fujimori の紹介

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集団力学

ほかにも、協同問題解決能力が期待を下回った国は、リトアニア、モンテネグロ、ロシア、チュニジア、トルコ、アラブ首長国連邦の生徒たちだったそうです。読解力、科学的リテラシー、数学的リテラシーの欠如が社会的スキルの存在を示唆するわけではないとシュライヒャーは言いますが、社会的スキルは学問スキルと共に自然に発達していくものでもないだろうとも言うのです。

PISAの結果は、協同問題解決能力の育成において、幾つかの国が他国よりも優れていることを示しますが、より要求水準が高い世界に向けて生徒が備えられるように全ての国が改善していく必要があると言います。非常に複雑な協同を要する間題解決タスクを完了できたのは、平均してわずか8 %の生徒にすぎなかったそうです。このタスクでは、集団力学の中で共通理解をつくり、障害を克服し、意見の相違や対立を解決するための主導権をとることが求められるのです。成績最上位のシンガポールでも、この水準に達したのはわずか5人に1人だそうです。それでも、4人に3人の生徒が、中程度の難度の協同を要する間題解決に貢献できること、相互作用の中で異なる視点を熟慮できることを示したと言うのです。

同様に、全ての国がジェンダー格差を縮小していく必要があります。2012年のPISAで個人の間題解決スキを評価した際、ほとんどの国で男子は女子よりも高い得点を示しました。対照的に2015年の協同問題解決能力では、読解力、科学的リテラシー、数学的リテラシーの影響を考慮しても考慮しなくても、各国の女子は男子よりも優れていたそうです。協同問題解決能力におけるジェンダー格差は、読解力のそれよりもさらに大きいようです。

これらの結果は、協同に対する生徒の態度に反映されているとシュライヒャーは見ています。女子は関係に対してより積極的な態度を示し、他の人の意見により興味を持ち、他者の成功を望む傾向があると言います。一方、男子は、チームワークのメリットや協同がどれくらい効果的であるかを見る傾向が強いようです。

協同に対する前向きな態度は、PISAの協同にかかわる能力の構成要素であり、態度が協同に影響を与えます。たとえ人間関係による因果関係が不明確であっても、他者への感謝や豊かな友人関係を学校で育むことができれば、男子の方が女子よりも協同問題解決能力において良い成果を残すかもしれないと言うのです。

このような態度に関する原因は教室環境にあるようだと言います。PISAでは、科学の授業で自分の意見を説明したり、実験室で実験に取り組んだり、科学的な問いを議論したり、探究のためのクラス討論をする等、コミュニケーションを集中的におこなう活動にどれくらいの頻度で参加するかを調査したそうです。その結果、これらの活動と協同に対する積極的な態度には、明確な関係が見られたそうです。平均して、これらの活動により頻繁に参加すると回答した生徒は、関係やチームワークを大切にしているようです。

また、多くの学校は、生徒が帰属意識を身につけたり、安心安全な学習環境をつくることで、より良い成果を上げることができるようです。生徒と学校の社会経済的側面を考慮した後でも、生徒どうしに良い交流があると回答した生徒は、協同問題解決能力において高い得点を示しました。他の生徒に脅かされていると感じない生徒も、協同問題解決能力で高い得点を示したそうです。

協同問題解決能力

ドイツのロイファナ大学のホルム・ケラー前副学長は、PISA4Uと呼ばれるPISAのためのMOOCsという興味深いデシタルプラットフォームを共同開発したそうです。彼は、学習対象者として熟練の教員たちに講座への参加を依頼したのです。そして、参加者のグループが同じ教育目標を共有しながら、可能なかぎり多様性を持つようにアルゴリズムに基づいてグループを構成しました。その後、グループにはオンラインのメンターと経験豊かな教員のサポートを受けながら、協同で間題解決に取り組みました。PISA4Uのバイロット事業には、175か国から6000人以上の教員が参加しました。その修了率は高く、ほとんどの参加者が様々な国や文化を持ち、興味と経験が異なる人々と共に取り組んだことが継続的に参加する原動力になったと語っているそうです。パイロット事業の大成功を受け、シュライヒャーらは現在、後継となるデジタルプラットフォームを開発しているそうです。

2015年のPISAでは、世界初の協同問題解決能力、すなわち知識、スキル、他者と協力して間題を解決する生徒の能力として定義された能力の国際調査を実施しました。予想どおり、読解力や数学的リテラシーの高い生徒は、協同問題解決能力にも優れている傾向が見られたそうです。情報の管理と解釈、複雑な推論が常に問題解決に必要だからです。同じことは国を超えても当てはまったそうです。アジアでは日本やンンガポールや韓国、ヨーロッパではエストニアやフィンランド、北米ではカナダのようなPISAの成績上位国は、協同題解決能力でも優れていたそうです。

しかし、PISAの読解力、科学的リテラシー、数学的リテラシーの評価から予測されるよりも、共同問題解決能力がはるかに優れてる国があるそうです。例えば、日本の生徒は、これらの科目で非常に優れていますが、協同問題解決ではさらに優れていたそうです。オーストラリア、ニュージーランド、韓国の生徒も同様だそうです。アメリカの生徒は、読解力や科学的リテラシーにおける平均的な能力、数学的リテラシーの平均以下の能力から期待されるよりも、協同問題解決能力でははるかに優れていたそうです。対照的に、中国の四つの地域(北京、上海、江蘇、広東)の生徒は、数学的リテラシーと科学的リテラシーに優れていましたが、協同間題解決能力では平均的だったそうです。この結果において、私が最近中国での幼児教育改革を提案している理由であり、現地の幼児教育者たちは危機感を持っているのです。また、日本でこの能力の高さは、班活動にあるということが注目を浴びています。これは、以前にも書きましたが、日本では子どもたちに問題を投げかけた時に、教師は多くの場合、班で話し合いをさせますが、アメリカではこのような姿はほとんど見ないそうです。今回のコロナ禍では、このような教育方法は禁止されていますが、それは、単に行わないということではなく、別の方法でこのような力をつけているのでしょうか?また、オンライン授業にも工夫がいると思います。単に、教師からの講義をオンラインで行って、子ども達は黙ってそれを聞いているか、個人的に教師とやり取りをしているだけでとしたら、コロナ後が心配です。

協同の評価

私たちは、個人の成績に加え、協同する方法を教えたり、協同を評価することをもっと考える必要があるとシュライヒャーは言います。このことを、もっと私は強調すべきだと思います。それは、これからの社会では、優秀な個人的能力を発揮することで、発展したり、業界において成功するのではなく、チームにおける協働力であったり、集団思考力による発展が求められてくるからです。しれに反して、先進国における少子化、社会的共同体の分離化などが進んでいます。その社会的変化に対して、多子社会であったころ、地域共同体が機能していた頃の教育方法を変えようとせず、単に教育内容の提案だけがされることが多い気がします。シュライヒャーも「他者との協同」を強調しているのです。彼は、以下のように考えています。今日の学校の生徒は通常、個別に学習し、学年末にはテストを受け、個々の成績を認定されます。しかし、世界がより相互依存になるほど、より効果的な協同相手が必要となります。今日のイノベーションとは、個人が単独で働いた産物ではなく、知識を結集し、共有し、結びつけた成果なのです。

生徒のエージェンシー、これは、「自ら考え、主体的に行動して、責任を持って社会に参画し、社会を変革していく力」と定義しますが、これを育成するために、教員は生徒の個性だけでなく、学習に影響を及ぼす教員、仲間、家族、コミュニティとのより幅広い関係を認識する必要があると言います。その中心には、「共同エージェンシー」があると言うのです。これは、生徒の成長を支援する、双方向性で相互支援的な関係です。この意味で、生徒だけでなく、教員、学校管理職、保護者や地域社会の誰もが学習者とみなされるべきであると言うのです。

私たちは、協同学習が自己調整学習や探究学習へとつながる素晴らしい方法であるという事実を見落しがちです。しばらくの間、MOOCsとして知られる誰でも参加できる大規模なオンライン講座は、高価な教授法に代わる魅力的な方法でした。しかし、MOOCsの修了率は極めて低いままだそうです。その理由の一つは、学習成果を認定する信頼性の高い方法が見つかっておらず、MOOCsで学んだ経験を労働市場で評価される資格に変えるのが難しいことが挙げられるようです。

この内容は、アンドレアス・シュライヒャーがOECD編によって2019年9月に「教育のワールドクラス — 21世紀の学校システムをつくる」と題して出版された本によります。まだ、新型コロナが世界を席巻する前のことで、オンライン講義が日本では特に注目されていなかったころでの検証です。実は、私が彼のこの書籍に興味を持ったのは、「21世紀の学校システム」です。ちなみに、私がはじめ提案したのは、「見守る保育」ではなく、「21世紀型保育」だったのです。新しい時代の保育改革をすべきであるという動機だったのです。乳幼児改革と学校システムと随分と共通することろがあるようです。

シュライヒャーは、どうして、当初オンライン講義であったMOOCsがうまくいかなかったかということに対して、大きな問題として、これらのオンライン講座の多くが「読み取り専用」ということだと言います。つまりこれらは講義形式を再現しますが、教員が意欲を引き出してくれることはないのです。

情報を疑う

消費者保護の観点、すなわち情報の提供者を制限する、あるいはスキルの観点、すなわち押し寄せる情報を人々が上手に扱えるように能力を強化する、という観点でどれほどその間題に取り組むべきでしょうか?興味深いのは、私たちが物質的な製品の消費者保護に取り組むのと同じ方法で、知職という製品を扱ってこなかったことだとシュライヒャーは言いまする。人々は肥満に悩むとマクドナルドを、熱いコーヒーで火傷するとスターバックスを訴えました。しかし、言論の自由に手を加えることは、民主主義の原則に対する攻撃とみなされる傾向があるため、フェイクニュースと戦うのは非常に難しいようだと言います。

人々を情報から守るのではなく、受け取った情報を扱う人々の能力を強化するほうが有益かもしれないとシュライヒャーは考えます。生徒は、信頼できる情報源と信頼できない情報源、事実とフィクションを区別できる必要があります。彼らは、現在受け入れられている知識や慣習に疑間を感じたり、改善しようとする能力を持つ必要があります。20世紀のリテラシーは、事前にコード化された情報を抽出して処理することでした。21世紀のリテラシーとは、知識を構築し、検証することです。昔の教員は百科事典で情報を調べ、その情報が正確かつ真実であると生徒へ教えることができました。今日、グーグル、バイドゥ、ヤンデックスは、あらゆる質間に対して何百万という回答を提示します。私たちの役割は、多角的に分忻し、評価し、知識を構築することなのです。

個人、地域、社会にとって現代生活の複雑さが増すことで、様々な間題に対する解決策も複雑になります。構造的に不均衡な世界では、時にはグローバルな影響をともなうローカルな環境において多様な視点や利益を調和させることが不可欠であるため、若者は緊張やジレンマ、トレードオフの扱いに熟達する必要があります。互いにぶつかりあう公平と自由、自治とコミュニティ、イノベーションと持続性、効率性と民主的なプロセスの間のバランスをとろうとすると、二者択一または単一の解決策はめったにありません。個人は、相互のつながりを意識した、より包括的な方法で考える必要があります。これらの認知スキルを支えるのは、他者の視点を理解し、直感的または情動的に反応する能力である「共感」、未知の経験、新しい情報、さらなる洞察を踏まえて、認識、実践、意思決定を再考し、変更する能力である「適応性」、そして信頼です。

新規性、変化、多様性そして曖昧さに対処するには、一人ひとりが「自分自身のために考えられる」ことが前提であると言います。間題解決における創造性は、自身の行動が招くであろう未来を予測し、リスクと期待成果を評価し、自身が引き起こす結果に対する説明責任を負う能力を必要とします。これは、自身の経験、個人的や社会的な目標に照らし合わせて行動を熟慮し、評価する責任感、道徳的かつ知的な成熟でもあります。特定の状況における善か悪か、良いか悪いかの認識と評価は、倫理的なものです。「私は何をすべきか?「私はそれをする権利があったのか?」「限界はどこか?」「結果を踏まえても私はそれをしたほうがよかったのか?」というような規範や価値、意味や制約に関する質間を意味します。これらの中心にあるのは、自制心、自己効力感、責任、問題解決、適応能力を含む自己調整の概念です。発達神経科学の進歩は、思春期に脳の可塑性の第二の爆発が起こり、特に可塑性の脳領域および系統が自己調整の発達にかかわることを示しています。

スペシャリスト

1990年代後半に、日本は総合的な学習の時間によって、多くの学校に教科横断的な学習を導入しようとしました。しかし、教育現場での実践には十分に組み込まれず、特にテストで教科ごとの知職を重視する中等教育では、その影響は限られていたのです。

最近では、フィンランドはプロジェクト型かつ教科横断型の学習を全ての生徒の学びの中心としています。実生活で直面する問題と同様の問題に向き合い、生徒は例えば科学者や歴史家、さらに哲学者のように考えることが求められます。しかし、フィンランドの教員でさえ、この基準を満たすのは難しいようです。教員自身が様々な分野について十分な知識を持ち、それらを横断して協働できる場合のみ、生徒は学際的な方法で考えることを学ぶのです。しかし、学校の日々と教員の業務は細分化しており、教科を超えて協働するための余裕はあまりないようです。

さらに、もはや世界は特定分野の深い知識を持つスペシャリストと様々な分野の浅い知識を持つゼネラリスペシャリストに分かれていません。スペシャリストが有するのは、概して深いスキルと狭い視野であり、その専門分野は同業者からは評価されてもその他では必ずしも評価されるとは限りません。ゼネラリストは広い視野を有していますが、スキルは浅いのです。今日重要なのは、未知の状況に直面しても深い知識を活用し、新しいスキルを身につけ、新しい関係を築き、その過程で新しい役割を引き受けられる人々です。急速に変化する世界で状況が変化したときに絶えず学び、古い知識を捨て去り、学び直すことができる人々です。生徒が効果的な学習方略や自己認識、自己調整、自己適応などのメタ認知能力を発達させることは、ますます重要になっていると言います。これらはカリキュラムや教育実践において、より明確な目標となるべきだとシュライヒャーは言うのです。

テクノロジーが情報の検索とアクセスを可能にして私たちの知識が増えるほど、深い理解と深く理解する能力が重要となります。理解には、知識と情報、概念とアイデア、実践的なスキルと直感を含みます。しかし、基本的には、学習者の状況に合った方法で、それらを結びつけること、それらを統合して活用することが必要です。また、過去の出来事、すなわち社会が直面した課題、発見された解決策、長年にわたって築かれ、守られてきた価値を理解して、私たちの希望を未来に伝える能力も必要なのです。

私たちが現在直面する「ポスト真実」の時代では、情報の質よりも量に価値があるように見えます。「正しいと主張している」が実際には根拠のない主張が、事実として受け入れられることがあります。私たちを同じ考えを持った個人の集団へと分類するアルゴリズムは、私たちの考え方を増幅するソーシャルメディア反響室を作り出し、私たちの信念を変えるかもしれない反対意見の情報を伝えず、私たちを隔離します。このようなバーチャルバブルは主張を均質化し、社会を偏向させます。そして、バーチャルバブルは民主的なプロセスに重大な悪影響を及ぼすことがあるのです。このような間題は、アルゴリズムの設計上の欠陥ではなく、ソーシャルメディアの仕組みによって起こるのです。世界には、あまり注目されていませんが豊富な情報があります。私たちが生きているデジタル市場では、ネットワーク時代に適応していないものは、その圧力でパラバラにされるのです。

教科横断的な学び

イエシバでの学習法は素晴らしいものですが、教育における他の多くのイノベーションと同様に、イスラエルや他国の一般的な教室にほとんど普及していないようです。伝統的なユダヤ教の戒律の宗教的な文書と複雑な法典で使われるに留まっているのです。これは教育改革における基本的な難点の一つだとシュライヒャーは考えています。教育における産業的な組織は、私たちが学校や教室にアイデアを取り入れるのに役立ちますが、アイデアを教室や学校からシステム全体に移すこと、有望な実践を拡大し普及するのはあまり得意ではありません。

イノベーションと問題解決のためには、異質なものを組み合わせ、つなぎ合わせ、今までにない想定外のものを創造することが重要であると言います。これは好奇心、オープンマインド、今まで関係がなかったアイデアの結合を含みます。また、様々な分野に精通していることも必要です。私たちが一つの分野のサイロで一生を過ごすならば、点を結びつけ、次の世界を変えるような発明をおこなうような独創的なスキルを得られないでしょう。PISAは生徒が学校の教科の枠組みを超えて考え、教科横断的な課題を解決することがいかに困難かを明らかにしたのです。

それでも、幾つかの国では、教科横断的な能力を育成しようとしています。日本の国立高等専門学校機構(高専機構)は一つの例だとシュライヒャーは言っています。高専機構の谷口功理事長は、2018年初頭に東京キャンバスを視察する機会を彼に与えたそうです。実践的で協働的なプロジェクト学習が多いため、一見するとキャンパスは専門学校のように見えます。しかし、実践的な学習を学間的に厳格ではないカリキュラムとみなす人々にとっても、高専はまったくの別物です。全国51の高専は、実際には日本で最も精選された高校やカレッジの一つであり、そのカリキュラムは技術や科学と同じくらい一般教養も重視しています。卒業生の約40%は、大学に進学して学び続けます。高専から直接就職する生徒は、日本で最も引く手あまたのイノベーターやエンジニアとして、平均で一人当たり20件もの求人を得ているのです。

高専の特徴は、教室での学習と実践的なプロジェクト学習のユニークな一体化です。そこでは学習は教科横断的かつ学生中心であり、教員は主にコーチやメンターの役割を担います。世界中の多くの学校で流行しているような、人為的な1週間のプロジェクトではありません。生徒は大きなアイデアを発展させ、実現するために数年間をかけてプロジェクトに取り組みます。電気工学を専攻している石川力君は、急流下りの素晴らしいバーチャルリアリティ体験を披露したそうです。化学工学科の鈴木大輔君は、重金属汚染から土壌を低コストで浄化する解決策に取り組んでいたそうです。他のほとんどの学校のプロジェクトとは異なり、彼らの実践の成果はお蔵化入りにならず、日本発のイノベーションの一つとしてインキュベータの支援により商品化されることも珍しくありません。シュライヒャーが出会った学生は誰も、この厳しいプログラムから脱落した友人を知りませんでした。プロジェクト学習は最近になって注目を集めていますが、高専では1960年代初頭から実施されているのです。

深い学び

2015年のPISAの科学的リテラシーは知識と理解を重視し、例えば科学において生徒が知っていることだけでなく、科学者のように考えることができるかどうか、科学的思考を重視するかどうかを評価しました。その結果は、各国によって、そして地域内でさえも著しく異なりました。例えば、台湾の生徒は2015年の科学的リテラシーで最も優れた成績を残しましたが、相対的に見れば、科学者のように考えることよりも科学的な知識を再現することが得意だったのです。シンガポールの生徒は、知識において同程度の台湾よりも優れていましたが、彼らは知識よりも科学者のように考えることが求められる問題でさらに優れていたそうです。オーストリアの生徒は、科学的な概念を理解するよりも科学的な事実の知識において優れていたのに対し、フランスの生徒は概念的な知識が優れていたそうです。

このような差は、似たような成績の国であっても、教育政策と教育実践が生徒の学習成果に違いをもたらすことを示唆しています。この結果を受けて、政策立案者や教育者は、概念や認識の深い学びに重点を置くようにカリキュラムや教育システムを再構築することをシュライヒャーは期待しています。

これらはどれも新しい方法ではないと言います。実際、私たちは何千年もの間、思考スキルに焦点を当てた学習をおこなってきました。2016年9月、シュライヒャーは、イスラエル教育省のナフタリ・ベネット大臣とともにヘブロン・イエシバ神学校を訪問したそうです。このイエシバは、伝統的なユダヤ教の文書や法典を学ぶ人々のための最も重要な機関の一つであり、ヨセフ・ヘブローニ氏とモシェ・モルデチャイ・フェルベルシュタイン氏を含む少数の正統派ラビが率いています。

教員が講義し、生徒が知識の消費者となる従来の教室学習とは対照的に、イエシバの生徒は教員から助言や指導を受けながらペアで学びます。一つの巨大な教室で学ぶ1400人の生徒の中で、シュライヒャーは最大でも24人の教員しか見つけられなかったそうです。つまり、教育ではなく、学習の場なのです。彼がそこで見た学習体験は、互いに挑戦し、資料を分析して説明し、パートナーの推論の誤りを指摘し、互いのアイデアに疑間を投げかけ、学んだ内容の意味について新しい洞察を得ることをめざしていたのです。ハブルータは古代アラム語であり、「ペア」または「カップル」を意味します。このハプルータは、協同学習に不可欠です。一つのハブルータでは課題の解読や文章の理解ができない場合、隣に座っている2人と一緒に4人のグループをつくります。それでも彼らが課題を解決できない場合、グループは6人、8人と大きくなります。課題の解決後、生徒は元の2人に戻ります。

この学習の場は、生徒が互いの主張を話し合い議論するので、賑やかで活気があったそうです。それは、静粛な雰囲気で眼だけが働く伝統的な西洋の図書館とは対照的だったそうです。重要なのは、生徒が何かを覚えるのではなく、学習への集中を持続し、推論する力を磨き、論理的な議論のために思考を整理し、他者の観点を理解できるように支援することです。目標は、「正しい解釈」を考え出すのではなく、むしろ議論についての「より深い理解」を身につけることです。なぜ観点が異なるのか?意見の違いから何が生じうるのか?主張にはどんな根拠が示されているのか?最高の生徒とは、教員の対応力に挑戦するような質間を投げかける生徒です。この取り組みは、ある意味では探究的な学習や現代の教授法の母と言えるとシュライヒャーは評価しています。

知識で何をすべきか

教育者にとってのジレンマは、定型的な認知スキル、すなわち最も教えやすく測定しやすいスキルが、まさしくデジタル化、自動化、およびアウトソーシングするのに最も適したスキルということです。マサチューセッツ工科大学経済学部のデビット・オーター教授は、この点について印象的なデータを作成したそうです。学問分野における最先端の知識とスキルが常に重要であることは間違いありません。イノベーティブで創造的な人々は、その分野の知識や実践において専門的なスキルを有するものです。「学び方を学ぶ」スキルが重要とされるように、私たちは常に何かを学ぶことによって学んでいます。しかし、教育の成功とは、もはや知識を再現することではなく、私たちが知っていることから類推し、その知識を新しい状況で創造的に適用することです。それは学間分野の境界を超えて考えることでもあるのです。誰もがインターネット上で情報を検索し、多くの場合、回答を見つけることができます。その恩恵を受けるのは、その知識で何をすべきかを知っている人です。

OECD生徒の学習到達度調査PISAの結果は、生徒が取り組む問題がより複雑になり、より定型的でない分析力を含むようになるにつれ、記憶に偏った学習方略がますます役に立たなくなることを示しています。これこそまさにデジタル化が私たちの実生活での仕事を奪っていることを意味するのです。言いえれば、新しい知識を身近な知識に結びつけ、新しい解決策や知識をどのように転移するかを発敗的かつ創造的に考えるプロセスを入念に練り上げた学習方略は、明日の世界をより予測する、より要求水準の高いPISAの間題を生徒が解くのに役立つ可能性が高いのです。

将来の仕事は、人工知能と人間の社会情動的なスキル、熊度、価値観を結びつけるでしょう。そして、私たちのイノベーション能力、私たちの認識、私たちの責任感とは、人工知能の力を利用してより良い世界を実現することです。それは、人間が新しい価価を生み出せるようにするものであり、創造、製造、創出や策定のプロセスを含むものであり、イノベーティブで新鮮で独創的な成果を生み出すものであり、本質的な価値があります。それは、失敗を恐れずに試すことができるという、最も広い意味での起業家精神を示唆していると言います。この点で、ヨーロッパの創造的産業における雇用は驚くべきことではないと言います。すなわち、商業目的で才能を専門的に使用する産業は、ヨーロッパの多くの部門が雇用を削減し、雇用率が停滞していた2011年から2013年において3.6%の成長を遂げました。ヨーロッパの主要国では、創造的な仕事の成長が製造業を含む他の分野の雇用創出を上回ったのです。

同様に、対象の知識が急速に発達するほど、生徒にとって有効期間が限られた内容を習得する(知識の習得)のではなく、学間分野の構造的および概念的な基礎を理解すること(方法論の習得)が重要になります。例えば、数学では、生徒は私たちが数学を学ぶ方法と理由を知り(認職論的信念)、数学者のように考え(認識論的理解)、数学に関連する実践を把握(方法論的知識)する必要があるのです。

差別化要因

ハラリ氏は、あらゆる人々に価値を与えることに政治的、経済的、軍事的な意味があったために自由主義は成功したと指摘しました。しかし、彼がさらに説明しているように、生物学やコンピュータ工学が、様々な形の人間活動を余剰にし、知性を意職から切り離しているので、人間は経済的価値を失う危険にさらされているのです。もし、私たちが教育機会における公平性の目標を、全員に雇用のための読み書き計算能力を提供することから、明日の世界の成功に貢献できるように認知的、社会情動的スキルと価値観を持つ全ての市民に力を与えることへと広げたいのであれば、時間は極めて重要であるといいます。

私たちは、人々の才能を開発し、利用する上で広く存在する、社会経済的な不平等の原因に取り組む必要があると言うのです。あらゆる経済時代には、その時代における中核資産があります。農業時代の中核資産は土地であり、産業時代では資本でした。そして、私たちの時代の資産は、人々の知識、スキル、性格面での資質だとシュライヒャーは言うのです。この中核資産は、大部分が未開発で過小評価されていると言うのです。彼は、今こそ私たちはそれを変えるべきであると主張しています。

産業革命以前では、大多数の人々にとって教育や技術はあまり重要ではありませんでした。しかし、その時期、技術が教育に先んじて競争すると、膨大な数の人々が取り残され、想像を絶する社会的苦痛をもたらしました。公共政策が全ての子どもたちに学校に通う機会を提供するのには1世紀を要したのです。その機会は現在、世界中の多くの人々に与えられています。しかし、その間にも世界は変化しており、学校に通う機会や学位のいずれも成功を保証するものではありません。デジタル時代では、技術は人々のスキルに先んじて再び竸争しており、先進工業国の多くでは卒業生の失業率の上昇が不安を高めています。

デジタル化の加速が、大部分の人の仕事をなくすと言う人もいます。時には、技術が仕事を創造するよりも早く、技術が仕事を破壊する最初の時代に住んでいるかのように感じます。私たちが新しい雇用を創出しても、それが必ずしも機械よりも人間のほうが得意な仕事とは限りません。

それでも、シュライヒャーは懷疑的だそうです。彼は高校生のとき、ドイツの劇作家ゲルハルト・ハウプトマン氏が1892年に執筆した「織り人たち」に関するエッセイを書いたそうです。この演劇は、1840年代に産業革命に対して反乱を起こしたシレジア人の織り人たちを描いたものです。産業革命が織り人たちの仕事を奪ったのは事実ですが、衣料業での雇用はなくなりませんでした。実際、産業時代に求められる新しい知識、スキル、マインドセットを人々が一度身につければ、これまでよりも数多く、もっと給料の高い仕事に就くことができたのです。そして、仕事の変化は、より多くの人に今まで以上に良い服を着られるようにしたのです。多くの暗い紆余曲折はあるものの、私たちの想像力と適応能力に制限がなことを歴史は示唆しているというのです。

しかし、教育は歴史を通して技術との競争に勝利してきましたが、それが継続する保証はありません。スマートフォンを使いこなせても、貧しい教育を受けた子どもたちは、これまでにない課題に直面するだろうとシュライヒャーは言うのです。私たちに今できることは、彼らが必要とする教育を再考するために私たちの能力を活用することだと言うのです。

公平

ここで検討する価値のある要素がもう一つあるとシュライヒャーは言います。これまで議論したようにPISAは、より多くの教育がより良い社会的経済的成果に関係するだけではなく、社会的および市民参加の改善と信頼にも関係することを示しています。教育、アイデンティティと信頼の関係の根源は複雑ですが、信頼関係は現代社会の接着剤であり重要です。人々、政府、公的機関、厳しく規制された市場の信頼がなければ、特に短期的な犠牲が生じる場合や長期的なメリットが直ちに明らかでない場合には、革新的政策のための公的支援を結集するのは難しいと言います。信用の低下は規則や規制の遵守順守を低下させ、より厳格で官僚的な規制につながります。市民や企業は、リスクを避け、成長や社会の発展を加連するために不可欠な投資、イノベーション、労働移動に関する決定を遅らせるかもしれないと言うのです。

政策策定と実行における公平性と統合性の確保、より包摂的な政策の立案、市民による真の社会参画は全て、参加者の知識、スキル、素養に依存します。教育は、開いた国境と持続可能な未来に基づいた公平な枠組みの中で、個人、地域社会、国々のニーズと利益を調和させる鍵となるだろうとシュライヒャーは言うのです。

ところで、私たちは人間の可能性をはるかに公平に育てる義務があります。これは道徳的かつ社会的な義務であり、大きなチャンスでもあります。才能は機会や金融資本よりはるかに公平に分配されているので、人間の可能性に基づく成長モデルは、よりダイナミックな経済とより包摂的な社会を作り出すことができると言うのです。先に議論したように、より公平な知識とスキルの分配は、賃金格差を減らすのに補完的な影響を及ぼします。そして、この影響は経済の規模を拡大しながら続いていきます。より優れたスキルによって可能になった包摂的な進歩は、経済と社会発展の恩恵が市民の間でより公平に分配され、さらにより大きく全体的な社会的、経済的な進歩につながる大きな可能性を秘めていると言います。

経済的再分配によって不平等に対処できる時代ではなくなったとシュライヒャーは考えています。これは経済的に困難な戦いであるからだけでなく、さらに重要なことは、高水準の認知的、社会的、情動的スキルが求められ、生活と仕事の境界が曖味になり、ますます複雑化する世界では、全ての市民がより重要な社会参画の問題に取り組まないからだと言うのです。おそらく機械はいつか、現在人間が従事している仕事の多くを担えるようになり、仕事において多くのスキルの需要を減らすであろうと言います。しかし、ますます複雑化する社会生活や市民の生活を行意義にするという私たちのスキルへの要求は、高まり続けると言うのです。

世界の多くで社会経済的な不平等が広がり、進歩を阻害し、社会を分裂させているとシュライヒャーは見ています。産業時代には、誰もが必要とされ、果たすべき役割を担っていたため、機会の公平性は基本的な教育目標となりました。そのため、学校システムは、その目標を果たさなかったとしても、全ての生徒に同じ教育を提供するように設計されました。イスラエルの歴史家ユヴァン・ノア・ハラリ氏が指摘するように、あらゆる人々に価値を与えることに政治的、経済的、軍事的な意味があったために自由主義は成功しました。