fujimori の紹介

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特定の職務

子どもたちは、例えば教師とか警官といった特定の職務をもった大人に対して、ある程度の予期をもっています。しかし、もっと広くいうと、人は他者がその社会的な地位に応じて、すなわち人種や階級・文化、性別によって定義されるあるグループの成員として、それに応じたある特定の範囲の行動をすると考えるようになります。このため、男性の教師や警官は、子どもがよろこびや悲しみをともにしたいと思い、その人のためにではなく、その人と一緒に活動したいと思うような、信頼関係を築くのが、他の人より難しいことに気づくだろうとハート氏は言います。その一方で、行動を通して子どもたちに、これまでとは違った関係を示せば、子どもはその人の社会的な役割と、社会における位置は必ずしも固定的なものではないと気がつく可能性があると知れば、社会的に権威のある職務につく男性にも救いはあるだろうとハート氏は言うのです。

すべての子どもが、自分のコミュニティや環境をよくするために発言できるようにするという目標を追求していく際、女の子には参画しようとするときに特別な障壁があることを知っておかなければならないと言います。フェミニスト的な心理学の理論では、最近、自己概念の形成に政治の力が大きく作用すると言われるようになってきています。ふつう、社会や親、教師、さらに仲間に対してさえも「よそ者」のように装うことが、女の子のアイデンティティの基になっています。彼女らが、この不公平を意識していないときにはとくに、このことが彼女らの力を弱めているというのです。こうした社会の無言の圧力に対抗するためには、女の子も一緒の参画プログラムで、特別な努力をする必要があると言います。

世界のどこでも、コミュニティの活動に参画する組織的な機会は、女の子よりも男の子に多く与えられているように見受けられると言います。このことは、豊かでない家庭では、女の子が家の中の仕事の多くを担っていることを反映しているのかもしれないとハート氏は言います。多くの文化圏で、女の子は早くも3歳ぐらいから、母親の仕事を覚えることを要求され、薪集めからはじまって、兄弟の世話、食事の準備まで、だんだん難しい仕事をこなすことを期待されているのです。男の子には、仕事を覚えるようになるまでに、自由に遊ぶ時間が残されています。そしてその仕事は、ふつう家から離れたところで行なわれます。しかし、こうした性による差は、別の要因で説明できるかもしれないと言います。子どもと青年のためのプログラムの多くは、子どもたちを忙しくさせ、問題を起こさせないようにしようという意図のもとに作られてきましたが、男の子の方が女の子より問題を起こしやすいと見られているため、予防的プログラムが、男の子のためにより多く用意されてきたのだと言います。さらに、どの文化圏でも、男の子はたいてい、成人したらものごとを決定する者になれるよう準備をしておくべき子どもとして捉えられており、男の子には自治と意思決定の能力を伸ばす機会になるようなプログラムが、必要だと考えられています。反対に、女の子はもっと保護され、家庭内の役割を担う準備をするべきだと考えられているのです。

アメリカ合衆国では、教室での学習スタイルにも、性による差があるといわれてきました。女の子は、いろいろな考えを積み重ねていくことで、グループの意見の一致を促す対話型のスタイルを好みます。それに対して男の子は、議論や個々の活動を通して学習する方が多いようです。少なくとも学校では、多くの授業は男の子の学習パターンに添っており、女の子には不利にできているといわれています。

子どもと大人

かつては、子どもは同じような能力をもつ子ども同士のグループのなかで、いわゆる一般に年齢的に近い子どもたちのなかで学ぶものと考えられていましたが、いまでは理論や研究に基づいて、年齢や能力が多様な集団で一緒に活動することが子どもにとってよいことだと多くの人が主張しています。なぜなら、これによって子どもたちはお互いからよりよく学ぶと同時に、子ども同士のギブ・アンド・ティクの技術を身につけるからです。そして、子ども同士の相互作用は、発達をより大きく促します。なぜなら、大人と子どもの間の相互作用は、ふつう大人が子どもへ指示するという特徴があるのに対して、仲間関係であれば双方向の学び合いがよりいっそううまくいくからです。いわゆる異年齢集団の中での子ども同士の学び合いが、より発達を促すということです。このように、仲間同士の相互作用にはかなり柔軟性があるので、子どもたちは分かり合えているかどうかを試したり、今まさに行なわれている相互作用に必要なことに、自分を合わせたりできるのだというのです。そういう経験をするには、同じ年齢の子ども同士の方が、適しているように見えるかもしれませんが、異年齢の子どもたち、そしていろいろ違った才能をもった子どもたちを一緒にすることには、別の良さがあるとハート氏は言うのです。

能力や年齢の低い子どもたちは、より洗練された課題の取り組み方を見ることによって、恩恵を受けます。さらに、いくつかの学校で行なった研究から、このことがグループのなかでもっとも知的な子どもたちの足を引っ張ることはないということがわかったのです。それどころか、彼らにとっては、自分たちの能力を表現するよい機会となるであろうとハート氏は考えています。年齢の高い子どもは、例えば年下の子どもを手伝って教えるという独断的な役割を、試しにやってみようとするかもしれませんが、年下の子どもはあまりこわい思いをせずに、助けてもらえるこの機会を利用しようとするかもしれないのです。つまり、異年齢の子どもたちを一緒のグループに入れることは、一般に、そのグループに参加している全員に有益なのです。ただ、青年と幼児のように、あまりに年齢の差が大きい場合は、子どもと大人の関係と同じように、力と知識の差が生じてしまうことはありえると言います。

子ども同士の仲間関係に比べて、6歳から8歳の子どもと大人との関係は、どうしてもルールと物による褒美に縛られてしまいます。しかしながら、アメリカ合衆国で行なわれた研究から、子どもと大人との関係は、青年と大人それぞれの特性が認められるようになるにつれて、青年期初期までには単なる大人側からの権威による関係から、互いに影響しあう相互作川的関係へと変わる可能性があることがわかったそうです。もちろん、そのような発展には、文化によって大きな差異があるようです。

大人が子どもからどのように見られているかということも、大人の社会的な役割の問題と関連があると言います。社会的役割は、職務と権限の関係によって固定的に決まっているものと捉えるべきではなく、もっと幅広く、その役割では、どのような行動であれば社会的に認められうるかという可能性として、捉えられるべきであると言います。

学び合い

自分や他人が感じていることについて話し合う「習慣」ができている環境では、幼い子どもにも、一緒に何かをやろうと促すことはできると言います。たとえ子どもが自分のやり方を通したいと望んだとしても、そのようなディスカッションに加わることで、その場・その時かぎりにせよ、他の子どもたちの視点に気づくようになるだろうと言います。そのようなディスカッションが、子どもたちの長期的な発達を促進するとは期待できませんが、ディスカッションのなかでつくりあげられた手続きは、コミュニケーションがうまくとれないとか、他者の視点で理解することがうまくできないという、幼い子どもたちの能力的な制約を乗り越えて、論争をうまく収める方法として受け入れられるだろうとハート氏は考えています。また、もっと年長の子どもたちの間では、自由にコミュニケーションができる環境を用意することで、価値観を確立し、他人といっしょに活動することにつながる、正直な意見交換の仕方を身にけることも期待できると言うのです。

子どものためのプログラムを作るうえで、子どもたちがどうやって共通の興味をもつ者同士で、自発的にグループを形成するのか、子どもの友情はどのように育つのか、どうやってお互いに対する親密感を育むようになるのかを知っておくことは有益だと言います。研究者たちは、子どもたちが、仲間集団のなかで果たしているいろいろな「役割」を明らかにするとともに、どうやって仲間に受け入れられたり、拒否されたりするかにとくに着目してきました。優劣関係は、早くも学齢前から児童期中期、青年期を通して、とくに男の子たちのグループで特徴的にみられます。青年期に入ると、腕力の強さよりも、グループの規範に従った、活動の役に立つような性格の方が、グループの構造に、より強い影響を与えるようになります。民主的につくられたプログラムを経験すれば、腕力が支配するような仲間関係から脱していくことは間違いないと言います。

相手とやりとりをしたり、助け合ったりすることによって、相手に対して魅力を感じあうことから、幼児の友だちづくりは始まることがわかっているそうです。そこからは、「意気投合の雰囲気」ができてきます。ヤニスらは、6 ~ 7歳の子どもは、一緒に活動したり、ものごとを共有する相手を「友だち」と表現することを明らかにしました。9歳から10歳になると、子どもは、「友だち」とは、自分がよく知っている人、同じ関心をもったり、似たような才能をもっている人、あるいは気があう人であると表現します。青年期の友情形成においては、共通の活動へ参加することが重要な基礎であることに変わりはありませんが、一方で、その他の要素も入ってきます。すなわち、学校やその他の教育活動に対して、似たような関心・行動・態度を示すことはもちろん、かなり共通した価値観をもっていることなどによる、非常に理性的な関係になってくることがわかっています。

ハート氏は、子ども同士の学び合いには、異年齢集団が大切であると考えています。それは、子どもの能力の発達における重要な論点のひとつは、能力が異なった子ども同士が、相互に学び合う力量に関することだと考えているからです。かつては、子どもは同じような能力をもつ子ども同士のグループのなかで、いわゆる、一般に年齢的に近い子どもたちのなかで学ぶものと考えられていましたが、いまでは理論や研究に基づいて、年齢や能力が多様な集団で一緒に活動することが子どもにとってよいことだと多くの人が主張しています。

グループの活動

困難な課題の取り組み方を学生に教えるもっともよい方法は、やり方の「お手本」を示すことであると考えられていることが多いようです。しかし、お手本を示すことは、彼らに自由で民主的な問いを出せさせようとする試みとは相反すると言います。つまり、子どもたちが課題に対して、自分たちの解決案をつくるのを励ますのではなく、逆に何かをやるための決まった方法、あるいは好ましい方法を示すことになるからだというのです。子どもが民主的に参画することを促すもっとも適切な方法は、対話に基づくものだと言います。さらに、人はばらばらな行動の連続ではなく、行為や相互作用の一連のパターンを、習得していくということが、現在一般に認められています。子どもや青年は、何かの話題について討論するなかで、明らかになる意見の違いによってだけでなく、仲間と論争し、相手を説得しようとすることによって、自分のものの見方と他人のものの見方の違いにさらに自覚的になるのです。このような内省する能力によって、将来の社会的な相互作用が生み出されるのだというのです。ときとして、調整役としての大人の介入が必要かもしれませんが、参画する子どもは、できるだけ自分たちの民主主義を、自分たちでつくるように奨励されるべきであると言います。成功するグループでは、何かの案について討論したり、どのように課題にとりかかるかを決めるようなときに、いろいろなメンバーから出された代替案を考慮に入れるよう促されるでしょうし、またお互いの貢献を認めあうように促されるでしょう。またそういうグループの活動は、グループのメンバーが相互に学び合うことの価値を、はっきりと反映するように計画されているでしょう。その価値とは、道理にあった言動、秩序正しさ、他者の感情を尊重すること、平等性、リスクを冒す自由、他者のいうことに耳を傾ける能力などだというのです。

ハート氏は、最後に述べておくべきことは、大人と一緒の調査研究では、グループ・アイデンティティを確立することが、社会的な協力関係を育てるうえで非常に大事であることがわかってきた、ということだと言います。したがって、子どもに対してこのようなグループ・アイデンティティの感覚を養う機会をつくり、それを支えることは、彼らの民主主義が発展するための糧になるだろうというのです。

次にハート氏は取り上げているのは、「コミュニケーションと協力」です。ごく幼い子どもは、言葉の基礎がまだ充分できていないために、コミュニケーションの能力が限られています。3歳から7歳ぐらいで上手に話すようになりますが、もっと年齢の高い子どもや大人とは違ったコミュニケー-ションの取り方をします。自分の考えや経験・感情・欲求を流暢に表わす彼らの能力には、ときとしてハート氏は感動を覚えると言いますが、彼らは他者の視点に立つことができないため、聴き手に合わせて話を調整することができないのです。こうした限界があるので、彼らは上手に駆け引きしたり、交渉や妥協をすることができません。コミュニケーションのスキルは、子どもから成人になるまでに、徐々に発達していくものです。しかしながら、そうしたスキルは育成することができるというのです。

協力する能力

次に、仲間と協力する能力の発達を見ていきます。

世界のどこでも、子どもは、自分たちに対して権力を振るう大人とよりも、仲間同士の間での方がずっと平等な関係をもっているとハート氏は言います。彼は、子どもたちの間で、このように地位がきわめて対等であることが、協調性の発達にとって、とくに大事であると考えています。ここでもまた注意しておきたいのは、この理論はアメリカでつくられたものであり、もっと集団主義的色彩が強い文化のもとでは当てはまらないかもしれないというのです。この理論に従えば、子ども同士が相互にわかりあうようになるためには、お互いの言い分をよく聞き、一致しない点を解決しようと試みることが必要であると考えられると言います。まさに、私たちが設置している「ピーステーブル」の役割ですね。6歳から8歳の子どもは、仲間同士で厳密な直接的相互関係をつくるといわれています。つまり、この年齢の子どもは、他の子どもの行為に「同じやり方で」返します。9歳から11歳になると、この厳密な相互関係から協力の関係に変わると言います。というのも上述のように、この年齢では行為の裏にある、心理的な側面に留意できるようになるからだというのです。ヤニスによると、大人との協力よりもこうした仲間との協力の方がより有益であると言います。9歳未満の子どもたちの間では、本当の協力関係ができないからといって、彼らが環境のプロジェクトへ参加できないわけではないと言います。ただその場合、グループをまとめるためには、大人か10代の若者がかなり責任を担っていく必要があるとハート氏は考えています。

先に書いたように、最近の研究では、その時期はかなり早いと言われています。実際に、現場で子どもを観察していると、幼児のころから仲間同士で直接的相互関係を作っています。また、その関係から、4,5歳になるころには、協力の関係に変わっていきます。確かに、本当の意味からではないかもしれませんが、その萌芽が見られます。ということで、十分に幼児期から環境のプロジェクトに積極的に参加することが可能な気がしています。

この理論をもとにすると、子どもが仲間と相互に利益を得る関係を結ぶ必要に迫られたときに、協力することを学ぶとすれば、ほったらかしにしたり、権力を使って強制するような団体よりも、仲間と一緒に仕事をすることが必要な団体の方が、協力する能力をよく発達させるであろうと考えたくなるとハート氏は言います。残念ながら、この問題については、あまり研究例がないそうです。やはり集団における行動の観察は難しいようです。ただ、クラスに対してグループ単位での報酬を与えたほうが、子ども各人に個人的に報酬を与えるよりも高いレベルの協力関係が見られたことを示した研究はあるそうです。もちろん、この問題に関して深く議論するときには、その文化がどの程度個人主義的、あるいは集団主義的な志向性をもっているかを考慮する必要があります。また、女性は大人でも子どもでも他者との関係性をより重視し、相互依存的あるというように、性に関連してもこのような対照的な形態がみられると指摘する人もいるそうです。また、自律的か依存的かの違いは、人が社会階層のなかで、どういう位置にいるかということにより大きく関係しており、女性も含めて自律的な立場にない人は、生き延びるために、他人とのつながりや社会の共通の目標に向かって、熱心になるとも指摘されているそうです。

ドイツ冒険広場

仲間集団とリーダ-シップ

次に、各ステージでの仲間集団はどんな特徴があるのでしょうか?ステージ0では、「身体を使った関わり合いと分かりやすい行動が重要である。例えば、ゲームをするとき、“大きなチームになって”という」ステージ1では、「この段階の仲間集団は、一方的な関りが集まっただけである。グループ活動は、自分のため、もしくは他人を喜ばせる成果として捉えられる。相互的関係は身体的な活動に限られる」です。ステージ2になると、「双方向の相互協力関係ができる。一組の二者関係から別の組へと二者関係同士がつながっていき、“友情の輪が広がる”」です。ステージ3になると、「特定の関係とは区別された仲間集団の概念ができてくる。グループは、共通の関心と考えで結ばれる。しかし、みんなの意見が一致することを期待するあまり意見の違いを抑える」です。ステージ4になると、「グループの作業プロセスと個人の能力の相違は、相互依存的関係にあることが理解される。共通の目的を持ちつつ、多様性を認める多元的なコミュニティが一体化する」

最後に、各ステージにおけるリーダーシップはどういうものでしょうか?ステージ0では、「なぜそのようなことをするのか、といった原理的なものではなく、“これから何をするのか”を、リーダーの行動から理解する」です。ステージ1では、「権威に対しては、従順なため、リーダーが傷ついて辞めてしまうこともある」です。ステージ2になると、「明確な実利的効果に結びついた意見や行動が相互依存性の基礎となっている」です。ステージ3では、「全員一致、チーム精神が尊ばれる。リーダーシップは、パーソナリティの差として捉えられる。またリーダーの義務は、グループの中で共有された信念に基づいている」です。ステージ4になると、「リーダーの役割について、抽象的な概念を持つ」になります。

この社会的な視点の発達における、親しさの捉え方、仲間関係、そしてリーダーシップがどのように関連しているかを見ることは、いろいろな年齢の子どもたちを、もっともうまく参加させるような組織を作るための道具として使えるとハート氏は言います。確かに、これは、保育の中でもかなり参考になります。しかし、ハート氏はこんな注意をしています。「ただし、大人はただ子どもに参加の機会を与えるだけであり、参加する子どもは必ずしもいつもうまくいく活動をするわけではないということを、意識しておく必要がある」というのです。

また、ここで示したように、自己認識の発達と他人を理解する能力は、仲間集団のなかで、または仲間やそうでない人が混在するグループのなかで、子どもが仲間やグループとどんな相互関係を示すかということと密接な関係があると言います。これまで、このような発達のなかでは、幼い子どもたちには何ができないかを表わすということがあまりにも多かったのです。ここでの目的は、むしろ大人が適切な機会をつくれば、子どもがどんなことが

できるかを考える手助けをすることだというのです。組織したり、調整することは、青年期の初期かそれより後まで期待できないとしても、子どもたちはそれぞれの年齢でグループの活動に力を発揮することができるのです。例えば就学前の子どもは、自分の好きなことを表現したり、他の人と一緒にプロジェクトに参画することを楽しむことができるのです。

ものの見方のレベル

ハート氏は、これまで書いてきた子どもの他者理解の発達は、他人の立場に立ったものの見方ができるようになる、という子どもの知的な発達と論理的な能力の面に限られていると信じていると言います。人々が受け持っているいろいろな役割や、それにともなう権限についての理解力は考慮に入れていないというのです。これらの要素は、子どもが他人の目でものを見ることを適切であると考える度合に影響しているに違いないと言います。例えば、子どもがグループのなかの誰かが警官であることを知り、そしてまた警官はよくないことをしている子どもを罰するものと考えているとすれば、子どもがその人物を個人として理解する知的な能力を踏みにじってしまうかもしれず、それが参画しようとする気持ちを弱めることにつながるかもしれないと考えるのです。

こうした理論が、どのように子どもたちをプロジェクトへと呼び込むかを理解するには、ものの見方の「レベル」、親しさの捉え方、仲間関係、そしてリーダーシップがどのように関連しているかを見ることが有益であると言います。レベルとの関連をハート氏は、以下のように示しています。これは、社会的な視点獲得の発達レベルと、それらの社会的な関係における反映のされ方を、1980年のセルマンの研究にならって表しています。ただし、これは、アメリカ合衆国での研究に基づいており、おそらく日本のような集団主義的な文化よりも、比較的個人主義的な伝統のある英国系ヨーロッパ文化と密接な関係があると注意しています。

まず、「見方(視点)を調節する能力の発達段階」です。レベル0(おおよそ3~7歳)は、「自己中心的、あるいは未分化な見方、他者の視点が自分自身の視点から分化していない」段階です。レベル1(おおよそ4~9歳)では、「主観的見方だが、分化した見方、物の見方が人によって違うことがわかる」段階です。レベル2(おおよそ6~12歳)では、「自己内省的、あるいは相対的な見方、自分の考えや感情を他人がどう見ているかに気付く」段階です。レベル3(おおよそ9~15歳)になると、「第三者的見方、あるいは相互共通的見方、中立的見方ができるようになる」段階です。レベル4(おおよそ12歳~成人)になると、「社会的・綿密な見方、何が社会にとってよいことなのか、法律的、道徳的見方ができる」ようになります。

それでは、各レベルにおける親密な友だち関係はどのように発達するのでしょうか?ステージ0では、「短時間、身体を通したかかわりを持つ」で、ステージ1では、「一方的に助けてもらう。例えば、一緒に好きなゲームをしてくれる人を友だちと思う」です。ステージ2になると、「気が向いたときや、何か事件・問題が起こったときだけ協力。喧嘩で関係が壊れる傾向がある」、ステージ3は、「親密な関係ができ、共感ができる。孤独でない関係。この段階では所有欲と嫉妬がときおり特徴的に見られる」。ステージ4では、「自律的であり、かつ相互依存的でもある。すなわち、この段階の関係性は、柔軟で状況に応じて変化していく」です。

他者理解

個人主義文化の伝統のなかで成長する子どもの社会的なものの見方の発達と、もっと共同体意識の強い伝統のなかで育てられる子どものそれとは異なるかもしれません。子どもたちの自己中心的な段階が、以下に述べるようには顕著に現われない社会もあるかもしれませんが、子どもと一緒に活動しようとすれば必ず、ある状況を同時に多面的に考えることが子どもたちには難しいということに気づかされるであろうとハート氏は言うのです。非常に限られた側面においてではありますが、子どもは3歳までには他人にはそれぞれのものの見方があることを知るようになると言われています。しかし、他人にはそれぞれの感情と思考があることにだんだん気がつくようにはなっても、一方で5、6歳までは、人の行動に潜在する主観的・心理学的側面と、客観的・身体的側面との間で混乱が生じます。例えば、他人がわざとやっていることと、そうでないことの区別ができません。7歳から12歳で、子どもは自分を外から見ることを覚え、他人との関わりを自省的に見ることができるようになり、そして他の人々も同じことができるということが分かるようになると言われています。

しかし、この能力は、実は最近の研究では、もっと早い時期に分かるようになるのではないかということが研究されています。ですから、子どもは早い時期から他の人が考えたり、行なったりしていることを、予測できるようになり、自分と他人のものの見方をうまく整理する能力がだんだんに高まってくるのです。初めのうち子どもは、他人の見方をとり入れて、その結果、他人のものの見方や行為の意図がわかるようになります。おおよそ10歳以上になってやっと、自己と他者の間の心理関係を認識するようになると言われてきました。つまり相互的な見方をすることができるようになるということです。そして子どもはこの頃、興味はあるが少しこわいといったような、多面的で入り交じった感情が人にはあるらしいことを知るようになるのです。

青年期までには、人は他人の考えに気づいているだけでなく、他人が自分のことを考えているかもしれないということを鋭く感じるようになります。そのような内省的な力ができてくると、他人と方略的な計画をもって関わるようになります。互いに相手の見方に立つことは、持続的な民主主義のグループに身をおくことができるためには必要なのです。これらの能力はまた、青年期の初期から中期にかけて特徴的な自己意識を高めることになり、そのためにしばしば仲間から孤立してしまったり、仲間との関係や自分が仲間にどう見られているかに極端に重きをおくようになるのです。こういった感情は、若者が他者と一緒のプログラムに参画しようかしまいかを選ぶうえで重要な役割を果たすとハート氏は言います。

青年期のこうした相互的な見方の能力を超えたところに、もっと次元の高い「社会的・象徴的な見方」がある、とセルマンは仮説を立てています。この見方ができてくると、すべての個人が共有できるような、一般化された社会的・法律的・道徳的な見方を形づくっている、複合的で、相互的なものの見方がどのようなものかを想像できるようになるというのです。

人は、正確に意思を伝達するため、また理解を容易にするために、他人はこの共通の視点を使っていると信じています。12歳以降になればいつでも現われ得るこの最終段階は、子どものためにもっとも実り多い、協力的なプロジェクトを用意するべき段階だというのです。

社会性

大人は子どもに、もっとも身近なことを自分で決めさせることによって、自分でも何かができるという感覚を育むことも考えるべきであると言います。自分の着る服を選んだり、作ったりすることや、自分の寝室を飾ることをやらせてもらえなかった子どもは、コミュニティの環境の改善に自分が関わることができるとか、関わるべきであるという気持ちをもつことが少ないようだというのです。

ドイツで子どもの参画の話を聞いたときに、例えば、昼食を、「誰と、どこで、何を、どのくらい食べるのか」を自分で決めることができるといったのは、ここでハート氏が言っているような、大人が子どもに、最も身近なことを自分で決めさせることによって、自分でも何かができるという感覚を育むことなのですね。

ここでひとつハート氏は、注意をしています。アメリカ合衆国のあるところで、自尊感情を育てるためのプログラムが実行されました。それは、あるグループ、あるいはあるカテゴリーの子どもたちは、特定の標準的な学業についていけないので、そういう子どもを元気にするには、特別の努力が必要だと考えて行なわれたものだったそうです。そのような取り組みは、ややもすると、子どもに横柄な態度を取ったり、攻撃的になったりしやすいのですが、子どもたちは、自分たちが真面目に扱われていないことを見て取ってしまうものです。子どもたちは、世界で競争ができるようになる必要がありますし、大人は子どもたちの強さと弱さを正直に彼らに伝え、その正直さのうえに立って指導をする必要があるというのです。どんな子どもにも、なんらかの優れた点があります。一人ひとりの子どもを支えるのに、これらの優れた点を認めることは確かに良いことではありますが、別の分野の劣っている面をカバーするようなことまでしてはならないというのです。これは、慎重に歩みを進めなければならない指導の過程であり、子どもを参画させるファシリテーターの質とトレーニングが非常に重要な理由のひとつはここにあるとハート氏は言うのです。

次に、社会性の発達については、ハート氏はどう考えるでしょうか?まず、その中の「他者のものの見方を理解する能力の発達」について考えます。参画する能力は、他者の考えや感情について考えるという基本的な能力に関係しています。自分の見方とは違った見方があることを理解することは、子どもたちにとって難しいことだとハート氏は言います。しかし、このことを知ることは、子どもと一緒に協力的なグループ活動をしようとする人にとっては、大事なことだというのです。少なくとも知的な面からいえば、小学校低学年でも子どもは大人と一緒に活動する能力があるのです。しかし大人は、子どもが他人のものの見方を理解する力には限界があるということをよく知っておく必要があると言います。しかし、残念ですが、ここでもまた理論は北半球の先進工業国の子どもたちに関する研究に基づいていると言います。英国およびヨーロッパ大陸の個人主義文化の伝統のなかで成長する子どもの社会的なものの見方の発達は、もっと共同体意識の強い伝統のなかで育てられる子どものそれとは異なるに違いないというのです。では、日本の子どもたちはどちらでしょうか?私は、日本は、非常に共同体意識の強い伝統を持っていると思っていますが、最近、どうも欧米化したり、欧米の考え方が正しいと思って、それを取り入れた育て方をしている人が多くなっている気がするのです。

未知の可能性

子どもたちはいろいろと違った環境の下に生きているのですが、子どもが自分の能力に対する考えを発達させるうえで、その社会の構造が重要な役割を果たしていると言います。自分を抑えて、言われたことをするようにと強制される学校のような環境では、それが極端になると、子どもたちは依存性が高く過度に控えめになり、その結果、学びたいとか働きたいという欲求を失ってしまうと懸念します。それとはまったく逆に、完全に自由に遊ばせ、好きなことをさせれば、子どもたちは混乱に陥ります。子どもたちが、自分は人の役に立つ現実的な仕事ができるのだということを発見できるようにしておく必要があるというのです。こうした達成感によって、彼らは自分自身の未知の可能性に気づくようになるとハート氏はいうのです。

コミュニティプロジェクトに関わりたいという子どもの欲求や、その能力を踏みにじる最大の要素は、自分自身に対する感情だとハート氏は考えています。これは、自分の属している社会階層や文化について、どう感じているかということと関係していることがたいへん多いと言います。ロバート・コールスは、アメリカ合衆国の貧しい家庭の子どもと一緒に行なった研究を通して、貧乏に加えて差別と無力感の経験が重なると、子どもの自分に対する感覚および何かを変える力が、どんなに打撃を受けるかを、明らかにしました。自尊感情が乏しい子どもは、自分の考えや感情をゆがめて伝えてしまう、防衛機制を発達させる傾向があるので、こういう子どもはグループに参画することがとくに難しいと言います。ブラジルのもっとも貧しい都市近郊で、「路上教育者」や、正規ではない学校や民間の学校の教師たちは、「貧困のなかで生活をしている子どもと一緒に活動する場合、まず彼らの心に自分が属する文化に対して強いアイデンティティを育てることが大切である」と、ハート氏に繰り返し説明したそうです。帰属の意識があってはじめて、子どもは自分のため、また自分のコミュニティのためによく働くことができる、と彼らは説明したのです。こういうわけで、子どもと一緒のプロジェクトでは、最初に音楽やタンスや劇を重視しながら、彼らの文化的なアイデンティティの表現を創り上げることに集中します。こういうイベントを創り出す過程で、子どもたちは、彼らの文化の歴史や貧困・差別のルーツに直面することになるのです。それはまさに、パウロ・フレイレが「意識化(conscientization)」と名づけたプロセスです。この機会に、子どもの参画において文化がどんなに大切な役割を果たしているか、ということを反芻してみるとよいとハート氏は提案しています。文化が違えば、労働を担う子どもの年齢や性別役割分担が違い、子どもたちを参画させるためのプロセスが違ってきます。一部の子どもが、遠慮して割り当てられたことをしないように見えるのは、子どもがもつ役割に対する期待が、文化によって違うことと関係があるかもしれないとハート氏は、考えています。

大人が期待しているほど、積極的に参画していないようにみえる子どもたちを、もっと本格的に参画させようとするなら、状況を確かめ、もっている力を表現する能力を最大限引き出せるような機会をその子に与える、という原則に従うことが大事であるというのです。これはさまざまな参画の方法と、多様な表現のメディアを使わせることを示していると言います。