親の権威

多くの親は、「子どもの権利」を振りかざされることによって、自分の子どもを支配する力を失うのではないかと恐れています。こうした親が考えているのは、子どもたちはすでに充分に自由なのだから、このうえ子どもに権利を振りかざされては困るということですが、これは国連子どもの権利条約について、誤解しているのだと言います。国連子どもの権利条約は「規律」とか「他人に対する責任」を教えることを妨げるものではないのです。両親から最終決定権を奪おうとしているわけでもないのです。親が行動を透明にし、心を開いて子どもの話を聞き、できるだけ意思の疎通を図るようにと言っているのだというのです。子どもの権利についての烈しい議論が何年も続くかもしれないとハート氏は言います。なぜなら、それは文化を基本的なところで変えようとし、その文化の再生の問題も含むからだというのです。討論が荒れると議論は必然的に単純化され、両極端に分かれると言います。そんな議論をしてみても、子どもには両親あるいは監督している大人と平等の意思決定権があるといったことは話し合えません。明らかに、子どもは大人の愛情深い決定に依存した生活から出発するのです。理想的には、家族やその他の組織は子どもが主体に行動する能力を徐々に大きくしてやるのが良いとハート氏は言います。大人として成熟していくには、次第に自分の意志でものごとを決定していくことが必要だからだというのです。

混乱は一般に「権威」の意味をめぐって起こるとハート氏は思っています。子どもの権利は認めることは、両親およびその他の養育者の「合法的な権威」を崩すものではないはずだと言うのです。目的は、「横暴な権威」を許さないことだというのです。何人かの西欧の子どもの発達の理論家と育児書が、両者の違いを「権威がある」と「権威主義的な」という言葉で区別しているそうです。子どもが自分の生活のことを自分で決めたいと訴えれば、親やそれに代わる養育者はそれを認めるべきであり、なぜそうすることがいいことなのかを説明するべきだと言います。「法律で決められているから」というだけでは十分でないと言います。こういう考えにたてば、子どもに理解力がつくと同時に、親は子どもに対して親の権威を行使する場合、その正しさを説明できるようでなければならないというのです。

この「子どもに理解力がつく」ようになったら、きちんと説明するべきだと言いますが、この理解力がつくという年齢は、何歳なのでしょう。それは、人によって判断が違ってくると思います。いくら立派な若者になっても、大人は、まだ理解力がついていないと判断するかもしれません。しかし、私は、どんな小さな子でも、幼児期においても、きちんと大人は説明するべきだと思っています。その説明の難易度の違いはありますが、まだわからないから、理解できないからと言って、黙って言うことを聞きなさいというのは、子どもの能力がわかっていないのだと思います。子どもは、かなりのことを、理解し、判断する力を持っています。

ただし、ハート氏は、これは子育てに関する西欧での最近の考え方のひとつであると言います。まだ、多くの親がこのように考えているわけではないというのです。子どもに対する親の権限としてどんな事なら許されるのかは、文化が違えば大きく違うと言います。とくに性別による扱いの違いが大きいと言います。こういう問題はそんなに早く変わらないだろうとハート氏は言うのです。

NGOの活動

ラテンアメリカとフィリピンのストリートチルドレンや路上で働いている子どもとともに活動をしているNGOは、子どもたちが生活を改善する闘いのなかで力をつける方策として、子どもたちが子ともの権利条約を読んで理解する手助けをしたそうです。これらのストリートワーカー、あるいはラテンアメリカではしばしば「プロモーター」と呼ばれている人たちは、自分たちの役割を、子どもたちが自分自身の主人公になることを学ぶときに、その協力者となることであると考えているそうです。多くの国で裕福で家族が揃った家庭の子どもよりも、文字が読めず、家族の影響の及ばない路上で暮らしている子どもたちの方が国連子どもの権利条約の原則をよく知っていることは、皮肉だと言います。しかし、悲しいかな、工場や鉱山の内部に閉じ込められていたり家庭のなかで奴隷のようにこき使われている、ストリートワーカーの目からも隠された数百万人の働く子どもには、これが当てはまりません。目先の子どもの労働による収入に頼っている、自らの基本的人権をも欠いている非常に貧しい家族に、子どもの教育と参画の権利を説いて理解してもらうことはとくに難しいというのです。

子どものもつエネルギーが認められる場合といえば、ほとんどいつも、「参画」ではなくて「社会的な動員」だと言います。社会的な動員とは、あらかじめ決められたことを実施するために、人々を動員することです。もちろん、どんな年齢層の人にとっても、社会的な動員より自発的参加の方がよいと言います。その理由は、たんに無慣労働でコミュニティ問題を一気に解決できるからではなく、長い期間に市民意識、とくに地元に対する責任感を育てるからだと言います。

全国レベルの、あるいは国際レベルの会議は、子どもたちに「真の参画」(子どもにとって意義のある参加)をさせるための理想的な場であるとはいえないとハート氏は言います。そういう会議の場で、多くの政治家が子どもの発表に感動しているように見えるかもしれませんが、彼らのうち、子どもが示した考えを自分が関係する団体で採用しようとしたり、自分のコミュニティのなかの環境計画と管理の問題へ子どもが参画するようにと励ましたりする人はほとんどいないと言います。

子どもが、自分たちはどんなに将来を託せる存在であるかとか世界的な環境の問題をこんなによく理解しているのは自分たちだけだと話したり高らかに謳い上げるといった使い古された例は、もうそんなには必要ではないと言います。そんなものよりも、コミュニティに根ざした持続可能な開発のなかで、とくに大人と協力しているときに重要な役割を果たせるという、子どもたちがまだ見せたことのなかった能力を発揮している例がもっとあってほしいとハート氏は思っています。

子どもと一緒に活動してきたNGOのメンバーが「子どもの権利」の考えを、恵まれた家庭であろうと貧しい家庭であろうと、その子どもの家族に浸透させることにどんなに成功してきたかを見る必要があると言います。家族はしばしばきわめて権威主義的な構造をもっています。多くの親は、「子どもの権利」を振りかざされることによって、自分の子どもを支配する力を失うのではないかと恐れています。

条約の威力

ハート氏は、国連子どもの権利条約の中で、子どもの参画の問題と最も関係があると思われる条文を挙げています。特に、第12条、第13条、第14条、第15条の条項は、参画の権利を最も強く謳っていると言います。また、第17条、第23条、第29条、第31条の条項も、子どもがその能力に応じてできるだけ参画することが重要であると認めていることは明らかだというのです。

国連子どもの権利条約は、子どもについて二つの補足し合う見方を示しているとハート氏は言います。すなわち、子どもは大人ほど強くなく力もないので、ある種の保護を必要としているという見方と、迫害や束縛を受けているので、もっと自己決定の権利をもつ必要があるという見方です。子どもに自己決定の権利をもっと与えれば、国連子どもの権利条約の保護の面を改善できるとも考えられています。難しい状況下に生きている5か国の都市の子どもの生活の改善に、国連子どもの権利条約がどんなに威力を発揮しているかの例を、ブランクが1994年に論文で書いているそうです。

ハート氏は、参画に関わる条項がとくに有効に使われているのは、おそらくストリートチルドレンや路上で働いている子どもたちと一緒に活動しているいくつかの国のNGOによる使い方ではないかと言います。国連子どもの権利条約の第32条は、経済的搾取および有害な仕事から子どもを守ることの重要性を述べています。しかし、これらの子どもたちといっしょに活動しているNGOは、国連子どもの権利条約は「ストリートチルドレン」について何の具体的な認識もないままに、子どもの権利を保障する者として家族というものに過大な信頼をおいているとしていると言います。例えばベルーのリマで、働く子どものための活動をしているアラハンドロ・クッシアノヴィッチは、「多くの国のストリートチルドンや路上で働く子どもたちに関する研究報告は山ほどあるのに、あいかわらず子どもは親の私的所有物であり、家族という私的な城で保護されているか、過保護にあるか、あるいはまったく保護されていないか、という型から抜け出せないでいる」と嘆いているそうです。世界のどこの国でも子どもに関わる仕事では、「保護主義」的な考えがいまだに主流ですが、それにもかかわらず、いまでも世界にたくさんいる非常に低年齢で働く子どもや、虐待されている子ども、存在を無視されている子ども、戦争に巻き込まれている子どもたちを助けるためには何の効果もあげていない、とクッシアノヴィッチは主張しています。

日本では、確かにこのような子どもはいませんが、子どもの貧困率は非常に高くなっていますし、年々、子どもへの虐待による痛ましい事件を耳にすることが多くあります。「保護」から「主人公」という新しい社会的な運動が出てきているのは、この失敗のためである、とクッシアノヴィッチは主張していますが、まさに日本でも、その言葉に耳を傾ける時ではないでしょうか。子どもの権利を推進しようとしている多くの人の到達した意見は、子どもたちが「子ども期」を享受できるようにするための、最大の保護と保障は、「自分を守る」という考えである、というものだとハート氏は主張します。私は、どうしても子どもを中心にした「子ども庁」であるべきで、今の時代、そこに家庭を入れることは随分と時代遅れの気がするのですが。

条項の中の参画

国連子どもの権利条約には、子どもの生存、適切な発達、虐待や搾取からの保護などを保障するいくつかの条項に加えて、この条約には一連の参画の権利を認めた条項もあるとハート氏は言います。これらの条文は、ある部分で、子どもが財産として保護されるのではなく権利を持った個人として今以上に良く保護されるような保障しようとしています。「子どもは自分たちの権利のことを知り、その権利を主張することができる」と述べていますが、それにとどまらず、子どもを「発達途上の市民である」と認識する先見の明を持った条文でもあるとハート氏は言うのです。これらの条文は全ての国に対する挑戦だと言います。なぜなら、どこの国もこれらの条文の全てにまともに応じていないのは確かだからというのです。とくに、子どもが家族やコミュニティによってどのように、また何歳ぐらいで社会化され、文化によってずいぶん大きな違いがあり、普遍的にこうあるべきと決められるものではないというのです。それゆえに第5条で、次のように「家族の役割」が協調されているのは適切だというのです。

(第5条)締約国は、子どもがこの条約で認められている権利を行使するにあたって、父母か、場合によっては地方の慣習で定められている大家族もしくは共同体の構成員、法定保護者または子どもについて法的に責任をもっている他の者が、その子どもの発達しつつある能力に合った方法で適切な指示および指導を与える責任と権利と義務を尊重する。

現在、日本で子ども庁を子ども家庭庁にする案が通りそうですが、ここにあるように、必ずしも家庭だけが子どもに必要ではなく、もう少し子ども主体に、広く考える必要があるような気がします。家庭信仰、母親信仰が強くなってしまう気がするのですが。

この条文について、ハート氏はこう書いています。子どもの保護という視点からみると、この条項はたいへん強い調子の声明であるようにみえます。子どもは家族により守られる必要があると多くの人は反論するでしょう。この問題はこの条約によってはじめて取り上げられましたが、いまでは多くの国が新しい法律をつくって古い考えを覆そうとしているそうです。子どもたちに、もっと社会参画するように促すには、親とも活動をともにする必要があるというのです。親もいままでは社会に参画する機会がなかったかもしれないというのです。

国連子どもの権利条約は、各国が子どもに関する法的、また道徳的規約をつくる際の基準の役目を果たすためにあるのですが、市民生活に子どもが参画することに対する態度に世界各国で大きな変化がみられるようになるまでには、長い時間がかかるであろうとハート氏は言います。その間に、「子どもは独立してものを考える主体者であり、もっと参画する能力があるし、参画に値している」という見方を広めたいと思っている人は、人を説得する有効な手段として、この国連子どもン権利条約を利用することができるのではないかと言います。多くの人は、子どもは子ども期をもつことができるように保護される必要があると主張するでしょう。厳密に言うと、子どもの心と体が保護される必要と参画する権利とのバランスをどのように考えるかという問題は、国連子どもの権利条約を批准した国々が直面し始めている複雑な問題であると言います。もし保護から参画へのプロセスが、幅広い情報に基づいて行き届いた方法で行われるならば、各文化圏で子どもの参画が違って見えてくるだろうというのです。

参画しやすい

子どもの居場所や活動する場所などの物理的な環境を考え出したり設計したり監視したり管理することは、子どもが参画しやすい理想的な分野であるとハート氏は言います。こういうことは、その他の多くの社会問題に比べれば子どもたちには見えやすく、理解しやすいのです。そのうえ、人間と自然との関わりの問題はいま、この世紀の変わり目に世界が直面している最大の問題だからです。世界中で、子どもたちは環境問題にたいへん熱心にかかわるようになってきていると言います。しかしながら、子どもたちが持っている大きなエネルギーがその時々の社会問題に巧みに使われてしまう恐れもあり、現実にそういうことが環境保護運動ではよく起こっていると言います。「地球を救う」ためと称する、大規模だが長続きしない、底の浅い活動に子どもたちが参加させられている事例がたくさんあるというのです。ハート氏は、どんな子どもでも価値があり、長続きする役割を果たすことができるという信念をもっていると言います。それが可能となるのは、子どもの参画が真面目に考えられ、発達しつつある彼らの能力が認められ、子どもには子ども独特の力があることが認識されている場合だけであるというのです。多くの場合、子どもたちは、誰かが企画している環境問題のキャンペーンに乗せられて、ただ天真爛漫にオウム返しに決まり文句を唱えているというのです。

1987年、世界環境・開発委員会、通称ブルントラント委員会は、全世界に向けて「未来への戦略」を発表しました。その戦略は「開発」と「貧困の根絶」をもたらすと同時に、地球を退化させるような危険な道から救うことになるはずだと彼らは言っています。

最近、どこででも「持続可能な」という言葉を聞くことが多くなりました。しかし、様々な政策や政治決定を合法化するために乱用されてきていることについて、ハート氏は少し危惧しています。この文言を何でも解決してくれる魔法の言葉のように考えてはいけないと言います。これは便利な言葉ではありますが、たくさんのほかの社会概念と同じようにこの言葉に対しても、子どもや10代後半の若者は批判的に構えた方がいいというのです。なぜなら、第一に、「持続可能な」という言葉の意味があいまいだからと言います。ハート氏は、「持続可能な開発」というのを、「生態学的持続可能性」という言葉を用いています。それは、社会の、文化の、プログラムの、プロジェクトの持続可能性など、ほかのどの種類の持続可能性にとっても基本となるものであるからです。ここで、とりあえず環境については置いておいて、もう一度、子どもの権利と責任についてハート氏の考え方を見てみようと思います。

1989年に国連は、子どもはどのように認識され、扱われるべきかについて大変含蓄のある条約を委託しました。この国連子どもの権利条約は、子どもの保護と発達に関する世界共通の基準であり、2000年年8月現在、191か国が批准しています。多くの国では、子どもを長期間学校に通わせることによって、「子ども期」を延長させています。そのため国連子ども権利条約では、「(子ども)とは18歳未満の全ての者を言います。ただし、その子どもに適用される法律によってもっと早く成年に達した場合を除く」と規定しています。

真の参画

日本では、まだまだ、真の子どもの参画が行われていないのではないかということを聞くことが多くあります。たしかに、国際的に比較しても政治的関心が低い国民像、青少年像が幾度かの調査で明らかになっているそうです。それは、保育の世界でも、子どもの主体性、主体的保育と多くの場で叫ばれていますが、真に子ども主体になっているのか疑わしい保育を見ることが多い気がします。やはり、どこか子どもは大人が主体になって導いていかなければならない、子どもに任せたら収拾がつかなくなる、そんな思いがどこかにあるような気がするのです。しかし、木下氏は、「子どもが動き出せば、それに触発されて大人も考え出すかもしれない」と考えています。

ハート氏は、今日のグローバル化、競争主義という全世界を覆う経済の流れが、コミュニティを破壊し、ゆくゆくは民主主義、地球の環境をも脅かすことになるのではないか、と強い懸念を抱いています。それに対して、ハート氏は資源管理の権限を地方へ分散し、コミュニティベースの持続可能な開発モデルを示しながら、そこで果たす子どもの参画による積極的な役割に着目し、その力によって本来の地平線を切り開いていこうと提言しているのです。

ここでハート氏が提案しているのは、保育における子どもの参画ではなく、コミュニティづくりと身近な環境ケアへの参画です。しかし、その取り組みの実践例を通して、私たちは「参画」の意味と、今後、その考え方を保育に取り入れるにはどのようなことができるかを考えるきっかけになると思います。さらに、対象となる「子ども」についても、国連子どもの権利条約では「18歳未満の者」と定義されていますが、彼は、子ども期から14歳ぐらいまでの10代前半の子どもに焦点を当てていますので、それも考慮に入れなければなりません。

まず最初に、ハート氏は現代の時代を考察します。1990年代の子どもが生きている時代を、歴史の視点から見ると、それはどんな時代なのか?それは、自然資源の利用や環境の管理に市民が果たす役割を、多くの国の人々が根本から見直そうとするようになりました。同時にまた世界のほとんどの国は子どもの権利条約を批准した時代でもあると言います。この条約によって、子どもたちが自分の将来やコミュニティの未来を形づくることにどの程度権利と責任を負っているかについて、人々は改めて考えるようになっているといます。確かに、ドイツでも、「参画」について考えるようになったのは、子どもの権利条約を批准したことへの具体的な取り組みを考えてです。そして、それを幼児教育ではどのように取り入れるかを考えた結果、「オープン保育」という形態を考えたのです。

ハート氏は、社会発展への最も確かな道は、環境の管理について理解と関心を持ち民主的なコミュニティづくりに積極的に参画し活動する市民を育てることだという信念を持っています。あらゆる国、あらゆるコミュニティで、地域コミュニティに参画するという原則とその実践こそが子どもの環境教育に必要だと主張するのです。

子どもたちは、直接環境に参画してみてはじめて、民主主義というものをしっかり理解し、自分の能力を自覚し、参画しなければいけないという責任感をもつことができるようになるというのです。

ドイツにおける参画

ミュンヘン市における参画の取り組みを、さらに一歩進めて、2012年、子どもたちからの苦情を聞かなければならないという法律ができ、子どもたちにインタビューすることによるアンケートを採ることになったそうです。

「子どもには、それぞれ権利があり、それを活かしてあげるプロセス」を持つものとして捉えますと言います。そこには、日本とは違う「平等」という考え方があります。平等とは、日本では分け与える平等ですが、ヨーロッパでは、権利の平等であり、それは必要なときに等しく受け取ることができる平等だと言います。そして、子どもは正義については、大人以上に厳しい行動を取ることがわかっていると言います。それは、平等についても子ども自身はわかっていると言います。

そして、その2年後再びドイツに行った時に、こちらから参画についての取り組みをしている園をリクエストして、見学をしました。それが、2018年6月21日のブログで紹介されているものです。その時の報告として、次のように書かれてあります。

「参画」は、「ここで過ごす子どもたちにとって、最も大切なもの」として位置づけられています。それは、ここで過ごす子どもたちにとって、最も大切なものとし、ここの社会で、考えを深めながら過ごすため、子どもたちはいろいろな希望を持っていますが、様々な問題に直面するときに、どうすればいいのか?そんなときに道を自ら切り開いていく手伝いを保育者はしていきます。たとえば、状況を話し合ったり、子ども同士で意見交換をしたりします。トラブルにたいしても、和解だけでなく、解決策を見つけていくことが子どもにとっての民主主義なのです。たぶん、この延長線上に「オープン保育」があるのでしょうね。

これまでのドイツ研修報告から見る「参画」を振り返ってみましたが、どうもつまみ食いのような気がして、一度きちんと整理してみたいと思っていました。それは、これからの保育の課題となる気がするからです。そんな時に、書店でロジャー・ハート著「子どもの参画」(萌文社)という本を見つけました。英文では、CHILDREN’S PARTICIPATIONです。ドイツでこの言葉を知った時、園の男性職員は、その発音が気に入ったらしく、何度も発音していました。しかし、この本は、サブタイトルに「コミュニティづくりと身近な環境ケアへの参画のための理論と実際」とあるように、特に保育に関するものではありませんが、その理論を学ぶことはできると思います。

この本の発刊にあたって、監修者の一人として木下勇氏が寄稿しています。そこには、最近、「子ども会議」とか「子ども探検隊」など、子どもを巻き込んだ催しが注目されていますが、そこには子どもの参加を謳いっていますが、それが果たして「子どもの参画」なのであろうか、表面的なことではないかと自問しています。日本では、まだ大人には子どもを信じていないところ、一個の人間として見ていないところがあるのではないか、大人が直面している課題についても、子どもにきめ細やかな情報を与えて、一緒に考えるパートナーになっていないのではないか、また環境の改善に身近なところから取り組もうとしても、子どもの参画以前に日本では住民自身の主体的な参画ができていないのではないかという声を聴くことが多いというのです。

ドイツ報告を振り返って

私は、長くブログを書いていると、自分の考え方の変化を知ることができます。もちろん基本的には変わりませんが、様々な経験をすることで、次第に集約されていくことがわかります。その一つの契機が、ドイツ研修です。その影響を残すために、ドイツ研修では、毎日ドイツ報告を書いていました。2018年6月21日のブログでは、まず、こんな文章で締めくくられています。「私は最近、保育園は家庭の代わりから社会の代わりに役割を変えていくべきであると主張しています。特に、母子という二者関係からの保育から、社会的ネットワークの中での保育にすべきであると考えているのです。それは、特に3歳未満児に対してもそうあるべきであると思っています。それは、人類が長い進化の中でそのような子育てをしてきたということもありますが、もう一つ、これから社会に出ていく子どもたちにとって、社会の形成者としての資質を備えていかなければならないからです。そして、どのような社会を目指すというと、平和で民主的な社会です。」

ここに書かれている考えは、全く今と変わりません。この文章を書いたのは、その内容が、当時、ドイツのミュンヘン市でまさに取り組んでいることのひとつだったからです。それが、Jugendparizipation(参画)です。

2016年にドイツに行った時に、ミュンヘン市が用意してくれたプログラムは、市の職員さんたちが研修するために郊外に作られたセミナーハウスでの宿泊研修でした。そこで、ドイツと日本から保育についての取り組みの紹介をしあいました。日本からは、乳児からのかかわりによる保育の実践、ミュンヘン市からは、Jugendparizipation(参画)についてで、その研究家である職員さんが話してくれました。そこで、初めて、参画という取り組みに触れました。ミュンヘン市が取り組み始めた経緯を最初に話してくれました。

ミュンヘン市が、1997年、子どもの権利条約の採択を受けて、市長はじめ、子どもに関するすべての行政職員、ボランティアみんなで検討して、取り組む課題を話し合いました。そして、バイエルンという保育指針のような幼児教育が取り組む課題として、この「参画」が書かれることになり、デモクラシーについて、考えていこうということにしたのです。そして、この参画に取り組むようになった経緯としては、子どもにとって最も効果的な学びととは、子どもに興味関心を持たせることにあり、そこには個人によっての個性があるために、参画という考え方をすることになったと言います。

参画の例としてあげられているのは、例えば、食事について、子どもは誰と、どのくらい食べるのかを決める権利があるというようなこととか、どんな遊びをしたいか、新しい遊具を買うときにも、子どもたちによる投票によって決めます。また、買い物に行くときなどは、各グループから代表が選ばれ、彼らのよって提案されます。このような参画の内容については、それぞれの園によって子どもと一緒に、また保護者とも一緒に決め、均一はないと言います。そして、参画した結果何か問題が起きたとしたら、それはチャンスとして捉え、子どもたちに解決する力を付けます。

私たちが、園での昼食の時に、子ども達に、誰と、どのくらい食べるかを決める権利を与える取り組みは、参画であるようです。また、いくつかのゾーンを設定して、どこで、誰と、何をして遊ぶかを決めることができるのも参画と言っていいでしょう。

改革するリーダー

2030年に必要な学習を担保するような環境の構築の実現のためには、単にたくさんの議論を交わすだけでは足りないとシュライヒャーは言います。教師や学校が、自律的に様々な工夫ができるようにするとともに、変革に向けた能力を培っていくことができるような環境を、慎重に構築していくことが求められるというのです。そのためには、学習者のことよりも、しばしば教師や行政官の慣習や便宜に基づいて作られがちな教育制度の構造を、大胆に見直していくことができるようなリーダーが必要だというのです。そうしたリーダーは、同時に社会的な変革に誠実に取り組み、政策立案に創造的であって、効果的な改革を進めていくうえで、自らが培った信頼を活用していくことができるリーダーであることが必要だとシュライヒャーは言うのです。

この時代を迎えて、全世界で800万部を突破したベストセラー『サピエンス全史』の著者であるイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが警告しているように、「人類史上、最も重大な決断が今なされようとしている」のかもしれません。そして、その変革に対して、「子どもたちに教えなければならない最も重要なこととは、変化にあらがうのではなく、変化を前向きに受け入れられるような特性なり自己イメージなりをどう築いていくかだ。」ということが、私たちに求められているのでしょう。

確かの変えることは勇気がいりますし、大変な労力がいることです。しかも、ハラリはこう言っています。「一生学び続け、自己を絶えず刷新し続けるしかない。これは心理的には、とてつもない苦しみとなるだろう。変化には、いつだって精神的な苦痛が伴う。40歳になって自身を作り替えるというチャレンジに耐えられる人は、そう多くはいないはずだ。仮に40歳で何とか自分の生き方を変えることができたとして、50歳になってもそれを繰り返す気になれるだろうか。さらに60歳になったときに、またしても自己変革が必要になったとしたらどうだろう。」

私たちは子どもたちの将来に対して、責任があり、良心が必要になります。しかし、それを達成していくために、人類は、他と協力し、他と協働をして生き延びてきた遺伝子を持っているはずです。どうしても、組織の長となるものは、孤立し、また、自分一人で組織を束ねようとします。そうではなく、他から学び、他と共生しながら他に貢献していくことが必要となるのです。

私は、コロナ前は、十何年もドイツミュンヘンを訪れていました。それは、そこから何かを学ぼうとするためでした。そして、そこでいいと思ったことは、園でも取り入れようとしましたし、また、自分の進む道を確かめてきました。例えば、ヨーロッパで取り組んでいたのが、「学びの部屋」という取り組み、「小さな科学者たち」です。これは、シンガポールでは、違う形で取り組んでいるのがSTEMだったのです。そして、インクルージョン保育という取り組みを知ったのは、2005年にミュンヘンで行われた世界保育大会「インクルージョン保育」に招待されて訪れた時でした。そして、今回のコロナ禍で残念ながら中断されてしまっていますが、「オープン保育」という考え方です。

そして、もう一つ、「参画」という取り組みがあります。これこそは、次の時代の保育の課題であると感じています。

大規模に変革

コミュニティにおける「状況的な価値観」とは、状況に応じることで、できることは何でもする、しても構わないという価値観であり、「持続的な価値観」とは、信頼、社会的紐帯、希望などを生み出すような社会的持続性を重視する価値観ですが、この意向が今後行われていくであろうというのです。教育が人間を支える基盤を作ることができなければ、たとえ、それが自滅につながるようなものであるとしても、人々はお互いを隔てる壁を作り出していくことになりかねないとシュライヒャーはいうのです。

技術発展の一歩先を進むためには、人間固有の資質を見つけ、磨いていかなければなりません。そうすることで、コンピュータの能力と竸合するのではなく、コンピュータを補完していくことができるのです。学校は「二流のロボット」ではなく、「一流の人間」を育てていかなければならないというのです。

とはいえ、教育を大規模に変革していくためには、生徒が何を学ぶべきかについて、単に革新的で、代替的なビジョンをもつだけではなく、知識やスキル、態度及び価値観が育まれるような効果的な学習環境が必要となるとシュライヒャーは言うのです。そのためには、学習環境を構築しなければなりませんが、白石氏の「OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来」という本は、OECDのラーニング・コンパスを下敷きにしながら、カリキュラムのデザインについての具体的な洞察についてまとめてあるので、そのための手引きになるのではないかとシュライヒャーは評しています。

現在の学技教育の基本的な仕組みは、工業化社会において作られたものですが、そこで重視された規範は、「標準化」や法令や規則の遵守という「コンプライアンス」などでした。また、工業化社会においては、多くの生徒をまとめて教えるとともに、いったん訓練した教師を、その後の職業人生においてもより長い期間活用していくことが効果的・効率的と考えられていました。そして、生徒が学ぶ内容を定めているカリキュラムは、そうした教育のピラミッドの頂点にあるものとしてデザインされていて、公的機関の様々な階層を通じながら、教室で指導にあたる教師の一人一人によって実施されるまで、指導資科や教師の研修、学習環境などの形で「翻訳」されてきたのです。

こうした、工業化社会のモデルに由来する教育の構造は、急速に変化している世界においては、変化のスピードがあまりにも遅いとシュライヒャーは言います。社会の変化は、現在の教育システムの受容性をはるかに超えるスピードで起こっているというのです。ですから、2030年の教育システムに向けて、本質的な課題にどのように対応していくかが必要となり、具体的には、カリキュラム・オーバーロードという、多くの内容を教えることが求められ、教師にとっても、生徒にとっても十分に消化することが難しくなっていること、カリキュラムの策定と実施との間のタイムラグ、そして、2030年に必要な学習を担保するような環境の構築について考えていかなくてはなりません。それを白石氏は、この本の中で述べているのです。