3つの局面

次に「実施されたカリキュラム」となると、「教師の資質能力」として、・採用、育成、研修、「教師の指導法」として、・アクテイプ・ラーニング、「教師を取り巻く環境」として、・定数、働き方改革・免許制度・教科書、教材、指導書・ICT環境、「教師に期待される役割」として、・保護者からのニーズ・子どもの安全管理です。そして最後に「達成されたカリキュラム」となると、「授業を通した評価」として、・形成的評価・通知表、指導要録、調査書、「達成されたカリキュラム」となると、「授業を通した評価」として、・形成的評価・通知表、指導要録、調査書があります。「標準化テストによる評価」として、・全国学力・学習状況調査・各自治体による学力調査・PISA、TIMSSがあります。そして、「入学者選抜」として、・中学入試、高校入試・大学入試があります。

国により制度が異なりますが、「意図されたカリキュラム」は、一般に、政府機関などが策定するものです。単に、「カリキュラム」という場合には、この「意図されたカリキュラム」を意味するものとして使われる場合も多いようです。日本やドイツ、フランス、韓国、デンマーク、オーストラリア、カナダ、フィンランド、ノルウェー、オランダ、アメリカ、中国、シンガポール、エストニアなど、 OECD加盟国を含めたほとんどの国では、国または州の教育省、あるいはこれに準じる機関がカリキュラムを策定しています。また、日本を含めた多くの国では、中央政府の教育省がカリキュラムを策定していますが、ドイツやアメリカ、カナダなど連邦制国家の場合には、州ごとに教育省が設置されているので、異なるカリキュラムが作られている場合があるようです。イギリスの場合もイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドと、地域ごとにカリキュラムを作ることができる仕組みになっているそうです。

さて、国等やそれに準じる機関が策定するカリキュラムは、あくまでも「意図されたカリキュラム」であるから、実際にカリキュラムに沿って教えるのは教師であり、また、カリキュラムの内容を学ぶのは生徒です。したがって「意図されたカリキュラム」は、カリキュラムについての基本的な考え方を示すものにとどまり、それ以上のことは教師や生徒に委ねられていることが一般的です。例えば、日本の学習指導要領は教育課程の「大綱的」な基準とされています。ですから、幼稚園教育要領にしても、保育所保育指針にしても日本では大綱的な基準のため、解釈にかなり多様性が見られます。この大綱的な書き方の場合は、よほど各施設なりが良心的で、きちんと子どもの権利条約なり、教育基本法なりを理解した上で取り入れてほしいと思いますし、ましては、その存在自体を知らない現場の管理職や保育者さんがいることに情けない気持ちになります。

フィンランドの”National Core Curriculumも「学校の教育や指導を新しいものにしていくうえでの、共通の方向性と基盤を提供するもの」とされているそうです。日本のカリキュラムにおいても、学校選択教科・学校選択科目といった形で学校が独自の教科・科目を設定することは可能であるし、イギリスのように、国が定めるカリキュラムは学校のカリキュラムの5割程度を想定しており、残る5割は学校の裁量の中で決定していくという方法もあるそうです。

3つの局面” への4件のコメント

  1. どんなに緻密に作られたカリキュラムであっても、「実際にカリキュラムに沿って教えるのは教師であり、また、カリキュラムの内容を学ぶのは生徒」であるということは、カリキュラムの意図を正しく理解して把握できるかが非常に大切になってくることが想像できます。もちろん、カリキュラムの実行は教師や生徒なしでは行うことができません。そこでのデータ収集は、そのカリキュラムの内容を精査する上で重要であり、繰り返しによる改善作業が必要であるのは理解できます。しかし、その改善作業が「大綱的」であるが故にしにくくなってしまうのは否めません。カリキュラムが、こんなにも影響を及ぼしているということを、まずは現場が理解していく必要がありますね。

  2. 「幼稚園教育要領にしても、保育所保育指針にしても日本では大綱的な基準のため、解釈にかなり多様性が見られます」とありました。本当ですね。受け取り手の解釈に委ねられてしまいますし、大綱化ということで、何にでも当てはまってしまうような表現が多いと、明らかにそれは乳幼児教育ではないことも教育要領、指針に沿っていますと言えてしまう部分もあるので、もどかしいですね。それでも、私たちが保育指針を読むことで、具体的な保育方法がイメージできるのは、見守る保育、藤森メソッドの考え方、実践の環境を知っているからだなとつくづく思います。

  3. カリキュラム、と聞くと、日本の幼稚園教育要領や保育所保育指針、は「カリキュラム」?となります。ガイドライン?じゃない?また思い出すのは、ドイツ連邦共和国バイエルン州が出している、バイエルンBEP。これはプラン、ですが、中身を見ると、歴としたカリキュラムです。しかも、このカリキュラムには Muenchner Werkbuch ミュンヘンワークブックというカリキュラム実施のための手引書があります。日本の幼稚園教育要領や保育所保育指針は「大綱化」されたものだそうです。それは、園ごとの創立の精神や創意工夫のためだとか。結果はどうなっているのか?「解釈にかなり多様性が見られます。」という結果になります。この多様性の中には、虐待に近い、世に言う「不適切な保育」を平然とやってしまう、ことにもなります。「各施設なりが良心的で、きちんと子どもの権利条約なり、教育基本法なりを理解した上で取り入れてほしい。」本当にその通りです。

  4. カリキュラムの捉え方において、どこまで政府が介入し、どこまでを現場によるものにするかというのは難しい問題であるように思います。すべてにおいて、政府主導であると、教育は非常に型にはまったものになるでしょうし、大綱化が過ぎるとある意味「なんでもあり」の状態になってしまいます。「いい塩梅」というのはなかなかに難しいものですし、実際、そういった委ねられた部分において、困っている現場も多いように思います。最後にフィンランドのカリキュラムにおいて「学校の教育や指導を新しいものにしていくうえでの、共通の方向性と基盤を提供するもの」とあるように、あくまでも方向性を示すものであるということなのでしょうが、問題はその目的というものを取り違えてしまっては返って問題になりかねないという課題があるように思います。教育において、学歴や成績など目に見えるものばかりに教育の視点が求められますが、社会においては多様な職業があり、成績や学歴だけではかれないものもたくさんあります。どこに視点を置くかといったときに「社会のウェルビーイング」という根本に立ち返るように考えていけるような方向性の目的を明確にする必要もあるように感じます。

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