悪玉の親分

キリスト教では、「妬み」は、大罪として取り上げられていますが、仏教では、煩悩の一つである「嫉(しつ)」として扱われています。私は、よく知らないのですが、山浦氏によって、こんな説明がされています。釈迦の死後数百年の間に、仏教教団が分裂してできた部派の一つである説一切有部によって、「五位七十五法」という、あらゆる事象を5つの区分と75の法(要素)で説明する分類がなされました。5つの区分の一つが「心所法」という心の働きであり、そのうちの要素の一つに嫉が組み込まれているそうです。同じ区分の中には、忿(怒り)、覆(自分の過ちの隠蔽)、諂(へつらい)などがあるそうです。

このように、「妬み」は人間の最も原始的な心理で、遠い昔から、私たちの心に潜む相当な悪玉の親分だと考えられてきたと山浦氏は言うのです。

心理学では、ルイスの発達理論が有名ですが、彼によると、誕生直後に満足(快)・苦痛(不快)・興味(関心)の3つの感情を持つとされ、生後3か月後には満足から喜び,興味から驚き,苦痛からは悲しみ・嫌悪が分化し,生後6か月までには苦痛から怒り・恐れが派生して基本的な感情が出そろうと考えられています。これらの基本感情は、一次的感情と呼ばれます。その後,自己意識が発達してくることで、1歳半から2歳頃には照れ・妬み・共感が感じられるようになるのです。これを見ても、人間はかなり早いうちから妬みという情緒を発達させるのですね。私は、このころは、母親に次の子が生まれるので、このような感情が発達するのではないかと考えています。

次に、山浦氏は、「他人と自分を比較するのをやめられない」という感情を取り上げています。「私は先延ばししてばかりで、計画どおりに物事が進んだためしがない。一方で、同じ職場にはそれをやってのける同期入社のXさんがいる。Xさんが、私がこれまで務めてきた役職に就くことになった。私はまだやる気だったし、これまで一生懸命やってきた自負もあるのに、どうして今この人事なんだろう」

山浦氏は、こんなふうに私たちは日々、誰かと比較しながら自分の能力や存在価値を値踏みしていると言います。自分よりも優れた能力や魅力を持った、同じ職場のXさんの存在に気づいたとたん、その存在を意識し始めます。冷静に考えれば、Xさんと友好的に手を組んだ方が、より高いレベルの成果が得られる可能性があるわけですから、そうすることが合理的な行動選択だというのです。しかし、上方比較(自分よりも優れた人と自分との比較)をすることによって、劣等感に苦しめられてしまいます。

その結果、実際にとる行動は、「Xさんが困っていても手伝わず、肝心な情報を流さない」などの意地悪で非倫理的な対応で、Xさんの足を引っ張ることだったりするというのです。

このようなかかわり方では、人間関係がギクシャクしたり、職場全体のパフォーマンスが滞ったりすることはあっても、誰一人として得をすることはないのです。

この妬みの感情は、どのようなときに生まれるのでしょうか。そして、誰に対して、どのようなカタチでぶつけられているのでしょうか。このことに答えた研究があるそうです。それは、アメリカの心理学者デステノの研究グループの論文で発表されました。