善行を恥じない

ウィッヒマンは、このようなキャンペーンで重要なのは、その後もドアを開いたままにしておくことだ、と強調しています。2011年の夏、彼の組織はドイツの過激なロックフェスティバルで、シャツを配りました。極右のシンボルが派手に描かれたそのシャツは、ネオナチの思想を支持しているかのように見えました。しかし、洗濯すると、別のメッセージが現れたのです。「シャツにできることは、きみにもできる。わたしたちは、きみが極右から自由になるのを助けよう」

このメッセージは、安っぽく聞こえるかもしれませんが、翌週から、EXIT-Deutschlandにかかってくる電話の数は3倍になったそうです。ウィッチマンは、自らのメッセージがネオナチをいかに混乱させたかを知ったのでした。ネオナチは嫌悪や怒りを予期していましたが、救いの手を差し伸べられたのです。

9条は、「クローゼットから出よう。善行を恥じてはならない」と言っています。

手を差し伸べるために必要なものはただ一つ。それは勇気だとブレグマンは言うのです。なぜなら、手を差し伸べることで、情に流される人とか、自己顕示欲の強い人という烙印を押される恐れがあるからだといいます。「貧しい人に施しをする時、それを吹聴してはならない…」と、イエスは山上の垂訓で警告し、「祈る時は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられる父なる神に祈りなさい」と言われました。

一見、賢明な助言のように思えます。いったい誰が、聖人ぶっていると思われたいだろうとブレグマンは言います。善行は隠れて行う方がはるかに安全だと言うのです。あるいはせめて、次のような言い訳を用意しておきたいといいます。「忙しくしていたいだけだよ」「どのみち、要らないお金だから」「履歴書が立派になると思ってね」

人は親切心から行動しても、しばしば利己的な動機をでっちあげることを、現代の心理学者たちは発見しました。これは、ベニヤ説が最も定着している、個人主義の西洋文化において、最もよく見られます。それは理にかなっているといいます。つまり、もしあなたがほとんどの人は利己的だと仮定しているのなら、どんな善行も本質は疑わしいからだというのです。あるアメリカの心理学者が記している通り、「人は、自分の行動が純粋な思いやりや、親切心からのものであることを、認めたくないようだ」

あいにく、この遠慮はノセボのような働きをするといいます。あなたは利己主義のふりをすることによって、他の人々の人間の本性に対する冷笑的な見方を強化します。なお悪いのは、善行を隠すことだといいます。そうすると、他の人はそれをお手本にできません。実に残念なことだとブレグマンは言います。なぜなら、「ホモ・パピー」の秘密のスーパーパワーは、互いを真似るのがきわめてうまいことだからだというのです。

しかし、彼は、誤解しないでほしいと言います。他の人を刺激するために、自らの善行をひけらかす必要はありません。また、善を支持するために、自らの善行を吹聴する必要もありません。山上の垂訓で、イエスは弟子たちにそれを戒める一方、別のことを奨励しています。「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」