文化による違い

エリクソンは、アイデンティティの意味を「ある人が内的な同一性と連続性を維持する能力が、他者の目にうつるその人の自己の意味の同一性と連続性に合致していることから生じる自信である」と言っています。したがって、青年はよく心の中に湧き出てくる自己の感覚を、いろいろな状況の下で、服装とか振るまい、言葉などの強いシンポルを使って試すというのです。青年はもっと深い内面を問題にしているのですから、彼らが取り組むプロジェクトは、自分と他人をとことん比較し、対比させることができるようなものでなければならないと言います。シンボルは若者の文化を目に見える形で結びつけるものとして機能するものであり、言葉、服装、音楽、儀式、活動などがその役割を果たします。若者の団体にとって大事な機能は、若者が個人的・社会的アイデンティティを積極的にぶつけあいながらひとつの文化をつくりだせるような状況を用意することだというのです。

また、団体はメンバーが自分たちのシンボルと、儀式を何度でもつくり直せるだけの柔軟性をもっていなければならないといいます。若い人たちの心を捉え続けている団体には、いくつかの大きな特徴があるようです。若者の団体は複合的にならざるを得ません。とくに、若い人たちが彼ら自身のやり方で定めたたくさんの文化やアイデンティティに参画する場合にはそうです。うまくいっている団体では、若者はいろいろな役割を試す機会をもつことができ、また見習いとしても、専門家としても、活動する機会があるのです。これらの団体で、大人はその団体の文化はこういうものであると決めつけ過ぎてはいけないと言います。そうではなくて、大人は信頼にあたいする基盤を用意し、目的意識を持ち続け、そして若者のもつ問題や目的、要求を、彼らが自分自身で定義したように理解する必要があると言います。大人は自分たちの価値観を正直に伝えたり、それらを若者の価値観と比べてもいいのですが、評価という形をとるべきではないとハート氏は言います。もしそうすれば、若い人たちの仕事に対する責任感や、アイデンティティが弱くなってしまうからだというのです。このように、若者の団体を支援することは、たいへん難しい仕事だと言います。その構造と支援体制はきわめて重要ですが、大人の役割も重要だと言います。これらの団体が若い人たちを引き寄せて、その若い人たちにコミュニティに参画したり、コミュニティのために働くことを促そうとしているなら、大人はその団体の文化が若者たちの力で、しっかり形づくられるようにする必要があるというのです。

ハート氏は、年齢とともに進むと思われるアイデンティティの発達のいくつかのパターンについては、このような見解を持っているようです。しかし、彼は普遍的なものととらないでほしいと注意しています。この話をなお複雑にするのは、アイデンティティとか自己概念は文化によってたいへん違うものだということがあるからです。彼は、そのことにほんの少ししかふれることができないと言います。例えば、アジア文化圏の子どもたちは、北アメリカの子どもたちよりも集合的な言葉で自分のことを話す傾向があると言います。参画のためのどんな機構も、子どもや青年が自分の文化に合った方法で、アイデンティティや行動を世の中に探し求め、発達させることが許されるような柔軟なものでなければならないのは、当然であるというのです。国連子どもの権利条約の「参画の条項」が西欧社会の偏見を反映していることもあり得るというのです。これらの原理がいろいろな文化圏に広まる前にしっかりと反省し、議論しなければならないというのは、こういう理由によるのだとハート氏はいうのです。

文化による違い” への6件のコメント

  1. 「参画のためのどんな機構も、子どもや青年が自分の文化に合った方法で、アイデンティティや行動を世の中に探し求め、発達させることが許されるような柔軟なものでなければならないのは、当然であるというのです」とありました。西洋の文化、東洋の文化の違いを理解して、それぞれに合った考え方をしていくというのはあらゆる分野で必要なことですね。同じ人類ではありますが、やはり西洋的な思考、研究をそのまま我々の文化に当てはめるのには、慎重にならなければいけないのかもしれません。個人という概念にしても、これは我々の文化ではあまり馴染みの薄い概念でもあるのかもしれませんね。東洋的な思想では、個人なんてものはないということになるのかなと思うと、西洋的な個を重視する思想がもたらす様々な考えをそのまま受け入れるのは難しいんだろうなと思います。それがもたらしている不都合にも気がついていかなければなりませんね。

  2. ハート氏のアイデンティティの考え方に「普遍的なものととらないでほしい」という言葉がありました。個体が異なるという前提はあるものの、ある程度は形作られたものがあるのかなと思っていましたが、決してそうでもないようですね。「アイデンティティとか自己概念は文化によってたいへん違うもの」という、国の風土や文化に影響される流動的なものであるというであれば、性格や個性と同じようにその個人が尊重されるべき項目の一つでもあるということなのですね。「ある人が内的な同一性と連続性を維持する能力が、他者の目にうつるその人の自己の意味の同一性と連続性に合致していることから生じる自信である」とあったように、他者という存在を通して感じることのできる重要な自分の自信のことであることが理解できました。

  3. 「大人たちは自分たちの価値観を正直に伝えたり、それらを若者の価値観と比べてもいいのですが、評価という形を取るべきではない」確かにその通りですね。なんとも自分の心に突き刺す言葉でした。これは社会においても、さまざま人間関係の問題にあるように思います。これは決して、若者と大人との関係だけではなく人と人との関係性において重要なところですし、特に大人と若者ではそれが顕著に出てくる事柄であるように思います。国としての文化もあれば、年代や時代の文化や風土、価値観によって相違がでるということはどの場合においても起こりえます。できれば、こういった様々な考えを新しい価値観になるように調整していかなければいけないということが参画なのだろうと思います。子どもの意見の表明であるのと同様に、大人も意見の表明として捉えていかなければ参画ということは実現しないのかもしれません。

  4. VUCAといわれる時代にあって、若者たちはどの方向に進みゆくのか。そして、どのような世の中を作り出すべく、今、この時、を過ごしているのか。おそらくいつの時代でも大人によって言われてきたことは「今時の若者は・・・」。肯定的な意味で表現されていないこの言い回し。大人たちがこの世の中のイニシアティブをとるんだ、そのことにそぐわない若者たちに向けられた「今時の若者は・・・」。日本においてはその傾向がどの地域よりも強いような気もしますが。「大人は信頼にあたいする基盤を用意し、目的意識を持ち続け、そして若者のもつ問題や目的、要求を、彼らが自分自身で定義したように理解する必要」があるのですね。その理解をもって大人たちは若者たちに反応していくことが求められます。30代以下の若者たちはこれからの世界を生きていく上でこれまでは異なる能力の発揮が求められることになるでしょう。社会への参画、非参画で若者が置かれる状況は大いに異なってくるような気がします。「今時の若者は」と別者として捉えるのではなく、大人たちも共に叡智を傾けなければならない時代が来ているのですね。

  5. 「大人は自分たちの価値観を正直に伝えたり、それらを若者の価値観と比べてもいいのですが、”評価”という形をとるべきではない」「もしそうすれば、若い人たちの仕事に対する責任感や、アイデンティティが弱くなってしまうから」とありました。他者への”評価”というのは大人はついやってしまうのかもしれません。対大人であっても、自らが経験してきたことや価値観で優劣をつい定めてしまう。私自身も会社勤めをしていた頃に、酒席でしたが上司や先輩から昔の彼ら自身との比較をされたことがあります。「俺らの若い頃は…」と。大人の社会であれば、若者の会社や集団への従順さや利益貢献度が評価されることは仕方がなく不可欠な場面も多くあると思います。ただ、これからの社会を担っていく若者・子ども達が「個人的・社会的アイデンティティを積極的にぶつけあいながらひとつの文化をつくりだせるような状況を用意すること」。評価ありきではなく、形が曖昧であっても、それが支持・支援される考えを一人でも多くの大人が持つと若者や子どもの参画のハードルが下がり、より創造的な環境につながるのでしょうか。

  6. 「大人は信頼にあたいする基盤を用意し、目的意識を持ち続け、そして若者のもつ問題や目的、要求を、彼らが自分自身で定義したように理解する必要がある」、また「大人は自分たちの価値観を正直に伝えたり、それらを若者の価値観と比べてもいいのですが、評価という形をとるべきではない」とありましたが、まさにその通りだなと感じました。また若者とありましたが、子ども、またどんな人に置き換えても全く同じことがいえると思います。広い価値観を理解できるよう日々努力していきたいと思います。

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