての言語の翻訳の難しさについて書いています。柳父章さんの著書『翻訳語成立事情』を参考にしてこんなことを言っています。ドイツでは「寛容」とか「尊厳」「民主主義」などと言う言葉は日常的であるのに反して、日本では、これらの言葉が大げさに感じられるのは、これらの概念のほとんどは欧米から「輸人」されたものだからだと言うのです。「社会」という言葉もそうで、日本にはもともとなかったものです。ですから先人は訳語を作るのに苦労しています。
柳父氏は、特に「社会」「個人」「近代」という翻訳語は、学問、思想の基本用語で、学校の教科書や新聞などにもよく出る言葉でありながら、日本の家庭の茶の間での家族どうしとか、職場の仲間どうしのくだけた会話の中では、まず口にされることはないだろうと言います。つまり、これらの言葉は使われる場所が限っていて、日常生活の場の用語ではないというのです。すなわち、日本の学問・思想の基本用語が、私たちの日常語と切り離されているというのです。それは、幕末から明治にかけて、翻訳のために作られた新造語だからだというのです。その代表が、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」であり、日本語としての歴史を持ち、日常語の中にも生きてきた言葉ですが、同時に翻訳語として新しい意味を与えられた言葉として、「自然」「権利」「自由」「彼」を挙げています。
同じように訳語によって誤解を生じやすいものに、エデュケーションを訳した「教育」があります。私がよく説明することに、もともとの英語には、外に引き出すという意味があるため、この言葉が日本に入ってきたときに福沢諭吉は「自ら発するものを育む」ということから「発育」と訳しています。高松氏の説明によると、ドイツでは、「教育」を意味する単語が複数あるそうです。そのうちのひとつに「引き上げる」といったラテン語がもとになっているものがあるそうです。一般にいろいろなものをやってみて、もし才能があることがわかり、それを続ける意欲があれば、それを「引き上げる(伸ばす)」という考え方が、この言葉の語源からわかると言っています。それに対してアジアにおける教育は、「仕立て上げる」という意味合いを持つと言っています。
このように、外国語を日本語に訳すときに、訳した人の思いが込められて、もともとの意味と違ってしまうことがあり、その後までその言葉に誤解を生じてしまいかねません。また、その言葉を使う分野によってもその意味が違ってくることがあり、その違いが誤解を生じることもあるようです。その一つが、アタッチメントを訳した「愛着」があると思っています。
服のメーカーであるワコールのブログには、こんな面白い解説が書いてありました。「『愛着』とは、なれ親しんだものに深く心を引かれ、大切にしたい、手放したくないと思うこと。語源は仏教語の『愛着(あいじゃく)』で、欲望にとらわれて離れられない煩悩を指すらしい。『頓着(とんじゃく・とんちゃく)』や『執着(しゅうちゃく)』の類語だが、これらの重さに比べると、愛着は無邪気でポジティブでかわいい。『着』という字が含まれているおかげで、服や下着との親和性がバツグンに高いのも、このコトバの素晴らしさだ。『愛着のある下着』『愛着のあるマフラー』『愛着のあるぬいぐるみ』など、肌に直接触れるモノのここちよさや愛おしさを伝えるのに、これほどふさわしい表現はないだろう。」