欺き参画

「欺き参画」の例はもっと多いと言います。それらの例では、大人は善意から、自分たちはそれに関わっていないと言います。大人はそれが、完全に子どもによって行なわれたものと思わせようとし、大人も参画していたことがわかれば、その効果が減るだろうと思っているからです。ありふれた例が、大人が「庭」をデザインするときに見られると言います。子どもたちにただ植物を植えさせただけで、それを子どもたちがデザインしてつくったと報道関係者やカメラマンに言うのです。この種のプロジェクトはいくらでもあるといいます。別の例をあげています。大人が子どもたちの作品を本に仕上げるときに、実際は違うのに、あたかも1から10まで子どもがつくったようにみせかけます。子どもたちの能力をそのように誇張した結果、他の大人はそれを信じないか、もっと悪ければそれを見下すことにもなるのです。子どもたちのものの見方を操ろうという意識は、全然なかったのかもしれませんが、結果は同じようなものだというのです。ですから、ハート氏は、それらの例をはしごの最下段に位置づけるのだというのです。

子どもの投票や意識調査にも、用心しなければならないと言います。子どもたちには発言権があるはずですし、何らかの能力も、きっとあるという考えが大きくなると、私たちは実際以上の期待をしたくなります。しかし、そのような調査に基づく統計は、大人の調査の場合でも容易に操られるものだというのです。小学校高学年ぐらいの子どもの場合、調査の目的を理解する力が、子どもによって違うことを考えれば、それらの統計数値が操られる危険性は、より大きいというのです。

次に、梯子の下から二段目の「お飾り参画」についてです。「お飾り参画」とは、子どもたちが何らかの主張を掲げたTシャツなどを着ていますが、その主張をほとんど理解しておらず、その行事を組織することに少しも関わっていないといった例です。これは「操り参画」よりは1段高いところにはあります。なぜなら、大人はその主張が、子どもたちから発せられたものであると装ってはいないからだと言います。彼らは、その主張の支援者として、あたかも子どもが理解して参画しているように見せかけているだけだというのです。ハート氏は、子どもたちのダンスや歌や劇が、望ましくないと言っているわけではないと言います。子どもたちの関わり方があいまいであるときに問題が起きるのです。例えば、何らかの環境問題に関わるデモの最中に、子どもたちが現われて、その問題について、誰かほかの人が作った歌を歌いますが、その問題自体を理解するどんな機会も彼らにはなかったとします。そういう場合、子どもは飾りに使われた、あるいは操られたとさえ言えるかもしれないというのです。これとは違って、子どもたちがただ単に、パフォーマンスをしているだけで、その歌詞が誰か別の人物によって書かれていることがきわめて明白なときには、ハート氏らは、それがはしごのどの段階にあるのかと頭を悩ませることなく、そのパフォーマンスを楽しむことができるというのです。

発達していく能力

子どもの参画の道案内をすることが目的の時には、ハート氏は、子どもの発達していく能力について考慮しなければならないと考えています。このように成長する子どもの能力に合わせて、大人はどうすれば一緒に活動できるか、という問題も同じように重要だと言います。青少年を組織することについてはかなり多くの文献がありますが、残念ながら子どもと大人が同時に参画することに関して書かれたものはほとんどないそうです。そこで、ハート氏は、個人的な経験、子どもの発達の理論、そしてまだ少ないが増えつつある民主的な学校に関する文献などを合わせて、原則を導き出しています。

まず、最初の原則として、「子どもを操ることや、形だけの子どもの参画を避けること」を挙げています。ハート氏は、大人と一緒に何らかのプロジェクトで活動する子どもの自発性と協同性の度合が、いろいろあることを説明するために、比喩的に「はしご」を使っています。この「はしご」は、複雑な問題を説明するには単純すぎるきらいはありますが、この比喩は子どもの欲求と能力の及ぶかぎりの子どもの参画を、大人がどう援助するかという議論の基盤として役立っているようです。さらに重要なことは、この比喩が、参画とは呼べない参画があることを示そうとしたことだと言います。はしごの最初の3段は、参画とは呼び難いものだと言います。どんな子どもでも、その能力と関心によっては、特定のプロジェクトで、はしごの上段で活動するであろうと言います。しかし、子どもたちが、レベル4で活動しているプロジェクトが、必ずしもレベル8のものより劣っているということではないと言います。このことをわかりやすくするために、環境のプロジェクトへの子どもたちの参画の事例を使って、ハート氏は、はしごの各段を説明しています。

はしごの最下段の「操り参画」の例としては、大人が意識的に自分の言いたいことを、子どもの声で言わせるものをあげています。例えば、子どもが描いた絵を使って、大人が本をつくり、どの絵を選ぶか、あるいはどのように編集するか、というところで子どもが参画していない場合、大人はそれらの絵を描かれたときの状況やどんな指示のもとに描かれたかを無視して、子どもたちのものの見方を論じるために使うので、まったく不正確であることもあり得るというのです。ただし、その本がそれらの絵を、どんな基準でどんなふうに選んだかを明記しており、子どもたちがその選択に関わったかのように偽っていなければ、それは操り参画ではないと言います。

ハート氏は、また別の例をあげています。有害廃棄物に反対するプラカードを、子どもたちが首にかけてデモ行進をしていることがありますが、子どもの理解力に合わせて、なぜ反対運動するのかを理解させようという試みをしていなければ、それは操り参画だというのです。これは民主主義の政治行動に子どもを引き入れるよい方法ではないと言います。

特別なニーズ

子どもたちのなかには身体、視覚、聴覚、あるいは知的な面にハンデをもつ子どももいるかもしれません。そういう子どもを受け入れるためには、さまざまな便宜が図られなければならないと言います。身体的なハンデをもつ子どもたちは、会合やデスクワークに参加することには何らの支障もありません。野外での研究や行動に参加することには不都合があるかもしれませんが、彼らが問題なくやれる仕事はつねにあるのです。例えばコミュニティの遊び場づくりのプロジェクトでは、車椅子の子どもたちは、誰かに材料を手渡しするために階段を登るということはできません。すべてのプロジェクトのなかで、いろいろな種類の役割をつくり、ボランティアを頼む前に、仕事の内容をきちんと説明しさえすれば、どんな子も価値ある役割を見い出せないはずはありませんし、不適切な事態を避けることはできるのです。

知的な能力の違いについては、ハート氏は前に述べています。視覚および聴覚的ハンデをもつ子どもには、できるだけ完全に、自然な形で意思の伝達が行なえるように、充分気を配る必要があると言います。手をあげてやったり、体の位置を変えるなどして合図しなければ、視覚的ハンデをもつ子どもには、役割交代といった、ごく基本的なことさえも難しいかもしれないのです。また、聴覚的ハンデをもつ場合、コミュニケーションをとることが他のハンデ保持者に比べて、さらに難しいだろうとハート氏は言います。このような特別な特徴をもつ子どもたちが参画するためには、合図をする人を置くとか、その他の便宜がはかられなければなければならず、ファシリテーターは適切な専門家と相談する必要があります。

特別なニーズをもつ子どもたちが、他の子どもにどのように受けとめられているかには、さまざまなファクターが関係しています。ーつ明らかなのは、幼い子どもは、他人がどのように感じるかを予想できなかったり、他人の感情が理解できても、それを考慮に入れて自分の行動をそれに合わせることができないかもしれないということです。先にハート氏が述べているように、3歳の子どもでも、少しは他人への共感ができるという証拠はあるものの、幼児は自分の考えを他人の考えに合わせて調整することができません。自分と他人の間で考えが一致しないときには、どうしても、自分の考えや感情が先行します。成長するにつれて、はじめて自分の考えと行動を反省できるようになり、仲間同士で何かをやるときに、方略的に知識を使うことができるようになるのです。しかし、接触感染を信じるような、まったく理にあわない恐怖心というものもあります。また、向社会的行動という、他人によくしてやろうとする行動ができるようになる社会的認知のプロセスは、自分と他人を比べることを必要としますが、このプロセスそのものが、恐怖や嫌悪の源にもなりえます。もし、ある子どもが、「あの子は君にそっくりだよ」と言ったとすると、車椅子や補装具をつけているとか、手足がないとか、盲目であるとかいった目に見える違いは別として、おそらくそっくりだと言われた子どもは、自分はその子とまったく違うと主張したくなることは想像に難くないと言います。実際、例えば指が何本か欠けているというような、ちょっとした身体の欠損がある子どもをのけ者にするやり方は、車椅子の子どもに対してよりも激しく、また広くはびこっているとハート氏は言います。それは、違いを強調したいという欲望がとくに強いからかもしれないと考えているからです。本当の参画を目的としたプログラムをつくるときに起こり得るこのような問題は、どれも子どもたちが討論を通して、参画とか市民権の本当の意味を学ぶとても貴重な機会になるというのです。

個人差

どんな子どもでも参画できるプログラムをつくるためには、子どもの普遍的な発達のパターンと、文化・社会階層・性による、そのさまざまな違いを乗り越える必要があると言います。また、子どもたち一人ひとりの思考や行動の仕方の違いにも、気づく必要があるとも言うのです。さらに、「障害」をもつ子どもたちも、できるだけ参画できるように考える必要があります。

さまざまな子どもが「同じ」状況・活動・仕事・情報などを、それぞれ違ったやり方で理解していると言えます。これは「認識スタイル」とか「学習スタイル」と呼ばれる現象だと言います。教師にもそれぞれ異なる認識スタイルがあり、自分のスタイルに気づくことは、子どもと一緒に活動する準備をする際に重要だと言います。多様な認識スタイルがあることや、自分自身の認識スタイルに気がついていないと、自分とは違う子どものスタイルを誤解したり、許せなかったり、「危ない」とか「遅い」とかいう、間違ったレッテルを貼ってしまうこともあります。ある調査から、脳の左半球と右半球では情報の処理の仕方が違うことがわかっています。すなわち右半球は、情報を総合的、全体的、視覚空間的に処理しますが、左半球は情報を言葉や数字に変え、逐次的、分析的に処理するという特徴をもっていると言われています。人はみな、両半球を使うのですが、左もしくは右のどちらかの半球がよりよく働く人もいるようです。その結果、グループ内で違ったやり方で仕事をすることになり、使う手段(メディア)も違ってくるのです。心理学者のなかには、学習スタイルを熟考型(reflective)と衝動型(impulsive)に分類する人もいますが、これはレイフが「概念的テンポ」

と呼んだものです。この違いがわかれば、一つのプロジェクトのプロセス全体が見えてきて、プロジェクトの別々の部分が仕上がるペースに対しても、悠然とした態度がとれるようになり、一部の子どもに対しては、もっと扱いやすいように仕事を分割して与えられるようになるというのです。このほかにも、いろいろな違いが観察されているようです。例えば、一部の研究者は、思考を抽象的か具体的か、思考の構成を、連続的かランダムかというように特徴づけているそうです。こういう複雑さに対して、最近は多面的な知能に関するガードナーの理論が、多くの教師に役立っているようです。その理論では、「知能」を、一つ以上の文化のもとで価値のあるものを生み出す能力、あるいは問題を解く能力と定義し直しています。この考え方は、「天賦の才がある」とか、「学習障害がある」とか「危なっかしい」というレッテルを、子どもに貼るために、ある種の知能だけを強めようとする傾向に対抗しようとしている、子どものプログラムのファシリテーターなら誰でも使うことができるというのです。また、参画のための一般的な戦略の一つとしても、使うことができるというのです。多面的な知能を認めるということは、多面的なアプローチとメディアを使うことを意味すると言います。さらに、個性の違いをうまく利用するなら、委員会方式にするべきだというのです。そうすれば、みんなが同じ活動をすることはなくなるのです。子どもたちが自分で関わりたい活動を選択したり、もしそれがうまくやれないと思ったら別の活動に切り換えられるようにしておくべきだというのです。

女の子の参画

他の文化圏における家族や、コミュニティのなかでの変わりゆく女性の役割は、あまりに大きなテーマだとハート氏は言います。しかし、すべての子どもたちを、その能力の及ぶかぎり社会に参画させようと試みている国連子どもの権利条約は、女の子に関して特別に注意を払うようはっきりと強調しています。男の子も女の子も、自分たちの人生や未来について意見をいう権利を与えられるべきです。私はまた、自分たちのコミュニティの形成に関わる機会をもつことは、すべての人にとっての権利であるべきだとハート氏は信じているのです。

コロンビアのカルダス地方にある新しい学校、エスクエラ・ヌエバで行なった、約50人の子どもとの討論から、少なくともひとつの文化圏では、子どもの民主化が進めば、男女間の機会均等が増大する効果があることがわかったそうです。ホジャス・アンチャス学校では、農業経営や大工職や栄養計画などで、女の子が男の子と同じように、意思決定と責任を担う役割を果たしています。この学校の高学年の子ども全員と長時間にわたる、まとめの話し合いをもったそうですが、そのなかで彼らは、ハート氏の考えが、まったく正しかったと確信をもたせてくれたそうです。男女の平等な参画に関する問題について、ハート氏が根気よく質問するので、彼らは閉口した様子だったそうです。それで彼は、質問の方向を変えて、彼らの父親と母親は家庭でそれぞれ違った活動を担っており、ものごとを決める度合も違うのではないかと尋ねてみたそうです。確かにその通りだということを確認した後、その子たちが大人になったときにはどうなるだろうか、と尋ねてみたのです。彼らは、女の子と男の子は能力も責任も平等であると感じていると主張したそうです。そこで、現在、彼らの父親と母親がたいん違った仕事をしているのに、子どもたちが今感じている平等はどうすれば続くと思うか、と尋ねてみたそうです。その質問に対して、1人の女の子が、即座に次のように答えました。「コロンビアでは、新しいタイプの学校が、つくられつつあります。私たちが大人になったときには、生活の仕方も違ってくるでしょう」と。部屋じゅうの子どもたちが満足気に微笑んだところをみて、みんなが彼女の意見に賛成していることがわかったそうです。この意見は、自信たっぷりに発言されていましたし、村役場の責任者や、その話し合いを横で見ていた数人の親からも、何ら目立った反論はなかったそうです。

男女参画

昨年、ブラジルの首都ブラジリアで、ストリートチルドレンおよび働く子どもたちの国民会議が開かれましたが、参加した700名の子どものうち、半分は女の子だったそうです。この現象は、おそらく新しい運動がもつ、民主主義の重要性が認識されたために生じたものだろうとハート氏は考えています。1992年にマニラで開かれた、働く子どもたちのフィリピン全国会議でも、ハート氏は、同じように男女が平等に参画しているところを見たそうです。新しく生まれつつある民主主義的動きのなかで、子どもたちの間にみられるこのような変化が、すべての人の参画する機会を増やす呼び水となってくれることをハート氏は期待しています。確かに、子どものコミュニティ参画のプログラムと、彼らが成人したときに社会が男女に提供する仕事の機会との間には開きがあります。しかし、一般的な議論に沿っていえば、たとえ文化はゆっくりとしか変わらないとしても、社会のなかのひとの役割のあり方を変えるもっともよい方法は、その役割を実践していくことのなかにあるというのです。

特定の職務

子どもたちは、例えば教師とか警官といった特定の職務をもった大人に対して、ある程度の予期をもっています。しかし、もっと広くいうと、人は他者がその社会的な地位に応じて、すなわち人種や階級・文化、性別によって定義されるあるグループの成員として、それに応じたある特定の範囲の行動をすると考えるようになります。このため、男性の教師や警官は、子どもがよろこびや悲しみをともにしたいと思い、その人のためにではなく、その人と一緒に活動したいと思うような、信頼関係を築くのが、他の人より難しいことに気づくだろうとハート氏は言います。その一方で、行動を通して子どもたちに、これまでとは違った関係を示せば、子どもはその人の社会的な役割と、社会における位置は必ずしも固定的なものではないと気がつく可能性があると知れば、社会的に権威のある職務につく男性にも救いはあるだろうとハート氏は言うのです。

すべての子どもが、自分のコミュニティや環境をよくするために発言できるようにするという目標を追求していく際、女の子には参画しようとするときに特別な障壁があることを知っておかなければならないと言います。フェミニスト的な心理学の理論では、最近、自己概念の形成に政治の力が大きく作用すると言われるようになってきています。ふつう、社会や親、教師、さらに仲間に対してさえも「よそ者」のように装うことが、女の子のアイデンティティの基になっています。彼女らが、この不公平を意識していないときにはとくに、このことが彼女らの力を弱めているというのです。こうした社会の無言の圧力に対抗するためには、女の子も一緒の参画プログラムで、特別な努力をする必要があると言います。

世界のどこでも、コミュニティの活動に参画する組織的な機会は、女の子よりも男の子に多く与えられているように見受けられると言います。このことは、豊かでない家庭では、女の子が家の中の仕事の多くを担っていることを反映しているのかもしれないとハート氏は言います。多くの文化圏で、女の子は早くも3歳ぐらいから、母親の仕事を覚えることを要求され、薪集めからはじまって、兄弟の世話、食事の準備まで、だんだん難しい仕事をこなすことを期待されているのです。男の子には、仕事を覚えるようになるまでに、自由に遊ぶ時間が残されています。そしてその仕事は、ふつう家から離れたところで行なわれます。しかし、こうした性による差は、別の要因で説明できるかもしれないと言います。子どもと青年のためのプログラムの多くは、子どもたちを忙しくさせ、問題を起こさせないようにしようという意図のもとに作られてきましたが、男の子の方が女の子より問題を起こしやすいと見られているため、予防的プログラムが、男の子のためにより多く用意されてきたのだと言います。さらに、どの文化圏でも、男の子はたいてい、成人したらものごとを決定する者になれるよう準備をしておくべき子どもとして捉えられており、男の子には自治と意思決定の能力を伸ばす機会になるようなプログラムが、必要だと考えられています。反対に、女の子はもっと保護され、家庭内の役割を担う準備をするべきだと考えられているのです。

アメリカ合衆国では、教室での学習スタイルにも、性による差があるといわれてきました。女の子は、いろいろな考えを積み重ねていくことで、グループの意見の一致を促す対話型のスタイルを好みます。それに対して男の子は、議論や個々の活動を通して学習する方が多いようです。少なくとも学校では、多くの授業は男の子の学習パターンに添っており、女の子には不利にできているといわれています。

子どもと大人

かつては、子どもは同じような能力をもつ子ども同士のグループのなかで、いわゆる一般に年齢的に近い子どもたちのなかで学ぶものと考えられていましたが、いまでは理論や研究に基づいて、年齢や能力が多様な集団で一緒に活動することが子どもにとってよいことだと多くの人が主張しています。なぜなら、これによって子どもたちはお互いからよりよく学ぶと同時に、子ども同士のギブ・アンド・ティクの技術を身につけるからです。そして、子ども同士の相互作用は、発達をより大きく促します。なぜなら、大人と子どもの間の相互作用は、ふつう大人が子どもへ指示するという特徴があるのに対して、仲間関係であれば双方向の学び合いがよりいっそううまくいくからです。いわゆる異年齢集団の中での子ども同士の学び合いが、より発達を促すということです。このように、仲間同士の相互作用にはかなり柔軟性があるので、子どもたちは分かり合えているかどうかを試したり、今まさに行なわれている相互作用に必要なことに、自分を合わせたりできるのだというのです。そういう経験をするには、同じ年齢の子ども同士の方が、適しているように見えるかもしれませんが、異年齢の子どもたち、そしていろいろ違った才能をもった子どもたちを一緒にすることには、別の良さがあるとハート氏は言うのです。

能力や年齢の低い子どもたちは、より洗練された課題の取り組み方を見ることによって、恩恵を受けます。さらに、いくつかの学校で行なった研究から、このことがグループのなかでもっとも知的な子どもたちの足を引っ張ることはないということがわかったのです。それどころか、彼らにとっては、自分たちの能力を表現するよい機会となるであろうとハート氏は考えています。年齢の高い子どもは、例えば年下の子どもを手伝って教えるという独断的な役割を、試しにやってみようとするかもしれませんが、年下の子どもはあまりこわい思いをせずに、助けてもらえるこの機会を利用しようとするかもしれないのです。つまり、異年齢の子どもたちを一緒のグループに入れることは、一般に、そのグループに参加している全員に有益なのです。ただ、青年と幼児のように、あまりに年齢の差が大きい場合は、子どもと大人の関係と同じように、力と知識の差が生じてしまうことはありえると言います。

子ども同士の仲間関係に比べて、6歳から8歳の子どもと大人との関係は、どうしてもルールと物による褒美に縛られてしまいます。しかしながら、アメリカ合衆国で行なわれた研究から、子どもと大人との関係は、青年と大人それぞれの特性が認められるようになるにつれて、青年期初期までには単なる大人側からの権威による関係から、互いに影響しあう相互作川的関係へと変わる可能性があることがわかったそうです。もちろん、そのような発展には、文化によって大きな差異があるようです。

大人が子どもからどのように見られているかということも、大人の社会的な役割の問題と関連があると言います。社会的役割は、職務と権限の関係によって固定的に決まっているものと捉えるべきではなく、もっと幅広く、その役割では、どのような行動であれば社会的に認められうるかという可能性として、捉えられるべきであると言います。

学び合い

自分や他人が感じていることについて話し合う「習慣」ができている環境では、幼い子どもにも、一緒に何かをやろうと促すことはできると言います。たとえ子どもが自分のやり方を通したいと望んだとしても、そのようなディスカッションに加わることで、その場・その時かぎりにせよ、他の子どもたちの視点に気づくようになるだろうと言います。そのようなディスカッションが、子どもたちの長期的な発達を促進するとは期待できませんが、ディスカッションのなかでつくりあげられた手続きは、コミュニケーションがうまくとれないとか、他者の視点で理解することがうまくできないという、幼い子どもたちの能力的な制約を乗り越えて、論争をうまく収める方法として受け入れられるだろうとハート氏は考えています。また、もっと年長の子どもたちの間では、自由にコミュニケーションができる環境を用意することで、価値観を確立し、他人といっしょに活動することにつながる、正直な意見交換の仕方を身にけることも期待できると言うのです。

子どものためのプログラムを作るうえで、子どもたちがどうやって共通の興味をもつ者同士で、自発的にグループを形成するのか、子どもの友情はどのように育つのか、どうやってお互いに対する親密感を育むようになるのかを知っておくことは有益だと言います。研究者たちは、子どもたちが、仲間集団のなかで果たしているいろいろな「役割」を明らかにするとともに、どうやって仲間に受け入れられたり、拒否されたりするかにとくに着目してきました。優劣関係は、早くも学齢前から児童期中期、青年期を通して、とくに男の子たちのグループで特徴的にみられます。青年期に入ると、腕力の強さよりも、グループの規範に従った、活動の役に立つような性格の方が、グループの構造に、より強い影響を与えるようになります。民主的につくられたプログラムを経験すれば、腕力が支配するような仲間関係から脱していくことは間違いないと言います。

相手とやりとりをしたり、助け合ったりすることによって、相手に対して魅力を感じあうことから、幼児の友だちづくりは始まることがわかっているそうです。そこからは、「意気投合の雰囲気」ができてきます。ヤニスらは、6 ~ 7歳の子どもは、一緒に活動したり、ものごとを共有する相手を「友だち」と表現することを明らかにしました。9歳から10歳になると、子どもは、「友だち」とは、自分がよく知っている人、同じ関心をもったり、似たような才能をもっている人、あるいは気があう人であると表現します。青年期の友情形成においては、共通の活動へ参加することが重要な基礎であることに変わりはありませんが、一方で、その他の要素も入ってきます。すなわち、学校やその他の教育活動に対して、似たような関心・行動・態度を示すことはもちろん、かなり共通した価値観をもっていることなどによる、非常に理性的な関係になってくることがわかっています。

ハート氏は、子ども同士の学び合いには、異年齢集団が大切であると考えています。それは、子どもの能力の発達における重要な論点のひとつは、能力が異なった子ども同士が、相互に学び合う力量に関することだと考えているからです。かつては、子どもは同じような能力をもつ子ども同士のグループのなかで、いわゆる、一般に年齢的に近い子どもたちのなかで学ぶものと考えられていましたが、いまでは理論や研究に基づいて、年齢や能力が多様な集団で一緒に活動することが子どもにとってよいことだと多くの人が主張しています。

グループの活動

困難な課題の取り組み方を学生に教えるもっともよい方法は、やり方の「お手本」を示すことであると考えられていることが多いようです。しかし、お手本を示すことは、彼らに自由で民主的な問いを出せさせようとする試みとは相反すると言います。つまり、子どもたちが課題に対して、自分たちの解決案をつくるのを励ますのではなく、逆に何かをやるための決まった方法、あるいは好ましい方法を示すことになるからだというのです。子どもが民主的に参画することを促すもっとも適切な方法は、対話に基づくものだと言います。さらに、人はばらばらな行動の連続ではなく、行為や相互作用の一連のパターンを、習得していくということが、現在一般に認められています。子どもや青年は、何かの話題について討論するなかで、明らかになる意見の違いによってだけでなく、仲間と論争し、相手を説得しようとすることによって、自分のものの見方と他人のものの見方の違いにさらに自覚的になるのです。このような内省する能力によって、将来の社会的な相互作用が生み出されるのだというのです。ときとして、調整役としての大人の介入が必要かもしれませんが、参画する子どもは、できるだけ自分たちの民主主義を、自分たちでつくるように奨励されるべきであると言います。成功するグループでは、何かの案について討論したり、どのように課題にとりかかるかを決めるようなときに、いろいろなメンバーから出された代替案を考慮に入れるよう促されるでしょうし、またお互いの貢献を認めあうように促されるでしょう。またそういうグループの活動は、グループのメンバーが相互に学び合うことの価値を、はっきりと反映するように計画されているでしょう。その価値とは、道理にあった言動、秩序正しさ、他者の感情を尊重すること、平等性、リスクを冒す自由、他者のいうことに耳を傾ける能力などだというのです。

ハート氏は、最後に述べておくべきことは、大人と一緒の調査研究では、グループ・アイデンティティを確立することが、社会的な協力関係を育てるうえで非常に大事であることがわかってきた、ということだと言います。したがって、子どもに対してこのようなグループ・アイデンティティの感覚を養う機会をつくり、それを支えることは、彼らの民主主義が発展するための糧になるだろうというのです。

次にハート氏は取り上げているのは、「コミュニケーションと協力」です。ごく幼い子どもは、言葉の基礎がまだ充分できていないために、コミュニケーションの能力が限られています。3歳から7歳ぐらいで上手に話すようになりますが、もっと年齢の高い子どもや大人とは違ったコミュニケー-ションの取り方をします。自分の考えや経験・感情・欲求を流暢に表わす彼らの能力には、ときとしてハート氏は感動を覚えると言いますが、彼らは他者の視点に立つことができないため、聴き手に合わせて話を調整することができないのです。こうした限界があるので、彼らは上手に駆け引きしたり、交渉や妥協をすることができません。コミュニケーションのスキルは、子どもから成人になるまでに、徐々に発達していくものです。しかしながら、そうしたスキルは育成することができるというのです。

協力する能力

次に、仲間と協力する能力の発達を見ていきます。

世界のどこでも、子どもは、自分たちに対して権力を振るう大人とよりも、仲間同士の間での方がずっと平等な関係をもっているとハート氏は言います。彼は、子どもたちの間で、このように地位がきわめて対等であることが、協調性の発達にとって、とくに大事であると考えています。ここでもまた注意しておきたいのは、この理論はアメリカでつくられたものであり、もっと集団主義的色彩が強い文化のもとでは当てはまらないかもしれないというのです。この理論に従えば、子ども同士が相互にわかりあうようになるためには、お互いの言い分をよく聞き、一致しない点を解決しようと試みることが必要であると考えられると言います。まさに、私たちが設置している「ピーステーブル」の役割ですね。6歳から8歳の子どもは、仲間同士で厳密な直接的相互関係をつくるといわれています。つまり、この年齢の子どもは、他の子どもの行為に「同じやり方で」返します。9歳から11歳になると、この厳密な相互関係から協力の関係に変わると言います。というのも上述のように、この年齢では行為の裏にある、心理的な側面に留意できるようになるからだというのです。ヤニスによると、大人との協力よりもこうした仲間との協力の方がより有益であると言います。9歳未満の子どもたちの間では、本当の協力関係ができないからといって、彼らが環境のプロジェクトへ参加できないわけではないと言います。ただその場合、グループをまとめるためには、大人か10代の若者がかなり責任を担っていく必要があるとハート氏は考えています。

先に書いたように、最近の研究では、その時期はかなり早いと言われています。実際に、現場で子どもを観察していると、幼児のころから仲間同士で直接的相互関係を作っています。また、その関係から、4,5歳になるころには、協力の関係に変わっていきます。確かに、本当の意味からではないかもしれませんが、その萌芽が見られます。ということで、十分に幼児期から環境のプロジェクトに積極的に参加することが可能な気がしています。

この理論をもとにすると、子どもが仲間と相互に利益を得る関係を結ぶ必要に迫られたときに、協力することを学ぶとすれば、ほったらかしにしたり、権力を使って強制するような団体よりも、仲間と一緒に仕事をすることが必要な団体の方が、協力する能力をよく発達させるであろうと考えたくなるとハート氏は言います。残念ながら、この問題については、あまり研究例がないそうです。やはり集団における行動の観察は難しいようです。ただ、クラスに対してグループ単位での報酬を与えたほうが、子ども各人に個人的に報酬を与えるよりも高いレベルの協力関係が見られたことを示した研究はあるそうです。もちろん、この問題に関して深く議論するときには、その文化がどの程度個人主義的、あるいは集団主義的な志向性をもっているかを考慮する必要があります。また、女性は大人でも子どもでも他者との関係性をより重視し、相互依存的あるというように、性に関連してもこのような対照的な形態がみられると指摘する人もいるそうです。また、自律的か依存的かの違いは、人が社会階層のなかで、どういう位置にいるかということにより大きく関係しており、女性も含めて自律的な立場にない人は、生き延びるために、他人とのつながりや社会の共通の目標に向かって、熱心になるとも指摘されているそうです。

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