大綱化

カリキュラムの大綱化は、カリキュラムの統一性を緩めれば緩めるほど、地域や学校ごとのカリキュラム格差が生じてくることにもなるのは当然です。すなわち、優れたカリキュラムを作ることができる自治体や学校の生徒にとっては良いのですが、そうでない自治体や学校の生徒にとっては逆の結果を招く可能性があると懸念されます。ましては、各施設任せであれば、よりその格差は生じます。

なお、アメリカやカナダ、ドイツ、オーストラリアなど連邦制国家の場合には、一般に教育に関する権限は州が有しているため、カリキュラムも異なってくるのですが、当然、それに伴うメリットとデメリットが生じます。例えば、カナダのオンタリオ州では、州独自のカリキュラムに準拠する外国の学校を認定する制度を導入するなど、オンタリオ州やブリティッシュ・コロンビア州をはじめとした各州が、それぞれのカリキュラムについて切磋琢磨している状況が見られるそうです。

一方で、近年、州ごとのカリキュラムの独自性よりも、全国的な統一基準を志向する動きも見られるようになっているようです。例えば、オーストラリアでは、従来はヴィクトリア州やクイーンズランド州などの各州がカリキュラムを策定してきましたが、 2009年に各州が共同でACARA (オーストラリア・カリキュラム・評価・報告機構)を設立し、ACARAがオーストラリア・カリキュラムという全国的なカリキュラムを策定するという仕組みが導入されているそうです。また、アメリカにおいても、伝統的にカリキュラムは州の権限とされてきましたが、2009年にコモン・コアと呼ばれる全国的なカリキュラム基準が作られ、多くの州が採択する動きが見られているそうです。

次に、「実施されたカリキュラム」は、政府機関等が策定した「意図されたカリキュラム」を受けて、実際に学校で教師が実施するカリキュラムのことです。「意図されたカリキュラム」が優れたものという前提があれば、「実施されたカリキュラム」との間のギャップは少ないほうが望ましいです。しかし、実際には様々な事情によって、「意図されたカリキュラム」と「実施されたカリキュラム」の間にはギャップが生じることが避けられないと言います。

第一に、「実施されたカリキュラム」を考えるうえでは、資源配分や環境整備についても検討する必要があると言います。いかに教員が正確に「意図されたカリキュラム」を理解しているとしても、例えば、十分な数の教員が配置されていない、適切な教科書や教材がそろわない、保護者対応などに忙殺されて十分な授業研究ができない、といったことは十二分に想定されるところであり、こうした側面についても考慮していく必要があると白井氏は言うのです。

第二に、「意図されたカリキュラム」は大綱的な基準であることが多く、学校や教師には、それをどのように解釈して、生徒に伝えていくかという点での広汎な裁量が認められていることが多いようです。その際、「意図されたカリキュラム」の策定者である政府機関等の意図と、教師の考え方に乖離が生じることが起こり得ます。

なお、「意図されたカリキュラム」と「実施されたカリキュラム」との間、「達成されたカリキュラム」との間にも乖離があることは、各国における共通の課題として認識されているそうです。この点については、各国共通のカリキュラム課題のうち、「効果的な実施」として白井氏は取り上げています。

大綱化” への4件のコメント

  1. 『「実施されたカリキュラム」を考えるうえでは、資源配分や環境整備についても検討する必要がある』というところには強く共感します。ドイツを訪れた際、年間で使用できる保育材料費が200万という園があったと記憶しています。200万円分の玩具や棚や机や椅子を購入資金として使用できるのは非常にありがたいですね。環境を整えるためには、やはり資金は大切だなと思います。しかし、それだけではなく、何を購入に当てるのかを考えられるカリキュラムであるといいですね。カリキュラムを実現するためにはどんな物的環境が必要なのかを今後も考えていきたいです。

  2. 「一方で、近年、州ごとのカリキュラムの独自性よりも、全国的な統一基準を志向する動きも見られるようになっているようです」とありました。最近はこのような傾向も見られるのですね。根本としての教育を世界の人々が理解しはじめたからなのでしょうか。突き詰めれば、教育において重要なことというのは誰しもにおいて必要なことなんだろうと思います。だからこそ、独自性を出すよりも、そちらに力を注ぐそんな感じでしょうか。そう思うと、やはり独自性や個性というのはあえて強調しなくても自然に出てくるものなのかなということも感じました。

  3. 確かに、カリキュラムの大綱化は「地域や学校ごとのカリキュラム格差が生じてくる」ことになるのでしょう。現に、日本の中で起こりつつあります。カリキュラムは実践されてこそ、その意味があるのではないでしょうか。ところが、研修等で改定保育所保育指針を学んでも、依然、保育者主導の保育が堂々とあちらこちらで実践されているのです。平成元年の改定以降30年が過ぎてなお、2万3千ヵ園の保育所のほとんどが30年前とさほど変わらない。これは一体どうしたことでしょうか。子ども主体、子ども中心、子どもにとって、とこの30年間、研修という研修の中で声高に叫ばれてきました。「意図されたカリキュラム」と「実施されたカリキュラム」、このことについて正当な評価をしてきたのでしょうか。保育実践形態はいろいろあっていい、という耳障りの良い声に、惑わされてきているような気がします。その結果はどうなっているのか?

  4. カリキュラムというものをどの土地においても効果的に利用するというのはなかなかに難しいことなのですね。その地域による文化や風土、自治体のパワー、など様々な諸問題も複雑に絡み合ってくるでしょうから、どうしても格差が出てしまうというのはある程度仕方のないことなのかもしれません。そういった意味である程度の大綱化という自由性を持たせることの意味は必要になってくるのだろうと思います。そう考えていくと、「意図されたカリキュラム」のその「意図」の部分をしっかりと読み解いていかなければいけないのでしょうね。「何のためにそれがあって、何を目的とされるのか」そういった原則的なところが理解されていなければ、大綱化は返って独自性という名の元、解釈がさまざまなものになってしまいます。「そもそも」といった中心的なものをしっかりと捉えたうえで、今の状況にあった「実施されたカリキュラム」を構築しなければ、いけないのだろうと感じます。

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