ドイツにおける参画

ミュンヘン市における参画の取り組みを、さらに一歩進めて、2012年、子どもたちからの苦情を聞かなければならないという法律ができ、子どもたちにインタビューすることによるアンケートを採ることになったそうです。

「子どもには、それぞれ権利があり、それを活かしてあげるプロセス」を持つものとして捉えますと言います。そこには、日本とは違う「平等」という考え方があります。平等とは、日本では分け与える平等ですが、ヨーロッパでは、権利の平等であり、それは必要なときに等しく受け取ることができる平等だと言います。そして、子どもは正義については、大人以上に厳しい行動を取ることがわかっていると言います。それは、平等についても子ども自身はわかっていると言います。

そして、その2年後再びドイツに行った時に、こちらから参画についての取り組みをしている園をリクエストして、見学をしました。それが、2018年6月21日のブログで紹介されているものです。その時の報告として、次のように書かれてあります。

「参画」は、「ここで過ごす子どもたちにとって、最も大切なもの」として位置づけられています。それは、ここで過ごす子どもたちにとって、最も大切なものとし、ここの社会で、考えを深めながら過ごすため、子どもたちはいろいろな希望を持っていますが、様々な問題に直面するときに、どうすればいいのか?そんなときに道を自ら切り開いていく手伝いを保育者はしていきます。たとえば、状況を話し合ったり、子ども同士で意見交換をしたりします。トラブルにたいしても、和解だけでなく、解決策を見つけていくことが子どもにとっての民主主義なのです。たぶん、この延長線上に「オープン保育」があるのでしょうね。

これまでのドイツ研修報告から見る「参画」を振り返ってみましたが、どうもつまみ食いのような気がして、一度きちんと整理してみたいと思っていました。それは、これからの保育の課題となる気がするからです。そんな時に、書店でロジャー・ハート著「子どもの参画」(萌文社)という本を見つけました。英文では、CHILDREN’S PARTICIPATIONです。ドイツでこの言葉を知った時、園の男性職員は、その発音が気に入ったらしく、何度も発音していました。しかし、この本は、サブタイトルに「コミュニティづくりと身近な環境ケアへの参画のための理論と実際」とあるように、特に保育に関するものではありませんが、その理論を学ぶことはできると思います。

この本の発刊にあたって、監修者の一人として木下勇氏が寄稿しています。そこには、最近、「子ども会議」とか「子ども探検隊」など、子どもを巻き込んだ催しが注目されていますが、そこには子どもの参加を謳いっていますが、それが果たして「子どもの参画」なのであろうか、表面的なことではないかと自問しています。日本では、まだ大人には子どもを信じていないところ、一個の人間として見ていないところがあるのではないか、大人が直面している課題についても、子どもにきめ細やかな情報を与えて、一緒に考えるパートナーになっていないのではないか、また環境の改善に身近なところから取り組もうとしても、子どもの参画以前に日本では住民自身の主体的な参画ができていないのではないかという声を聴くことが多いというのです。

ドイツ報告を振り返って

私は、長くブログを書いていると、自分の考え方の変化を知ることができます。もちろん基本的には変わりませんが、様々な経験をすることで、次第に集約されていくことがわかります。その一つの契機が、ドイツ研修です。その影響を残すために、ドイツ研修では、毎日ドイツ報告を書いていました。2018年6月21日のブログでは、まず、こんな文章で締めくくられています。「私は最近、保育園は家庭の代わりから社会の代わりに役割を変えていくべきであると主張しています。特に、母子という二者関係からの保育から、社会的ネットワークの中での保育にすべきであると考えているのです。それは、特に3歳未満児に対してもそうあるべきであると思っています。それは、人類が長い進化の中でそのような子育てをしてきたということもありますが、もう一つ、これから社会に出ていく子どもたちにとって、社会の形成者としての資質を備えていかなければならないからです。そして、どのような社会を目指すというと、平和で民主的な社会です。」

ここに書かれている考えは、全く今と変わりません。この文章を書いたのは、その内容が、当時、ドイツのミュンヘン市でまさに取り組んでいることのひとつだったからです。それが、Jugendparizipation(参画)です。

2016年にドイツに行った時に、ミュンヘン市が用意してくれたプログラムは、市の職員さんたちが研修するために郊外に作られたセミナーハウスでの宿泊研修でした。そこで、ドイツと日本から保育についての取り組みの紹介をしあいました。日本からは、乳児からのかかわりによる保育の実践、ミュンヘン市からは、Jugendparizipation(参画)についてで、その研究家である職員さんが話してくれました。そこで、初めて、参画という取り組みに触れました。ミュンヘン市が取り組み始めた経緯を最初に話してくれました。

ミュンヘン市が、1997年、子どもの権利条約の採択を受けて、市長はじめ、子どもに関するすべての行政職員、ボランティアみんなで検討して、取り組む課題を話し合いました。そして、バイエルンという保育指針のような幼児教育が取り組む課題として、この「参画」が書かれることになり、デモクラシーについて、考えていこうということにしたのです。そして、この参画に取り組むようになった経緯としては、子どもにとって最も効果的な学びととは、子どもに興味関心を持たせることにあり、そこには個人によっての個性があるために、参画という考え方をすることになったと言います。

参画の例としてあげられているのは、例えば、食事について、子どもは誰と、どのくらい食べるのかを決める権利があるというようなこととか、どんな遊びをしたいか、新しい遊具を買うときにも、子どもたちによる投票によって決めます。また、買い物に行くときなどは、各グループから代表が選ばれ、彼らのよって提案されます。このような参画の内容については、それぞれの園によって子どもと一緒に、また保護者とも一緒に決め、均一はないと言います。そして、参画した結果何か問題が起きたとしたら、それはチャンスとして捉え、子どもたちに解決する力を付けます。

私たちが、園での昼食の時に、子ども達に、誰と、どのくらい食べるかを決める権利を与える取り組みは、参画であるようです。また、いくつかのゾーンを設定して、どこで、誰と、何をして遊ぶかを決めることができるのも参画と言っていいでしょう。

改革するリーダー

2030年に必要な学習を担保するような環境の構築の実現のためには、単にたくさんの議論を交わすだけでは足りないとシュライヒャーは言います。教師や学校が、自律的に様々な工夫ができるようにするとともに、変革に向けた能力を培っていくことができるような環境を、慎重に構築していくことが求められるというのです。そのためには、学習者のことよりも、しばしば教師や行政官の慣習や便宜に基づいて作られがちな教育制度の構造を、大胆に見直していくことができるようなリーダーが必要だというのです。そうしたリーダーは、同時に社会的な変革に誠実に取り組み、政策立案に創造的であって、効果的な改革を進めていくうえで、自らが培った信頼を活用していくことができるリーダーであることが必要だとシュライヒャーは言うのです。

この時代を迎えて、全世界で800万部を突破したベストセラー『サピエンス全史』の著者であるイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが警告しているように、「人類史上、最も重大な決断が今なされようとしている」のかもしれません。そして、その変革に対して、「子どもたちに教えなければならない最も重要なこととは、変化にあらがうのではなく、変化を前向きに受け入れられるような特性なり自己イメージなりをどう築いていくかだ。」ということが、私たちに求められているのでしょう。

確かの変えることは勇気がいりますし、大変な労力がいることです。しかも、ハラリはこう言っています。「一生学び続け、自己を絶えず刷新し続けるしかない。これは心理的には、とてつもない苦しみとなるだろう。変化には、いつだって精神的な苦痛が伴う。40歳になって自身を作り替えるというチャレンジに耐えられる人は、そう多くはいないはずだ。仮に40歳で何とか自分の生き方を変えることができたとして、50歳になってもそれを繰り返す気になれるだろうか。さらに60歳になったときに、またしても自己変革が必要になったとしたらどうだろう。」

私たちは子どもたちの将来に対して、責任があり、良心が必要になります。しかし、それを達成していくために、人類は、他と協力し、他と協働をして生き延びてきた遺伝子を持っているはずです。どうしても、組織の長となるものは、孤立し、また、自分一人で組織を束ねようとします。そうではなく、他から学び、他と共生しながら他に貢献していくことが必要となるのです。

私は、コロナ前は、十何年もドイツミュンヘンを訪れていました。それは、そこから何かを学ぼうとするためでした。そして、そこでいいと思ったことは、園でも取り入れようとしましたし、また、自分の進む道を確かめてきました。例えば、ヨーロッパで取り組んでいたのが、「学びの部屋」という取り組み、「小さな科学者たち」です。これは、シンガポールでは、違う形で取り組んでいるのがSTEMだったのです。そして、インクルージョン保育という取り組みを知ったのは、2005年にミュンヘンで行われた世界保育大会「インクルージョン保育」に招待されて訪れた時でした。そして、今回のコロナ禍で残念ながら中断されてしまっていますが、「オープン保育」という考え方です。

そして、もう一つ、「参画」という取り組みがあります。これこそは、次の時代の保育の課題であると感じています。

大規模に変革

コミュニティにおける「状況的な価値観」とは、状況に応じることで、できることは何でもする、しても構わないという価値観であり、「持続的な価値観」とは、信頼、社会的紐帯、希望などを生み出すような社会的持続性を重視する価値観ですが、この意向が今後行われていくであろうというのです。教育が人間を支える基盤を作ることができなければ、たとえ、それが自滅につながるようなものであるとしても、人々はお互いを隔てる壁を作り出していくことになりかねないとシュライヒャーはいうのです。

技術発展の一歩先を進むためには、人間固有の資質を見つけ、磨いていかなければなりません。そうすることで、コンピュータの能力と竸合するのではなく、コンピュータを補完していくことができるのです。学校は「二流のロボット」ではなく、「一流の人間」を育てていかなければならないというのです。

とはいえ、教育を大規模に変革していくためには、生徒が何を学ぶべきかについて、単に革新的で、代替的なビジョンをもつだけではなく、知識やスキル、態度及び価値観が育まれるような効果的な学習環境が必要となるとシュライヒャーは言うのです。そのためには、学習環境を構築しなければなりませんが、白石氏の「OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来」という本は、OECDのラーニング・コンパスを下敷きにしながら、カリキュラムのデザインについての具体的な洞察についてまとめてあるので、そのための手引きになるのではないかとシュライヒャーは評しています。

現在の学技教育の基本的な仕組みは、工業化社会において作られたものですが、そこで重視された規範は、「標準化」や法令や規則の遵守という「コンプライアンス」などでした。また、工業化社会においては、多くの生徒をまとめて教えるとともに、いったん訓練した教師を、その後の職業人生においてもより長い期間活用していくことが効果的・効率的と考えられていました。そして、生徒が学ぶ内容を定めているカリキュラムは、そうした教育のピラミッドの頂点にあるものとしてデザインされていて、公的機関の様々な階層を通じながら、教室で指導にあたる教師の一人一人によって実施されるまで、指導資科や教師の研修、学習環境などの形で「翻訳」されてきたのです。

こうした、工業化社会のモデルに由来する教育の構造は、急速に変化している世界においては、変化のスピードがあまりにも遅いとシュライヒャーは言います。社会の変化は、現在の教育システムの受容性をはるかに超えるスピードで起こっているというのです。ですから、2030年の教育システムに向けて、本質的な課題にどのように対応していくかが必要となり、具体的には、カリキュラム・オーバーロードという、多くの内容を教えることが求められ、教師にとっても、生徒にとっても十分に消化することが難しくなっていること、カリキュラムの策定と実施との間のタイムラグ、そして、2030年に必要な学習を担保するような環境の構築について考えていかなくてはなりません。それを白石氏は、この本の中で述べているのです。

対立やジレンマを上手に

シュライヒャーは、白石氏のEducation2003の「出版に寄せて」の寄稿の中で、今の時代をこのように表しています。「現代の生活において、個人・地域・社会のどのレベルにおいても、より「複雑性」が増している。そのことは、諸課題に対する解決策も、より複雑なものになっていることを意味する。構造的な不均衡が生じている場合に地域だけでなく、グローバルな場面においても、多様な考え方や利害を調停していくために必要になるのが、対立やジレンマを上手に扱っていくことである。」

この力は、Education2003の中で目指すスキルの代表的なものです。それは、グローバルな社会の中でだけでなく、一つの職場内でもチームで仕事をする上でも大切なことです。職場には、様々な年齢だけでなく、様々な経歴、経験を経た人たちと一緒に仕事をします。その時に、「様々な特性を持った同僚に対して、そのモチベーション、発想、動機づけの要因に、自分と違った経歴を持っていようが、それに左右されずに共感する能力が必要です。そうでないと、素晴らしい発想を見逃してしまうことがあるからです。チームの多様性を保障するためにも、相手の立場になっての共感力が必要になってきます。」

この相反するものとして、個人の違い、地域による違い、国による違いだけでなく、例えば、「平等と公平」、「自律と連帯」、「変革と継続」など、相反するニーズが存在する中でもバランスをとっていくことが必要になります。これはニーズによる違いです。その際、「選択肢の中のいずれか」とか、「唯一の解決策」といった形で問題解決が図られることは、滅多にないと考えられるとあります。重要なのは、物事の相互関係を認識した形で、より統合的に考えていくことが必要であり、曖昧な中でも、自ら判断していくことができるような能力が鍵となるというのです。多様性やグローバル化において、この視点は大切ですね。対立は、必ずしも、個人の信条、宗教、国家間の政策上の違いからだけ生まれるのではなく、ニーズの違い、言葉の解釈の違い、そのような違いに対してもそれらを調整する能力が必要になってくるのですね。私も、多様性を認める、ダイバシティという考え方から、それらを調整して、各々が納得する解を見つけていくことがこれからの課題になってくると思っていました。それが、このような言い方になるのですね。

また、様々な問題を創造的に解決していくためには、自らの行動が、将来どのような帰結をもたらすかを考える力が必要になりますし、責任感や道徳観・知的に成熟していることも必要になるといます。そうした力が身につくことで、自分の行動について、自らの経験であるとか、個人あるいは社会の規範に照らして、振り返って考えることができるようになるというのです。

特に、状況を踏まえて、物事の善悪や良し悪しなどを、どのように認識し、評価するかということは、倫理に関することでもあります。このことは、教育の中で価値観をどのように扱っていくかということにもつながりますが、これこそが、現代の教育における最も難しい挑戦でもあると言います。伝統的に、価値観は、常に教育の中心にありました。しかし、単に暗黙裡に抱いていた願望としての価価観は、今や、明示的な教育目標、教育実践へと移行していく段階を迎えているというのです。そうすることで、コミュニティの「状況的な価値観」から、「持続的な価値観」への移行が進んでいくだろうと予想しています。

最強の武器

Education2030におけるラーニング・コンパスにおいては、優れた教育を行っていくための重要な要素が示されています。それは、アイデンティテイや、目標をもつこと、好奇心(心を開くこと)や共感性などです。これらは、エージェンシーを育んでいくうえでの、現代における最大の敵である、無知(知性の欠如)や敵意(閉ざされた心)と戦っていくうえで、最強の武器になるとシュライヒャーは言います。

さらに彼は、私たちが生きる現代では、教えやすく、テストしやすいことは、一方では、デジタル化されやすく、また、オートメーション化されやすいことでもあると言います。将来は、コンピュータに基づくAIと、認知的、社会・情動的スキルや人間としての価値観という両方の要素を、組み合わせて使っていくことが想定されます。とりわけ、AIなどの新しい技術を、世の中を良くする方向で使っていくためには、想像力を働かせて考えるとともに、私たちがしっかりとした自覚や責任感をもつことが大切になると言います。このことは、逆に言えば、これから子どもたちに必要な力は、教えにくく、テストしにくいものであるということになります。そこで、どのような教育方法が必要になるのか、また、その力の評価が問題になるのです。例えば、人に共感でき、希望を維持する能力をどのように評価するのかと考えてしまいます。

シュライヒャーは、こんな指摘をしています。最近では、ソーシャル、メディアの背後で動いているアルゴリズムによって、 同じような考えをもつ個人が分類されるようになっている。これは、仮想的なバブルとも言えるものであり、一人一人の考え方が増幅される一方で、多様な視点を覆い隠してしまうものでもある。意見がより同質化される一方で、社会全体としての二極化につながる恐れがあるというのです。ですから、これからの学校は、仕事や市民参加などの場面において、自分たちのことを考えるだけでなく、共感性をもって他者とかかわっていくことができるような人を育てていく必要がある。また、善悪についての意識、他者の意見に対する感受性、個人や集団での行動の限界などを把握していくことも重要であるというのです。これから必要な力は、評価だけでなく、様々な課題があるようです。それこそ、VUCAを象徴しているようです。

また、私が最近の保育についての提案の柱になるものが、人同士のかかわりです。特に、異年齢、異文化、異なる経験を持つ者同士の関わりなど、多様性、グローバル化が進む中でのかかわりをどのように持つべきかということが課題になります。その点についてもシュライヒャーは言及しています。

仕事、家庭、地域など、どのような場面でも、また、科学者や芸術家などどのような職業でも、異なる文化や伝統の中で、他者がどのように生きているのかについて、より深く理解することが求められると言います。機械が、どれだけ人間の仕事を代替するようになろうとも、社会生活、市民生活を送っていくうえで、人間のもつ知識やスキルは、これからも、重要なものであり続けるだろうというのです。これらは、エージェンシーや共同エージェンシーにもつながる考え方です。

今後の教育

PISAという学習到達度調査の創設者であるシュライヒャーは、物理学の専門家でもあるために、彼の教育論は独自の視点に基づき、芸術的視点から科学的な視点へのシフトを強く説いています。私が、昨年「乳幼児ステム保育研究会」を立ち上げたのは、保育の世界も、芸術的視点から科学的な視点へシフトする時代であると感じたからです。

「教育のワールドクラス」についてAmazonの本の紹介欄には、推薦の言葉が書かれてあります。推薦者は、最近の講演などにもよく出てくる人などが取り上げられています。多重知能の理論で有名なハワード・ガードナーは、「世界屈指の知識を持つ教育者によるタイムリーで先進的な本書は、興味深いデータ、鋭い観察、豊富な知見に基づいて全ての子どもたちのための効果的な教育の道筋を示している。」とあります。また、バッキンガム大学副総長であるアンソニー・セルトン卿は、「子どもたちが21世紀の課題に対応する力を身につけるために最新のテクノロジーと人間の深い学びをいかに連携させるべきかを示唆する健全かつ賢明なヴィジョン。」と評しています。さらに、私がブログでも取り上げたニューヨークタイムズ・ベストセラー『世界一賢い子どもたち』著者であるアマンダ・リプリーは、「アンドレアス・シュライヒャー氏ほど教育に精通している人物はこの世にいないと断言できる。本書は彼の20年に渡る知見の初の集大成である。『教育のワールドクラス』は、政策立案者、教育界のリーダー、今日の世の中にふさわしい学校づくりについて知りたいと考え、全ての子どもたちに自ら考えることを教えたいと願うあらゆる人々の必須文献だ。」と言います。また、第43代フロリダ州知事、優良教育基金創設者・会長であるジェブ・ブッシュは、「子どもたちのよりよい学びを真剣に考える全ての先進的リーダーは、データに基づく本書『教育のワールドクラス』を、必読文献の筆頭に置くべきだ。」と言っています。これだけを見ても、本書は、今後の教育の在り方を提案していることには間違いないようです。

次に私が取り上げた白井俊氏の「Education2030 プロジェクトが描く『教育未来』」では、エージェンシー、資質・能力とカリキュラムについて説明しています。ここでは、エージェンシーという概念、コンピテンシーという言葉に出会います。この本の最初に、先の本の著者であるシュライヒャーが「出版に寄せて」寄稿しています。そこには、こんなことが書かれてあります。

昨今の教育は、子どもたちに「何かを教える」ということにとどまるものではないと言います。一人一人の生徒が、信頼できる「コンパス」を持ち、より変わりやすくて不確実、複雑で曖昧(VUCA)となる世界においても、自信をもって、自らを導いていくことができるよう手助けするものに変わってきているというのです。それを具体的に示したのが、OECDによるEducation2030プロジクトで、そこで作り上げた「ラーニング・コンパス」は、そのための方法を示すものであり、様々な状況に対応していくことができるよう、生徒が何を学ぶべきかについての、共通の未来像と言語を示すものであるというのです。

このコンパスとは、わたしは日本では「指針」に該当するものだと思うのですが、その言葉を使っている保育所保育指針は、保育において、子ども達の発達を保障するための方法を示すものであり、様々な状況に対応していくことができるよう、子ども達において、共通の未来像と言語を示すものでなければならないでしょう。

カリキュラム

以前、白井氏が触れたように、今後、外国からの移民が一層増加することが想定されています。実際、日本でも外国籍、あるいは日本国籍であっても、国際結婚等により両親や祖父母が外国籍であるなど、外国につながりのある子どもたちが増えています。これまでは、ほとんどの生徒が、両親とも日本語を流暢に話し、日本の伝統や文化も理解していたことから、国民統合の原理としてのカリキュラムの役割に対する認識は、希薄だった部分があるかもしれないというのです。しかしながら、より多様化が進んだ社会においては、そもそも日本国民がどのような存在なのかを規定するとともに、多様なバックグラウンドをもつ人々を日本国民として受け入れていくうえで、学校教育の役割はより一層大きくなってくるでしょう。

OECDの定義において、カリキュラムが「教育制度の内外からの様々な組織や関係者の間での、政治的・政策的・技術的な合意」であるとされているように、国の将来を担う子どもたちに対する国民の様々な願いや希望、夢や期待、そして伝統や文化を凝縮したものがカリキュラムなのです。そのことを、大人はもちろん、子どもたちも含めた全ての国民が、もう一度認識することが必要だと、白井氏は締めくくっています。

テクノロジーの進歩やグローバル化の進展により、教育や学習をめぐる環境も大きく変化しようとしています。そこで、OECDでは、生徒の学習到達度調査(PISA)を実施し、世界中の多くの国にその結果がその国の教育改革に影響を与えてきました。この調査の創始者であり今なお世界の教育改革に向けて奮闘するアンドレアス・シュライヒャーが、長年にわたる国際調査から得られたエビデンスに基づいて、21世紀に向けた新たな学校システムを描き出した本を出版しました。それが、私のブログでまず取り上げた「教育のワールドクラス――21世紀の学校システムをつくる」です。この本は、2019年9月8日に発刊されました。この本については詳しくブログで取り上げましたが、その内容を振り返ってみるために、amazonの本の紹介を見ると、このように書かれてあります。

「今日、簡単に教えたりテストしたりできる事柄は、コンピュータや機械で容易に行われるようになった。こうした21世紀の変化をコントロールし、よりよい世界を構築するためには、私たちの想像力、認識力、責任感こそが必要となる。これからの学校は、生徒が自ら考え、職場でも地域でも、共感する心をもって他者と交流するようサポートしなければならない。学校は、生徒がゆるぎない善悪の判断力と他者の意見を尊重する力を育む場となるべきである。」

その実現に向けて学校は何をするべきか? ということが投げかけられていますが、実は、その投げかけは、乳幼児教育から始まって、社会教育、生涯教育にまで影響を与え、次世代を考えていかなければならない提案でもあるのです。シュライヒャーが、本書で紹介している数々の成功例は、私たちに多くの学びをもたらしてくれます。それは、ただ真似をすればいいとか、そのまま取り入れればいいということではなく、きちんと咀嚼し、理解し、その本質を自分たちの風土、文化に融合させていってこそ、本当に根付いていくものだと思います。

基盤構築

カリキュラムに基づいて教育を行っていくことの意義は、その国の未来を支える人材にどのような力をつけていくかという社会からの要請や期待に応え、それを実現していく営為であるという視点を踏まえたうえで、カリキュラムが果たしている役割について考えてみて、白井氏は以下のようにまとめています。

第一は、カリキュラムの学習基盤構築機能です。現在のカリキュラムは、各学問分野の原理(ディシプリン)に基づいて、次の学校段階での学習、さらには社会人として活躍していくうえでの「基盤」を提供するものです。その際、何をもってそれぞれの学問分野における「基盤」と見なすかは、当然人によって考えが異なり得るだろうと白井氏は考えています。例えば、一定の英語力について、誰もが身につけるべき当然の「基盤」だと考える人もいれば、必ずしも必要ないと考える人もいるでしょう。そこには唯一解というものは存在しないのであり、国の歴史や文化、各学問分野の学術的発展、諸外国の状況などを踏まえながら考えていくことになるというのです。最終的に、どのような内容にするのかということは、国民的な合意が得られるかどうかという、それぞれの国(あるいは州政府や基礎自物体)としての判断になるというのです。

また、カリキュラムを通して、学習の基盤となる基礎的な学力をつけることは、社会的な公平の観点からも重要です。基礎的な学力がなければ、より高度な学問を身につけることも難しくなりますし、社会に出てから活躍していくことはもちろん、成熟した市民として権利を行使したり、義務を果たしていくうえでも支障が生じかねません。カリキュラムは、生徒一人一人がエージェンシーを発揮するうえでの基盤を作るものでもあるのです。

第二が、カリキュラムの民主主義維持機能です。カリキュラムによって多くのことを学ぶことで、何が正しいのか、正しくないのか、あるいは自分自身や社会にとって好ましいのか、好ましくないのか、といった判断がてきるようになります。例えば、AIを用いたビッグデータの利用や原子力などを含めたエネルギー政策などの社会的課題を考えていく際にも、基礎的なリテラン一やニューメラシーを身につけたうえで、科学についての理解はもちろん自由と規制の関係、リスクの評価など、幅広い観点から考えることが必要になってきます。カリキュラムを通じて、国民一人ひとりが適切な判断力を身につけることは、個々人が自らの権利を守りながら、その社会的な責任を果たし、社会のウェルビーイングを維持していくという観点でも極めて重要だと白井氏は言うのです。

第三が、カリキュラムの国民統合機能です。具体的には、それぞれの国が大切にしてきた言語や文化、伝統的な規範、倫理観などを共有していくということです。例えば、日本の場合でも、各教科で学習する内容、入学式や卒業式、給食や掃除、運動会や音楽祭、部活動、教師と生徒、先輩と後輩の関係性といった学校教育の在り方は、日本人の文化や社会、伝統や価値観の形成に大きくかかわってきたことは事実だろうというのです。

カリキュラムの意義

時代の変化に対応して新しいコンテンツを導入することが必要だとしても、カリキュラム・オーバーロードの問題を意識的に考える必要があると言います。時間が有限である以上、基本的には新しいコンテンツを追加すれば、その分、別のコンテンツを削減するスクラップ・アンド・ビルドが必要だというのです。しかしながら、既存のコンテンツを外すことは、決して容易なことではありません。様々な利害関係者は、コンテンツを減らすことに、総論では賛成であっても、いざ自らにかかわりのある教科やコンテンツになると、各論反対に転じることもしばしばみられると言います。こうした状況を解決していくために需要なのが、コンピテンシーの考え方だと白井氏は言うのです。

以前、白井氏は取り上げた金融教育の事例のように、金融リテラシーを身につけるために、学校教育で金融を扱うことは、必ずしも最適な方法とは言えないと言います。金融リテラシーを高めるために必要なのは、必ずしも金融に関する婚店るを追加することではないと言います。重要なのは、様々な文脈や場面において活用できる、すなわち、「遠い転移」が可能になるようなコンピテンシーを身につけることだというのです。

もともと、コンピテンシーの考え方は、単に特定の内容をカバーするというよりも、そこで学んだ内容を別の文脈や場面にも活用して、何ができるようになるのか、ということに焦点を置くものだというのです。カリキュラムをデザインする際に「転移可能性」を重視したり、ビッグ・アイディアやキー・コンセプトのような考え方を採り入れていくことも考えられるだろうと白井氏は言います。また、「エピステミックな知識」や「見方考え方」などの、各学問分野に固有の考え方を身につけることで、時に細かな知識の暗記に陥りがちなコンテンツに関する学習を、様々な文脈において発揮可能なコンピテンシーにつなげていくことも重要であるといいます。また、教育関係者だけでなく、様々な利害関係においても、従来のようなコンテンツ中心の発想から、コンピテンシーの意味を理解していくことが求められます。そのための、エビデンスを確保するためにも、コンテンツとコンピテンシーの関係性を明らかにしていく、 CCMのような手法を洗練させていくことが重要だろうと白井氏は言うのです。

最後に、白井氏は、カリキュラムの意義について改めて考えています。カリキュラムの定義については様々なものがありますが、Education2030プロジェクトにおいてOECDが示している定義は以下のようなものです。すなわち、「なぜ、何を、どのように、いつ、どこで教え、あるいは学ぶかについて、教育制度の内外からの様々な組織や関係者の間での、政治的・政策的・技術的な合意であって、社会が追求する教育目標の実現のためのキー・エージェントであり、連続的な指導計画と学習経験を含むもの」であるとしています。ここでは、カリキュラムは、単に教育学や心理学、あるいは歴史学や数学といった各教科の学問的な知見にとどまらず、将来を担う生徒がどのような教育を受けるべきかということについての、社会全体での「合意」とされているのです。すなわち、カリキュラムに基づいて教育を行っていくことの意義は、その国の未来を支える人材にどのような力をつけていくかという社会からの要請や期待に応え、それを実現していく営為なのです。そのことを政治家も行政官も保護者も、そして生徒も再認識することが必要です。