高い能力

山浦氏が出した質問は、リーダーとなって結果を出せるチームを作ろうとしたときに、次のどちらのチーム作りを選択するかです。「A個人の能力が極めて高い人だけを集めてチームを作る。」「B個人の能力が極めて高い人と、その下のレベルの能力の人を集めてチームを作る。」です。サッカーのナショナルチームを調査した組織心理学の非常に示唆的な研究があるそうです。それは、ある程度までは、トップタレントが増えるほど、チームのパフォーマンスが高くなっていきますが、それを過ぎて、トップタレントの選手が多くなりすぎると、チームのパフォーマンスが下がっていくことが分かったのです。さらにこの研究では、アメリカのプロバスケットチームについても分析を試み、「トップタレントが増えすぎるとチームパフォーマンスが下がる」という同様の傾向が明らかになったそうです。

能力が高いメンバーを集めさえすれば、強いチームができあがると私たちは信じがちですが、必ずしもそういうわけではないというのです。そこに、連携できる関係性がなければ、チームの力は上がらないということなのです。「メンバー同士がどのような関係性にあるか」が、個々の能力と同じくらい大事だということだというのです。

私は、講演で最近、人類学者のキム・ヒルのこんな言葉を紹介しています。「人類が特別で宇宙ロケットを作り出すまでに至ったのは、大きな脳を持っているからではなく、1万にも及ぶ個人が協力して知を生み出すことができたからだ」山浦氏は、フォード・モーターの創始者ヘンリー・フォードの言葉を紹介しています。「人が集まってくることが始まりであり、人が一緒にいることで進歩があり、人が一緒に活動することが成功をもたらす」

政府では、これからの社会のありようをSociety5と表していますが、このsocietyという単語をそのまま英語表記で表現していますが、それは、以前ブログでも紹介したように、多くは「社会」と訳すことが多いのですが、実は、日本には、もともとsocietyに相当する言葉がありませんでした。ということは、日本には、societyに対応するような現実がなかったということです。そのあたりの経緯は、「翻訳語成立事情」柳父 章著(岩波新書)に書かれてあります。これによると、日本では、この言葉が広まっていった頃には、「仲間・組・連中・社中」などのように、狭い範囲の人間関係を表す言葉で表現されています。1933年「オックスフォード英語辞典」によると、二つの訳の説明がされています。「仲間の人々との結びつき、とくに、友人どうしの、親しみのこもった結びつき、仲間どうしの集まり」とあり、もう一つが、「同じ種類のものどうしの結びつき、集まり、交際における生活状態、または生活条件。調和のとれた共存という目的や、互いの利益、防衛などのため、個人の集合体が用いている生活の組織、やり方」とあります。柳父氏によると、これまで見てきた日本の辞書の訳語は、どれも、一番目の意味にかなり近く、2番目の意味は、ほとんどとらえていないというのです。当時の日本にも、1の意味では似たような事実を見出すことはできたのですが、2の意味については、広い範囲の人間関係という現実そのものがなかったというのです。ですから、それを語る言葉がなかったというのです。当時、「国」「藩」という言葉はありましたが、人々の身分として存在しているのであって、個人としてではありませんでした。Societyの訳語の最大の問題は、この2番目の、広い範囲の人間関係を、日本語によってどうとらえるか、であったと柳父氏は考えています。