カリキュラムという言葉

図に示された結果は、あくまでも政府機関等が策定したカリキュラムを分析したものです。単純に、より多くのコンテンツにおいて、より多くのコンピテンシーを育成しようとした記述が盛り込まれているからといって、直ちに優れた成果を出していると判断することはできないと言います。ここでは、中国や韓国、カザフスタンのカリキュラムにおいて、最もエージェンシーが重視されているように見えますが、そのことと、それらの国でエージェンシーに関する教育が順調に成果を出しているかどうかは、別の問題だと白井氏は言うのです。今後、PISAなどの結果と組み合わせてCCMを拡張していくことも考えられるといいますが、現時点でのCCMの意義は、各国のカリキュラムを「鏡」としながら、自国のカリキュラムを相対化して把握するためのツールとして活用できることにあるというのです。

ところで、これまで「カリキュラム」が何を意味するかという具体的な内容については、特に踏み込んできませんでした。カリキュラムに関連する用語として日本では「教育課程」という言葉が用いられています。「教育課程」とは、「学校教育の目的や目標を達成するために、教育の内容を生徒(児童)の心身の発達に応じ、授業時数との関連において総合的に組織した各学校の教育計画である」とされており、すなわち、各学校が策定するものということになります。各学校が「教育課程」を策定するうえでの基準となるのが、「学習指導要領」です。これに対して「カリキュラム」という言葉は、一般に、「教育課程」よりも広義に解されており、「計画レベルだけでなく、実施レベル、結果レベルまでを含むものである」と考えられています。

Education2030プロジェクトにおいても、カリキュラムを幅広く解しており、過去のTIMSSにおいて行われたカリキュラム分析の枠組みを踏まえて、カリキュラムを(1)意図されたカリキュラム、(2)実施されたかリキュラム、(3)達成されたカリキュラムの3つに分けています。

この分け方について、白井氏は、政府機関等がどれほど理想的な「( 1 )意図されたカリキ=ラム」を策定したところで、それが円滑に実施されないことには画餅に終わってしまうことに留意する必要があると警告しています。彼は、カリキュラムの実施の段階において、例えば、採用時における教師の質やその後の研修の内容、教師の定数や働き方なども当然問われることになります。こうした制度が整っていなければ、カリキュラムは十分に実施することができないというのです。また、学校や教師が円滑にカリキュラムを実施することができたとしても、その次には、生徒がそれをどのように受け止めているのかが問われることになります。一人一人の生徒に対して適切な指導・評価が行われ、生徒の学習改善に生かされていくことが必要になってくるというのです。これが「( 3 )達成されたカリキュラム」の問題となるというのです。

それぞれを個別に見ると下記のように白井氏は整理しています。

「意図されたカリキュラム」として「カリキュラムの質及び量」があります。それは、・教科の専門的知見・新しい社会的ニーズへの対応・知的好奇心、チャレンジ精神・焦点化、適当な分量・順序性、年齢相当性としています。

カリキュラムという言葉” への4件のコメント

  1. カリキュラムの語源は「自分の歩むコース、履歴」を意味するラテン語のクレーレ(currere)からきていると以前学びました。きっと、自分が歩んできた道が轍となって、獣道のように次第にわかりやすい道となっていく、そのような履歴の道がカリキュラムなのだとすると、本来のカリキュラムは、やはり子ども主体のカリキュラムであるべきだと伝わってきます。「計画レベルだけでなく、実施レベル、結果レベルまでを含むもの」というところからも、学習過程における見通し・行動・振り返りがカリキュラムであり、子ども自身がそれらを行えるところに、本質的なカリキュラムがあるように思いました。

  2. 『政府機関等がどれほど理想的な「( 1 )意図されたカリキュラム」を策定したところで、それが円滑に実施されないことには画餅に終わってしまうことに留意する必要があると警告しています』とありました。これはあらゆることに当てはまりそうですね。素晴らしい理想を掲げてもそれを実行するための方法が確立していないとなかなか実際の行動に結びつけるのは難しいところですね。藤森先生の話の中には実際に行動に結びつくヒントがたくさんあるので、多くの人に言葉が届くのだと思います。それはやはり多くのことを経験してきたことや、様々なものを関連つける力、本質を見抜く力があるからだと思います。また、相手に届く言葉というのは、相手が何を考えているから、悩んでいるかが理解できるからだと最近は強く思うようになりました。これは子どもへの関わり方にもつながるところですね。

  3. 私自身、かつて子どもでした。まぁ、60歳になった現在、84歳の母からは「子ども」には違いないので、その意味でも自分の子ども性に向けるのです。その子ども性からモノ申したくなるのです。カリキュラムは子どもを脱した大人になってから知ったわ、と。学校に行く、それも自分が行きたくてく行ったかというと・・・夏休みは何だか救いでした。それでも、文字を覚え、算数や数学を学び習得し、その他の科学的な事や歴史事項も学び、やがて学歴のラダーを見事に登っていきます。そして結論、だから何だ!、ということです。私はやはり、興味関心好奇心のままに生きてこれた。幸せものだな、と思うのです。もちろん、不自由なこともあります。しかし、総体におけるプラマイで、プラス!「「カリキュラム」が何を意味するか」。この問いには真摯でありたい。私の興味関心好奇心とこの「カリキュラム」とは何をどう整合性を図るのか、あるいはその必要もないのか。

  4. カリキュラムと聞くとどうもあまりポジティブには受けとめられず、「しなければいけないもの」といったような印象を受けます。こう考えてしまうと教科においても道筋のようなものになり、かなり限定された課題のように思ってしまいます。しかし、今回カリキュラムというのは「教育課程」よりも広義であると書かれています。そして、「計画レベルだけではなく、実施レベル、結果レベルまでを含む」とありました。これらをどう捉えるかが非常に困難であるように思います。日本の場合、「計画は日案のようなものであり、実施については授業、結果は成績」と捉えられてしまい、「行っている」という捉え方になりそうです。しかし、コンピテンシーの内容を見た後でカリキュラムを考えると決してそうではないのだろうことは明らかです。本質的なところからしっかりと見て、カリキュラムを考えていかなければ、決していい結果にはならないように思います。

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