スタート

 先日、近くの小学校の保幼小合同会議に出席しました。この小学校へは。毎年卒園して入学する子が数人のために、今までは参加していなかったのですが、今回、私に参加する時間が取れたことと、この小学校の校長が今年赴任した人でしたのでどのような考え方なのだろうかということと、意見交換のテーマが「子供の自立について」でしたので、小学校では自立をどう考えているのか興味があったので参加しました。

 どの地域でも、小学校との連携は課題があります。確かに、このような会議は開かれているのですが、小学校との認識のギャップに悩んでいる話はよく聞きます。今回も、近隣の幼稚園、保育園の職員15名ほどの参加でしたが、その前の公開授業の参加にしても、どうも、卒園児が小学校に行って、ちゃんとやれているのかが気になるようです。意見交換の場で、校長が幼少連携の中で盛んに強調していたのが「スタートカリキュラム」についてでした。

 小学校では、昨年の平成23年4月から新学習指導要領が実施されています。文科省では、それについて「新しい学習指導要領は、子どもたちの現状をふまえ、“生きる力”を育むという理念のもと、知識や技能の習得とともに思考力・判断力・表現力などの育成を重視しています。これからの教育は、“ゆとり”でも、“詰め込み”でもありません。次代を担う子どもたちが、これからの社会において必要となる“生きる力”を身に付けてほしい。そのような思いで、新しい学習指導要領を定めました。“生きる力”を育むためには、学校だけではなく、ご家庭や地域など社会全体で子どもたちの教育に取り組むことが大切です。子どもたちの未来のために。新学習指導要領、スタート。」

 この改訂の「改善の基本方針」という中で、生活科の課題の一つにこう書かれてあります。「小1プロブレムなどの問題が生じる中,小学校低学年では,幼児教育の成果を踏まえ,体験を重視しつつ,小学校生活に適応すること,基本的な生活習慣等を育成すること,教科等の学習活動に円滑な接続を図ること,などが課題として指摘されている。そもそも生活科新設の趣旨の中には,幼児教育との連携が重要な要素として位置付けられており,その意味からも,小1プロブレムなどの問題を解決するために,生活科が果たすべき役割には大きなものがある。そこで,これまでも重視してきた幼児と児童の交流等をはじめとした幼児教育との連携を,一層推進することが改めて重要であるとされたのである。」

 そして、その内容について?幼児教育及び他教科との接続として「幼児教育との接続の観点から,幼児と触れ合うなどの交流活動や他教科等との関連を図る指導は引き続き重要であり,特に,学校生活への適応が図られるよう,合科的な指導を行うことなどの工夫により第1 学年入学当初のカリキュラムをスタートカリキュラムとして改善することとした。」と書かれてあるところの「スタートカリキュラム」を校長は強調したのです。

 各学校では、この趣旨に基づいてスタートカリキュラムさ作成し、実施しています。先日の公開授業でもこのような部分からの公開でした。私は、保育所保育指針や幼稚園教育要領を読むとき、その具体的な例や、研究者による解説ではなく、直接、その文言から考えることが多いので、この学習指導要領も直接読んで、その文言の通りに理解すると、実際に小学校のやっていること、校長の言うことに少し違和感を感じます。ただ、それは、幼児教育側からの見方であり、小学校から幼児教育への要望とは違うことは仕方ないことかもしれませんが、そこをすり合わせていくのが、幼保小合同会議だと思うのです。

 もう少し考えてみたいと思います。

集団規模の拡大

小学校では、1学級における人数が議論されます。1958年に「義務教育標準法」が制定された際、1学級当たり50人が「標準」とされました。ただ、切り上げですので、ひと学年に51人いると、2クラスになり、25人と26人になります。ただ、ひと学年99人では、50人と49人になります。それが、64年に45人、80年には40人と段階的に引き下げられました。そして、01年度からは都道府県教育委員会の裁量で弾力的な学級編成が可能になり、東京都以外の道府県は何らかの形で40人以下学級を編成しているようです。

私が教員をしていたのは、75年から78年あたりでしたので、1学級あたり45人が標準でした。ですから、私が担任したクラスは、ほぼ42?3人でした。それが、教員を辞める最後のクラスは36人でした。そのときに、ずいぶんと少ない気がしました。というのは、クラスで係りを決めるときに、どうしても子どもが足りないのです。一斉に管理しようとするときには、少ないほうがやりやすいのですが、子ども同士でいろいろと分担してもらいためには、いわゆる駒が足りないのです。また、私は、クラス経営をするときに、この子にはこんな役割、こちらの子にはこの役割とクラスの中でなんとなく想定します。たとえば、何かを教えると、この子はそれに反対し、こちらの子は賛成し、この子は、それを調整し、こちらの子はそれをまとめるといったように、その子の特性を生かした役割を決めてクラスを運営していくのですが、少ないと、何かの役割をする子が足りないということがあり、あまり少人数学級ではやりにくいと思ったものでした。

 保育園、幼稚園の中には、大規模園があります。園選びの際、大規模園がいいのか、小規模園がいいのか迷う保護者もいます。それは、それぞれのよさがあるでしょうが、村とか、国とか、大きいほうが影響力が大きく、発言力が強いということもあり、拡大政策をとっていた時期もありました。確かに、集団規模としては原則的には、大きいほうがいいといわれています。大きいほうが外敵に対する力が強くなり、集団生活の便利さも大きいほど増してきます。

 しかし、あまりに大きくなると、統率がとりにくくなります。また、個別の認識もしにくくなります。それは、集団を形成する他の生き物に対して、サルなどの場合は、集団のなかで序列を作って統率されているためには、一人ひとりの認識が必要になり案巣。相手が誰で、自分より上位か下位かが分かっていないと健全な社会を営むことができないと言われています。つまり、顔見知り同士、相手のさまざまなことを記憶できる範囲の数しか仲間になれないというのです。その理由から、思考や記憶を司っている大脳新皮質の大きさと集団の大きさが比例するというのです。

 私の園では、園の園児、職員の総数は150人ほどですので、職員は、すべての園児と顔見知りです。その深さはそれぞれですが、赤ちゃんでも、私の姿は意識しています。いつも見る顔だなあと思っているようです。しかし、実際は、毎日その数だけの人の中で生活しているわけではありません。散歩に行くと、子どもたちは近所の人に挨拶をします。ある人には、その姿が見えないと大きな声で愛称を呼びます。園には、さまざまなボランティアの人も訪れます。いつも木工を指導に来てくれる人を子どもたちは待っています。どうも、認識できる人の数は、脳のサイズを上回っているようです。

 どうやって、脳における認識できる数を上回ることが出来るのでしょうか。そして、古代の人たちは、その大人数をどうやって統率していたのでしょうか。

集団規模

 少し前に、千代田区議会議員の勉強会に呼ばれたときに保育園の規模について聞かれました。そのときの私が答えたのは、保育園という施設は、最近は地域コミュニティーの中心となることもあるので、統廃合して机上の計算での規模の施設を作るのはどうかということでした。単純に、100名近くの入園希望者が2地区あるとき、建設費とか、建設地の問題で200名定員の園を一つ作ることが最近多いようですが、私は、100名規模の園を2箇所に作ったほうがいいということを答えたのです。それは、保護者にとって近くに出来るので送り迎えに便利ということだけではなく、それぞれの地域のコミュニティーにとって、子どもの施設は点在したほうがいいという考えです。最近の親のネットワークは、かつての「学校区」というくくりから「保育園区」というようになりつつあるようです。大変な子育て時期を共有した保護者のネットワークは、子どもが成長しても続いているようです。

 しかし、それとは別に、集団規模としてどのくらいがいいのでしょうか。幼稚園、保育園などの定員として、どのくらいの規模が子どもたちにとっていいのでしょうか。どうしても、幼稚園規模は経営的な採算面から考えることが多いようですし、保育園は、敷地の大きさから決めることが多いようです。私の園は、保育園には、園児、職員すべてで148名です。では、本来に人間というものは、どのくらいの集団規模で過ごすような機能を持ち備えているのでしょうか。

 イギリスのオックスフォード大学の人類学者であるロビン・ダンバー博士が提唱する「ダンバー数」というものがあります。私たちヒトを含めたサルの仲間は、脳の中で意識的な思考や記憶を司る大脳新皮質のサイズと、ひとりもしくは1頭が一度に築ける関係、集団のサイズが比例するという説です。それは、私たちが一人ひとりをきちんと認識できる数ということになるのです。それによると、たとえば、テナガザルはおよそ15匹、ゴリラ34匹、オランウータンは65匹にあるそうです。では、私たち人間の集団の大きさは、なんと148人になるのだそうです。まさに、私の園の集団の数は、まったく同じ数字になっているのです。

 ダンバー博士は、世界各地の約20の狩猟採集民を調べ、その平均的な集団サイズをつきとめたそうです。集団サイズといっても、何を条件にするかで数は違ってきます。たとえば、普段一緒に移動して、狩りをしたり、寝泊りしたりする集団となると30?50人が平均だそうです。園でいうと、クラス集団ということになるのでしょうか。これが狩猟採集民の最小ユニットです。博士が注目したのは、「氏族(クラン)」と呼ばれる単位で、これは普段の生活は別々だが、同じ狩り場や水場を利用したり、時折集まっては祭りや儀式を行う、いわゆる顔見知りのもの同士のネットワークの大きさです。その数は平均で153人だったそうで、脳のサイズから算出した数とほぼ一致しているということを証明したのです。

 この数が当てはまるのは狩猟採集社会だけでなく、古代から現代社会まで、文明社会を構成する集団にもよく合致する数のようです。たとえば、紀元前100年頃のローマ軍の歩兵中隊は120?130人、近代的軍隊では最小の独立部隊となる中隊の人数は130?150人、学究研究で研究者同士が注目しあえる領域は100?200人の研究者がいる範囲で、研究者の数がそれを超すと、いくつかの領域に細分化されていくようです。

 さらに、博士はフェイスブックなどソーシャル・ネットワーク・サービスについても調べたのですが、ほとんどの人は200人以下の平均的な数の友達しかおらず、200人以上いる人はほんの一握りだということ、友達が200人以上いる人でも、そのうち相当数は相手のことをほとんど、あるいはまったく知らないということでした。

このように私たちは、自分の脳の大きさだけに頼るのであれば、150?200人程度のネットワークが上限になっているようです。

異年齢集団による協力

 人材は、時代の要請によって作られ、その時代において何が有能であるかによって教育がされていきます。今の時代において、どのような人材が必要とされているのでしょうか。世界の中でピサの学力調査で上位を占める子達が必要なのでしょうか。大阪の教育基本条例の草案を作った大阪市議は、サッチャー時代の英国の教育改革に影響されたそうです。しかし、最近のイギリスにおける若者の暴動を見ると、ブレア時代の教育政策により、格差社会を生んでしまったことにあり、また、サッチャー政権時代に経済が飛躍的に成長した最大の原因は、北海から石油が出た事と、英財務省の調査で、2007年には英国上場企業の約半数が外資の傘下に入っている事だと吉田氏は思っているようです。そして、英国の人口のなんと10人に1人がより良い質の生活を求めて海外移住しているそうです。日本において、学力が日本一であると言われる秋田県は、やはり県外流出率が非常に高いことでも知られています。なんだか、共通なものが見えてきます。

大阪の「維新の会」の改革の是非はともかく、強固なまでの過去からの脱皮に対する抵抗に対するのには、あれくらい極端で、強硬で、強引でないとだめなのかもしれませんね。明らかに、幼児教育においても、異年齢児集団による子どもの育ちの優位性がはっきりしているのに、かたくなに一斉画一の生年月日別保育をしようとすることから帰ることも難しいですね。しかし、20世紀を通してみると、競争社会を形成し、成果主義で人が簡単にクビになる米国よりも、年功序列制や終身雇用制を維持してきた日本の方が成長率ははるかに高いということは、日本人特有の協力、協調社会を構築することによって、学力が向上するのだと思います。

NHKで放送されている「坂の上の雲」での悲惨さは、その時代における要請によって、国を憂える人々によって起こされたもので、個人的に誰が悪い、誰がいいという問題ではありません。この戦いにおいて大山巌と東郷平八郎という両将が、ほんの近くで生まれ育ったこと、その近くには、ほかにも西郷隆盛、大久保利通も生誕し、育ったことは改めて驚きを感じます。


この人材の教育は、何度もブログで取り上げた鹿児島の『郷中教育』という薩摩藩の伝統的な縦割り教育によるものです。郷中とは、町内の区画や集落単位の自治会組織のことで、当時、鹿児島の城下には数十戸を単位として、およそ30の郷中があったと言われます。郷中は、青少年を「稚児(ちご)」と「二才(にせ)」に分けて、稚児のリーダーとしての稚児頭、また、二才のリーダーとして二才頭が、二才と稚児の面倒をみていました。勉学・武芸・山坂達者(、今でいう体育・スポーツ)を通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織でした。

 稚児たちは、早朝、毎日先輩の家へ走っていって本読みを習い、家に帰って朝食後その復習をしたのち今度は、馬場と呼ばれる広場や神社の境内などに集って、馬追いや降参言わせ、相撲、旗とりなどの山坂達者によって身体を鍛えます。午後は、読み書きの復習をした後、先輩や先生の家にいって夕方まで、剣、槍、弓、馬術など、武芸の稽古をしました。

このように、武士の子どもたちは、一日のほとんどを同じ年頃や少し年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、躾・武芸を身につけ、勉学に勤しみました。このときの学びの内容は、その時代の要請によるもので合うが、郷中教育の異年齢集団活動による学びは、少子時代の今、改めて見直されていかなければならないでしょう。

幼小連携

昨年、モスクワ市で開催された世界幼児教育会議は、第1回だけあって、幼児教育が直面している課題についてさまざまなことが議論されました。その課題は、日本における課題と共通しているものが多くありました。その一つが、幼小接続の問題です。日本で少し前から問題になっている「小1プロブレム」と言われるような、小学校に入学してから子どもたちがさまざまな問題行動を起こすことが問題になっていて、幼小連携が議論されていますが、これに似た現象が、韓国などでも起こっているようです。韓国などの他国でも、小学校入学後いつまで経っても学校のやり方になじめない子どもが増えており、教師の話を聞かなかったり、授業中に勝手に歩き回ったりするなどして、長期間にわたり授業が成立しない状況があるようです。こうした問題への対応として、幼稚園・保育園から小学校への移行をスムーズに行なうための準備を幼児教育において行なう必要性が、会議の場でも指摘されました。
この幼小連携はOECDでも取り上げられ、スターティングストロングでは、児童教育における連続の必要性を意識して、乳幼児教育と小学校との間の強くて平等な連携を促進するため数多くの提言を行っています。そして、第3章では、この目標を達成するために各国が行っている試みを点検しています。それによると、乳幼児教育が公共の利益としてみなされるべきであるという見解への支持が増大していることを指摘しています。しかし、幼少の接続に関して、とてもおもしろい視点を持っています。日本では、どのように小学校へのスムーズな移行を行おうか、そのために幼児教育では何をすべきかというように、しょうう1プロブレムの問題を幼児教育の問題とすることが多いような気がしますが、OECDでは、その連携の問題点を次のような原因だとしています。
「歴史的に、幼児プログラムと学校教育は別々に発達してきた。管理、資金の流れ、職員研修のシステムが異なっていた。小学校教育は(幼児プログラムに比べて)古くて強力な制度であり、19世紀末までには多くの国々で国家の中に既に組み込まれている。乳幼児制度はその発達が(小学校教育制度より)ゆるやかである。」と書かれてあるように、幼児教育はかつて母親あるいは家族全体の養護が中心を占めていたのが、最近新しく議論され、新しい乳幼児の制度を確立しようという、新しい時代に即した考え方、取り組みを導入しているのに対して、小学校教育は古く、それを改革しようとしても非常に強力であるためになかなかできず、そのギャップが子どもにしわ寄せがいっていると考えています。そこで、次に問題になるのが、乳児保育のようです。
このようなOECDの見解によると、小1プロブレムは、より古い考え方の小学校教育を行っている国に多く見られるということで、日本のほか、韓国でもその問題を抱えているようです。
今回の世界幼児教育会議でのハーバード大学のジャック・ションコフ教授による基調講演は、とても興味深いものだったようです。私は、ぜひ、その内容を知りたいのですが、最新の脳科学の知見にもとづき、とてもわかりやすく幼児期・子ども期の発達について解説がなされたようです。とくに「さまざまな社会で昔から伝わる子育てに関する諸々の言説の正しさが科学的に証明されるようになったのは、実はここ10年程のことである」という指摘は、最近私も常々感じているところです。中途半端な科学で、長い間培われ、選りすぐられ、次の世代を育てるうえで大切なことを経験的・本能的に理解し、実践してきた育児の伝承を、一時否定してきました。しかし、より科学が進んでくると、逆に、最新の科学がそれらの実践の正しさを証明するうえで重要な役割を果たしていると、ションコフ教授は指摘しているのです。

 2010年9月27から29日にロシア連邦モスクワ市で、第1回世界幼児教育会議が開催されました。この会議には、当然日本からも参加していますが、130カ国以上からの代表団や、国際機関やNGOなどから多数の参加者がありました。かつて、初等、中等、高等教育や生涯教育についての会議や世界的な議論はよく行われていましたが、幼児教育に対しては、その重要性についてはまだまだ世界では認識されていませんでした。しかし、最近、幼児教育について生涯において非常に重要であるという認識のもと、世界会議が昨年初めて開催されたのです。主催者であるユネスコの事務局職員は、「教育分野における国際的な議論のなかで学校教育や生涯教育などについてはさまざまな会議が開かれ、かなりの議論が積み重ねられてきたが、幼児期の教育に関する議論が必ずしも活発に行なわれてきたとはいえず、今回の会議を契機に各国で議論が盛り上がることを期待したい」とのことで、ECECである幼児期の教育やケアの問題が、多くの国で政治的にも重要なアジェンダとなることを目指して、この世界会議が開かれたのです。
この会議でまず問題になったのは、ECECの後ろの方のECである教育とケアのそれぞれの領域におけるバランスです。この課題を抱えているのは、先進国・途上国を問わず多くの国でした。日本では、この「ケア」を「養護」と訳すことがありますが、それは「世話」というイメージがあり、低年齢ほど大人による世話が大きく、子どもの年齢が上がるに従って、教育の部分が大きく占めるようになると考えられてきました。しかし、保育所保育指針の前回の改定により、「養護」は「生命の保持」と「情緒の安定」ということであると定義されましたので、年齢によっての増減はなく、0歳児から6歳児までの乳幼児期間中、それ以後の初等教育においても、その割合、バランスは一定であるという認識を持ち、今回の幼保一体化における提案でもそのような認識が提案されています。この考え方は、私にとって前進だと思うのですが、実は、世界の議論の中ではそのことではないのです。もともとの言語ではどのような表現かわかりませんが、教育と養護のバランスで頭を悩ますのは、それぞれの年齢におけるバランスではなく、それぞれの領域におけるバランスです。そして、そのバランスを考えることが必要なのは、政府が支援を行なうべきバランスを考えることになるからだと言っています。
また、今回の会議で最も強調されたことは、質の高い幼児教育をすべての子どもたちに提供することが重要であるということです。それは、「幼児教育へのアクセスはすべての子どもにとっての基本的な権利であり、各国政府をはじめ社会全体で幼児教育の拡充に努めることが必要なのだと改めて国際的に合意をしましょう」という人権にかかわる問題だからです。しかし、日本においても高い保育の質が必要であるということはよく議論されますが、では、幼児教育の質をどのように高めるのか、その質をどのように評価するのかといった問題については難しい問題になります。今回の会議の中でも、幼児教育の質を考えるときに、認知的な側面(記憶、知識の獲得、知識の表現、概念の形成など)を重視するのか、情動的な側面を重視すべきなのかずいぶんと議論されたようですが、この考え方はずいぶんと国によって考え方が異なり、非常に複雑な問題なようです。ましてや、どのようにその質を評価すべきかとなると、いわゆる学力テストに準じるような形式で認知面での発達を測定している国もあれば、そういった方式による評価は幼児期の子どもたちに対する働きかけの成果を理解するうえでは不適切であるという考え方も広くみられたようです。
この評価の問題も、各国模索しているところで、ベルギーのCICSやニュージーランドのラーニングストーリーなどの提案も研究されています。
私は、まず、日本では乳幼児教育の質をどのように考えるかが大切です。乳幼児期は、人生の基礎を培う大切な時期として、どのように育ちを保障していくのか、それが、将来、人生をどのように送り、どのような社会を構築し、人類の遺伝子を子孫にどのようにつないでいくかというような広い視野と、長い見通しの中で考えないといけないと思います。

8歳まで

 日本では少子化と騒がれていますが、世界では毎分154人の新しい生命が誕生しているそうです。その新しい生命は世界中で誕生しており、日本でも同じ様に新しい命が誕生しているのです。そして、誕生した子どもたちは、生まれてからすぐに、もともと持って生まれた能力を実用化に向けて、いろいろなことを学習していきます。人生における長い学習機関の中で、それぞれの発達における学習内容はそれぞれ必要なことですが、最近、世界の中で合意されていることは、8歳までが大切であると言われている所以は、習慣・道徳的価値観・知性や創造的才能の基礎などの形成を考えた場合、その人間の将来を決める重要な時期だといわれているからです。
 ユネスコでは、このような考え方から就学前児童の養育と教育に関する世界会議を開いています。その第1回は、モスクワで行われました。それは、ロシアの教育学及び心理学の専門家達は、人間の中に人間的な素養を育て育んでゆくというアプローチこそ、教育において最もふさわしいものと捉えているために、その実践について考えてみようという意図もありました。
 英米仏の就学前の考え方が問われている中、社会教育伝統国である北欧型の就学前教育が見直されていると同時に、ロシアにおける就学前教育の伝統も見直されています。それは、ロシアにおいても、最も重きが置かれているのは、子どもの感受性を高める事であり、なぜ感受性が重視されるかというと、その後に来る初等教育において、新しい知識を吸収したり、新鮮な感動を受けたり、内なる世界を形作ってゆくための好ましい土壌となるからです。
ロシア科学アカデミー・ヴォログダ科学センターの心理学者で、児童早期教育の専門家エレーナ・コズィナさんは「どの子供にも、生まれつき才能が与えられている。肝心なのは、将来、才能が花開く可能性を見抜くことだ。自分達の仕事の一つは、いかに子供達の能力を引き出すかにある。子供達が持っている才能を早いうちからいかに伸ばすかというのは、全世界において最もアクチュアルなテーマだ。人間の潜在的能力の形成は、乳児の頃から、あるいはもっと早く母体にいる頃から始まる。」と言っています。早期教育の考え方を話しています。そして、親としての態度についてこうも言っています。「現在、非常に多くの早期教育のメソードが存在しているが、多くの点で子供達の未来は両親次第であり、小さな子供の始まったばかりの人生に両親が一体どれだけの責任を持っているかにかかっている。そして両親に任された主要な仕事は、子供の才能を伸ばし最高の成果が収められるような前提条件及び必要不可欠な諸条件を整える事である。しかし、その際指針とすべきは、教育学や心理学の主な原則などでは決してなく、言うまでもなく、自分の子供に対する深い愛情だ。」
 よく、日本でも保育大会が行われます。そこでは、さまざまな取り組みが発表されます。世界大会となると、さまざまな国における伝統と風土の中で育まれた子育て観、教育観が存在しています。それは、養育の目的と言うのは、確定されたことはなく、どのような社会においても変化するものだからです。社会機構のシステムや社会の関係性が変われば、その目的も変わり、国により社会制度が違えば、アプローチも異なります。しかし、その違いを議論したり、自分の国のやり方がいいのだということを声高に主張したり、また、それぞれのやり方をただ認め保障したりすることではありません。頭が良いだけではなく人間としてすばらしい新しい世代を育てる事として、幼い子ども達の生活条件や教育条件を改善し、より高めてゆくことが、ユネスコの定めた万人による教育プログラムである「すべての人に教育を」につながり、それに向かっての試みの経験交換の素晴らしいチャンスとして開催されたのです。

学校という場

 学校という場が、これからの子どもたちに必要な力である「議論」する力をつけるために議論しやすいような場にあるような設計が試み始めています。ただこれは大学での話ですが、いくつか集めると円卓の様になる「動く机」、学生全員が手元のパソコンで同時に同じ画像を見られるシステムなどです。しかし、どうして日本では、そのような試みが大学から下の方に降りてくるのでしょうか。子どもの発達からすると、生まれてからどのように発達の連続性を保障していくかという観点から、下から見ていくのにと思います。
 教室という学校の場での試みは、外国ではすでに議論をするような環境を用意しています。ただ、まず、小学生に対しては議論というよりも対話しやすい環境としてとらえられています。たとえば、以前紹介したことのあるオランダのイエナプラン校では、教室をリビングルームとして捉えています。もうすぐ新学期が始まります。各クラスは新しい担任が決まります。担任は、春休みの間、新しいクラスの子どもたちのために教室の中の環境を整えます。ただ、日本の学校は特に装飾のようなものはしませんので、子どもの背の高さにそろえて椅子や机、教卓の位置などを決めるくらいです。まあ、1年生の教室には「入学おめでとう」の文字と、少しの花くらいは飾られることがありますが。
それに比べて、イエナプラン校では、その教室の担任と、クラスの子どもたちが共に話し合いながら、教室の内装を整えていきます。その教室は、一斉に先生の方を向いて、先生の話を聞くように作られるのではなく、異年齢の子どもたちが共に座る席やグループリーダーの事務机のほか、読書用のソファーが設けられたコーナーや情報検索用のコーナーなどを用意します。また、背後の壁や、廊下と教室の境部のガラス窓の部分にディスプレー用の空間を設け、子どもたちが学びながら自分たちの教室の環境を独自に整えていくことができるようにしています。次第にゾーニングしていくのです。そして、日本では教室に整然と机が並びます。そして、机の間は、机間巡視と言って、先生が子どもを見て回る通路を空けます。しかし、イエナプラン校では、教室の中心には、共同で作業をする場として、作業テーブルがおかれることが多いそうです。そして、授業形態が課題によって変わるために、教室の中の机などの家具は、子どもたちが動かしやすい軽い材質を使ってあります。
イエナプラン校の学級編成は、マルチエイジグループが基本で、通常3つの年齢のグループ(4?6歳児グループ、6?9歳児グループ、9?12歳児グループ)から構成されます。それが、「根幹(ファミリー)グループ」と呼ばれるもので、その中で、生徒はさらに、テーブルグループに分かれます。このテーブルグループでも、必ず、3学年の子どもたちが混ざっています。そして、3年間を同じ教室の同じグループリーダーの下で年少・年中・年長の三つの立場を経験しながらすごし、それを繰り返しながら小学校を卒業していくのです。そして、教室は、グループリーダーと子どもたちが、いつでもサークル(車座)に座って話し合いができるようにしてあるのです。このようなグループ形成の中で、年齢差による立場の違いを体験していきます。それは、将来、社会に出たときに相手の立場を理解して行動するための準備、と考えているからです。確かに、社会に出てからどう年齢だけの集団はあり得ません。
 学校では、何を学ぶことが必要か、学んだことが社会に出て生かされることであるか、子ども一人ひとりが生かされるカリキュラムであるか、ということで内容が考えられ、それを実現しやすいような教室という場がつくられているのです。

ゆとり教育

 昨年、経済協力開発機構(OECD)が発表した「国際学習到達度調査」(PISA)の結果について、いろいろな考え方が示されています。この調査は、世界の15歳の男女を対象に、「読解力」「数学的応用力」「科学的応用力」の3科目で義務教育の習得度を測る3年に一度行われるものです。2009年度、日本からは185校・約6000人がテストを受験しています。ドイツなどでは、この結果を詳細に分析し、自国の教育の在り方に検討をします。どんな力が足りないのか、そのためにはどのような教育改革が必要なのか、そのために乳幼児からの教育を見直します。しかし、どうも日本では、日本の子どもが世界の中で何位になったか、もっと順位を上げるためにゆとりを無くし、もっといろいろなことを子どもたちにやらせなければならない、模擬試験をやったり、予想問題を立てて、事前に準備をして試験に臨ませなければならないというように考えてしまうことが多いような気がします。今回は、そのせいか、日本の成績は、読解力8位、数学的応用力9位、科学的応用力5位という結果で、3年前の2006年度調査時と比べて、全分野でランクアップしていました。
 おおむね、この結果について「ゆとり教育悪玉論」から文部科学省が「脱・ゆとり」と思しき方向への方針転換による一定の効果は得られたと報じるメディアが多いようです。そこで、もっとということで、小学校では2011年度、中学校では12年度から新学習指導要領が完全実施されるにあたって、授業時間が大幅に増える予定です。いよいよ「脱・ゆとり」へと本格的に動き出そうとしていますが、本当にそれでいいのでしょうか。
 朝日新聞では、「改革、改革といっても何も変わらない、という空気が広がっている」「制度をいじるだけではダメだ」「発想から改めることが大切ではないか」と考えた記者たちが各地を歩いた結果、元日にスタートした「教育あしたへ」が、朝日新聞一面トップに掲載されていました。この中で、「国際学習到達度調査」(PISA)についてこのように分析していました。「日本の“読解力”は、前回06年の15位から8位まで回復したが、情報を取り出す力は高くても、知識や経験と結び付けて判断し、説明する力は弱いと出た。」前回の調査結果、読解力が低いために、各学校では、朝の時間に読書をするようになったおかげではないかと言われています。確かに読書はとてもいいと思います。しかし、そんなことは私が子どものころから言われていることで、別に新しいことでもありませんし、今回の調査の結果のような説明能力はつきません。読んで感じたこと、考えたことの話し合いをしなければならないのです。いわゆるコミュニケーション能力です。
そして、こんなことも東大大学総合教育研究センターの中原準教授は指摘しています。「今の日本の学生は、総合学習や情報教育の導入の成果で、パソコンやカメラなどの機材を渡すと、すぐにうまく使ってプレゼンテーションする。だが、対話させてみると、論理的矛盾が多く、議論がかみ合わない。世界レベルで議論し、コラボレーションできる教育が必須だ。」
最近の少子時代では、家庭内には議論する相手が乏しいことと、そのような力をつけるために、乳児のころから大人の議論を見て経験する機会が乏しいことを考慮しないといけないような気がします。

教育改革

 各国では、将来を担う子どもの教育について、さまざまな議論がされています。それは、国によっての課題が違うだけでなく、地域のよっても、時代によっても課題は大きく違うようです。たとえば、アメリカと一言で言っても、事情は違うようです。たとえば、首都であり、州に準じる特別区であるワシントンDCでは、全米でも学力水準が最低の一つという問題地区でした。その背景には、首都ならではの高福祉に引き寄せられて貧困層の居住者が多いという問題、公立校は黒人生徒が圧倒的で白人富裕層の子供は私立校に逃げ出しているという人種問題、そして組合の既得権益に守られ硬直化した教師集団の存在という複雑な事情があったのです。その地区に対しての教育改革の試みを、米国ニュージャージー州在住の作家である冷泉彰彦が書いています。
この改革を中心的役割として推し進めてきたのが、当時はまだ30代の韓国系教育総監のミッシェル・ルー女史でした。ルー氏は、破綻したワシントンDCの改革に徹底して取り組んだ時の「初心」について、NBCでこう語っています。「高校に進学したばかりの1年生が8年後に大学を卒業している可能性が9%しかない、黒人と白人の学力差が70ポイントもある、8年生(日本の中学2年生に該当)でその8年生の数学の到達度に達している子どもが8%しかいない、これは犯罪としか言いようがありません」その「犯罪的な」状況と闘うために、ルー氏は徹底的にナタを振るいました。それは、どんなことをしたのでしょうか。
まず、事業仕分けをしたようです。例えば、組織として崩壊している学校28校を閉校にしています。日本でも、最近は統廃合ということが行われ、過疎や、子どもが少なくなってきたところが対象になります。ルー氏が行ったのは、定員割れを起こしているかどうかではなく、定員割れしているのに努力をしない学校を閉鎖したのです。独立した学校として校長以下のフルスタッフを抱え、終身雇用契約で保護された教員がヌクヌクとしているだけの学校を切ったのです。その代わりとして、能力主義の教育のできる小規模校を作ったり、大規模校には能力のある校長を配して教育水準を追求したりしたのです。また、第三者委員会を設けて教員の能力をチェックし、能力不足教員を450人以上解雇したのです。
その立場、存在が保障されていることに安住し、改革しようとしない事態を「犯罪」であるとしたのです。それは、決して競争原理から質を高めるのではなかったのですが、結果として3年間で、数学の到達度は27%から43%に、読解力は29%から43%に向上し、高校の卒業率も3%の向上を見たのです。彼女の改革は、急速に行われました。いろいろなことを改革するのに、性急すぎるとか、もっと慎重な議論を重ねるべきだという意見が多いのですが、それに対してルー氏は、こう言っています。「私の改革のことを余りに性急だと言って非難する人がいます。でも考えてみてください。あなたのお子さんが小学校に入学したとして、校長が『お子さんの担任は必ずしも良い教師ではないかもしれません。でも1年待ってください。1年かけて先生を研修しますから』と言ったどうでしょう? あなたは親御さんとして許せますか?」と発言して、大変な喝采を浴びました。
 「闘う女」(ウォリアー)と呼ばれ、現在アメリカ社会で活躍している女性ベスト20の一人として紹介されているルー氏ですが、かなりの反発にあったでしょう。改革には反対勢力が付き物ですが、それを頑張れるのは、その行動を誰が評価するかでしょうね。