ギャップ

2017年・2018年に改訂された日本の学習指導要領においては、「主体的・対話的で深い学びの実現」、いわゆるアクティブ・ラーニングが盛り込まれました。このアクティブ・ラーニングについても、「意図されたカリキュラム」と「実施されたカリキュラム」の間での乖離が問題になったそうです。すなわち、政策立案者である文部科学省や中央教育審議会の意図が十分に伝わっていない中で、様々なアクティブ・ラーニングに関する見解が広まることとなったのです。このような状況は、よく起きてきました。例えば、総合的学習が打ち出されたとき、また、ゆとり学習が取り入れられた時、そのたびに現場はほんろうされてきました。しかも、その成果がはっきりしないうちに、すぐ改定されてしまいます。幼児教育においても、保育指針の中で、保育課程の作成が要求されながら、次の改訂では保育の計画というように変わりました。作成者たちは、多分いろいろと吟味されているでしょうし、それほど大きな見直しではないというかもしれませんが、現場では、戸惑うことが多い気がします。

今回のアクティブ・ラーニングにしても、実際、書店などにはアクティブ・ラーニングに関する解説書などが何冊も並ぶ状況が生じていますが、一方で、それらの中には、例えば、「アクティブ・ラーニングとは、子どもの主体性を重視することであり、先生が教えてはいけない」とか、「アクティブ・ラーングなのだから、授業中に生徒による対話やグループ学習がないといけない」といった趣旨のものも含まれていました。提唱者の真意は別のところにあったかもしれませんが、学校現場はもちろん、教育委員会などにおいても、政策立案者の意図とは異なる理解も広まりつつありました。

そうした状況を踏まえて、文部科学省では、同省が作成する学習指導要領の解説において、アクティブ・ラーニングに関して、「例えば、主体的に学習に取り組めるよう学習の見通しを立てたり学習したことを振り返ったりして自身の学びや変容を自覚できる場面をどこに設定するか、対話によって自分の考えなどを広げたり深めたりする場面をどこに設定するか、学びの深まりをつくりだすために、生徒(児童)が考える場面と教師が教える場面をどのように組み立てるか、といった観点で授業改善を進めることが重要となる。すなわち、主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善を考えることは単元や題材など内容や時間のまとまりをどのように構成するかというデザインを考えることに他ならない」と文部科学省から示されています。このように示すことによって、政策立案者と現場の受け止め方の間の乖離を埋めようとしてきたのです。その意味では、このアクティブ・ラーニングの考え方をめぐる問題は、まさに「意図されたカリキュラム」と「実施されたカリキュラム」の間にギャップが生じている状況の典型的な事例であったと白井氏は言っています。

なお、このアクテイプ・ラーニングに関する事例は、「意図されたカリキュラム」を起点として、いかにして「実施されたカリキュラム」が乖離しないようにするか、という政策立案者側の視点に立った事例です。しかしながら、どれほど丁寧に作ったとしても、完璧な「意図されたカリキュラム」を想定することは難しいと白井氏は言います。実際には、「意図されたカリキュラム」に不十分な点がある場合には、学校や教師によって現場レベルでの修正が行われたり、あるいは、生徒や家庭での学習によって補われてきた部分もあるでしょう。そうした相補関係にも留意しながら、単に、三つのカリキュラムを整合させることだけを目的化することがないようにしていくことも重要であろうと白井氏は言うのです。

ギャップ” への4件のコメント

  1. 「主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善を考えることは単元や題材など内容や時間のまとまりをどのように構成するかというデザインを考えることに他ならない」ということで、授業スタイルのみがアクティブラーニングというわけでもなく、ただ生徒同士を話し合わせればよいということでもないことが感じられます。単元や題材などの内容にも視野を広げ、果たして生徒はこの単元で何を学ぶのか、そこからどう学びを深めていくのかといった、さらに深い考察が必要なのですね。

  2. 「政策立案者である文部科学省や中央教育審議会の意図が十分に伝わっていない中で、様々なアクティブ・ラーニングに関する見解が広まることとなったのです。このような状況は、よく起きてきました」とありました。このようなことは現場でもよく起こりそうなことですね。なるべきそういうことが起こらないためにも、しっかりとその意味を理解すること、そして、それを分かりやすく伝えていくこと、そして、あまり方法論に固執しないこと、などということは大切にしなければいけないなと考えることも多いです。主体的であり対話的な学びは子どものすべての活動において重要ですが、私自身、科学的な体験の時間ではこのことを意識して、このようなことが自然とできるような体験の内容を考えたいなといつも思っています。何かを体験させる、現象を見せることも必要ですが、自分たちで試行錯誤できるような実験を見つけていきたいです。

  3. 子ども主体、と言いながら、「指導」や「ねらい」の呪縛から逃れられない教育界。保育や教育は、そもそも、大人である保育士等や教諭等が行う行為です。いくら、子ども主体、子どもの自発性、あるいは子どもの特性、といったところで、先生たちの理解領域における「主体」「自発」そして「特性」です。子どもの同士の関わりも、先生たちの理解できる範囲に限定されるようです。何だか、こう考えてくると、先生の存在とは何か、と疑問符満載。しかし、先生たちが指導やねらいの呪縛から解き放たれ、保育環境の創造に向けられ、しかも、当然、そこには先生たちの「意図」、すなわち子どもの主体性、自発性、特性を担保することが意図されているならば、子どもたちと先生たちと関係はwin‐winの形で良き方に向かうことでしょう。大人も楽しみたくなるような保育環境づくりこそ、カリキュラムの内容だと思うのですが。

  4. 総合的学習やゆとり学習の頃、現場が翻弄されていた話は聞いたことがあります。今思えばそういった様子は、本質的に求められているものの理解といった「意図されたカリキュラム」がうまく伝達されていないところが大きかっただろうということと、やはり受験などの進学に対する課題への懸念が大きかったように思います。学校は進学率で見られることも多くあります。まだまだ日本は学歴が大きな意味を持つだけに本質を知っていても、目の前の目に見える結果を求めざるを得ないといった難しい課題も多分に起きているのだろうと思います。その点、やはり日本ではまだまだ子どもの権利条約の「意見の表明」といった部分に課題があるのかもしれません。

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