教師も成長

共同エージェンシーは、まさに他者との関係の中で成長していくことであり、コンセプト・ノートにおいても、「親や教師、コミュニティ、生徒同士の相互作用的、相互に支援し合うような関係性であって、共通の目標に向かう生徒の成長を支えるもの」とされており、「教師や生徒が、教えたり学んだりする過程において共同制作者となった時」に生じるものとされています。

もっとも、一昔前のステレオタイプな教師像を前提にすると、教師は、主として知識を伝達するための存在として考えられがちです。しかしながら、生徒のエージェンシーを育んでいくためには、当然、教師が一方的に指導するということではなく、教師と生徒が、お互いに教えたり学んだりするプロセスを、一緒に作っていく関係性が重要になります。もちろん、教師は、自らの専門性や経験に基づいて、カリキュラムに沿って授業を展開していくことになるのですが、その際、授業の在り方を一方的に決めるのではなく、教師と生徒が一緒に考え、 作り上げていくというプロセスが重要になってきます。そうしたプロセスを経ることによって、生徒は、何のために学習するのかという目的意識を得ることができるようになりますし、自分の学びを自分で決めるという学習に対する当事者意識をもつことになります。

共同してエージェンシーを伸ばしていくためには、教師自身も、これまで以上に成長していくことが求められます。教師が、「自分たちの職業人としての成長を目指すということに加えて、同僚の成長にも貢献するということを、目的かつ建設的に行うこと」が重要であり、エージェンシーのある教師は、「学習機会に受動的に応じていくというよりも、自分たちの職業的な成長であるとか、目標に向けた学習に関する選択を行うことを意識している」といいます。そのためには、生徒のエージェンシーを支援するような学習環境をどのようにデザインしていくかについて、各種の研修機会などを含め、様々な形で教師を支援していくことが必要になると言います。

もちろん、生徒の学習の場は、学校だけに限られているわけではありません。共同エージェンシーの育成については、教師と生徒の関係だけではなく、家族や友人、コミュニティの人々も深くかかわってくると考えられています。ところが、教師以外の人々の場合、家族であっても、自らが生徒のエージェンシーの育成にかかわっているという意識が希薄な場合も多いのが実態でもあるでしょう。その意味でも、生徒をとりまく様々な人々が、共同エージェンシーの意識をもって、生徒と協働していくことが重要であると言います。実際、生徒だけでエージェンシーを育てていくことは難しいのであり、自分たちの行動や発達を「一緒に管理していく」よう、大人と力を合わせていくことが求められています。教師はもちろん、家庭やコミュニティの大人たち全体が、広く生徒のエージェンシーを育てていくことについて、責任を共有していくことが期待されるのです。

生徒の周りには、教師、友人、地域の住人をはじめ、様々な人がいますが、その中でも、とりわけ重要なのが、親の果たす役割です。一般に、思春期に入ると家族よりも友人との関係がより重要になり、それ以降、成長するにつれて親の役割は低下すると考えられがちです。しかしながら、生徒は親から多くのことを学びますし、また、親と一緒に学ぶこともできるのです。

主体性

エージェンシーは様々な場面において想定されるものではありますが、その際、文化的な要因やコンテクストが重要になってくると白井氏は言います。すなわち、洋の東西の違いはもちろん、同じ国であっても地域による文化的な差異などによって、エージェンシーの概念も変わり得るからです。実際、エージェンシーという概念自体が、「それぞれの個人的な見解や文化的なものを含め、その人の背景を反映しながら、論者によって異なる形に定義されたり、用いられてきた」のです。

例えば、日本語における「主体性」などもエージェンシーに重なる部分はあるとしても、「主体性」などの言葉だけでは、エージェンシーの意味するところを十二分に表しているとは言い難いと言います。近い概念を表す言葉としては、前述のような「生徒の自律性」や「生徒の声・意見」、「生徒の選択」といった言葉や、この他にも、例えば、「生徒を中心に」とか、「自立して」とか、「積極的に」といった言葉が用いられることもありますが、これらの用語についても、エージェンシーと重なる側面があるとしても、それだけで、エージェンシーのもつ意味を十分に表しているとは言い難いだろうというのです。

また、エージェンシーを考えていくうえで、より本質的な問題として、個人と集団の関係性の捉え方についての文化的な違いがあると言います。例えば、自己調整という考え方一つとっても、アジアの文化では、社会の調和を維持していくために重要と捉えられているのに対して、西洋の文化では、主に個人の目標を達成するための活動において用いられる考え方であるといいます。一人一人の個性と比べて、集団としての調和であるとか、法令や慣習の尊重といった概念がどの程度まで重視されるかは、文化的なコンテクストにかかわる問題であり、とりわけ東洋と西洋の差異が明確なところでもあろうと白井氏は言います。結局のところ、どのような社会、文化においても、あるいはどのような文脈であろうとも、常に妥当するようなエージェンシーの統一的な概念というものは存在しないのであり、あくまでも、文化的、社会的なコンテクストを前提にした概念であると考えるべきであるというのです。

コンセプト、ノートにおいては、そうした文化的・社会的なコンテクストの違いを認め、「統一的に適用可能な『エージェンシー』の定義を作ることは不可能だとしても、その概念自体はどのような文脈でも関連性がある」としているのです。

生徒のエージェンシーは、自分一人だけで育まれるものでなく、親や仲間、教師やコミュニティなど、周囲との関係性の中で育まれていきます。生徒が、自分で目標を設定してその実現に向けて取り組んだり、あるいは、そのために自らの行動を律していくことができるのは、周囲との関係性があるがゆえとも言えます。特に集団や社会のレベルのエージェンシーを発揮していくために目指すべき方向性を共有しながら、一人一人が社会的な責任を果たしていくことが重要になってくるのです。とりわけ、現代的な課題の多くは複雑に絡み合っており、様々な人々がかかわっています。そうした課題を解決していくためには、異なる世界観や考え方をもっている多様な人々を結びつけたり、そうした人々と力を合わせることなどが必要になってきます。すなわち、共同エージェンシーを発揮して、他者の発想を活用したり、視点を共有したり、議論していくことが、より一層求められているのです。

生徒たちのエージェンシー

③の創造性に関するエージェンシーは、新しいものを生み出していくことです。これは音楽や映画などに限ったことではなく、料理や研究プロジェクト、あるいは仕事上のプレゼンテーションなど、様々な場面において試行錯誤したり、他者からのフィードバックを得たりしながら、より良いものを作り出していくことが重要になってきます。また、そうしていくためには、ただ頭の中で考えるだけでなく、実際に形にしていくことが求められるというのです。

④の経済に関するエージェンシーは、一人一人が経済的に価値のある行動をしていくということです。このことは、決して賃金が高い行動をすべきというものではないと言います。たとえ低賃金であったり、あるいはボランティアのような無償の活動であっても、それぞれの活動が経済的な価値の創出につながっていることが重要であるということだというのです。とりわけ、 AI時代においては、人間が行ってきた仕事がAIに代替されるようになり、これまでの伝統的な労働の経済的価値が失われてしまう可能性もあります。大切なことは、例えば、倫理に関することとしての、モラル・エージェンシーや、新しいものを創造することとして、創造性に関するエージェンシーなどを通じて、賃金の多寡にかかわらず、新しい価値を生み出すことができているかどうかということだというのです。

Education2030プロジェクトにおいて、特に議論が行われたのが、苦しい状況にある生徒たちのエージェンシーについてだそうです。世界全体を見渡せば、恵まれない環境にいる生徒も多数存在しています。貧困や病気、犯罪や虐侍、家庭の崩壊などの苦しい状況にありながらも、そこから脱却しようともがいている生徒がいるのも事実でしょうし、実際、自らのエージェンシーを発揮することで、そうした苦難を乗り越えてきた生徒も多数いるでしょう。しかしながら、ここで留意しなければならないのが、エージェンシーが、生徒一人一人の主体性を重視するものであるがゆえに、場合によっては、逆境に置かれている生徒についても、自らその状況を克服していくことが必要である、と解されかねないことであると言います。別の言い方をすれば、逆境を克服することも含めて、ある種の自己責任として捉えられる懸念があるということだというのです。

もちろん、エージェンシーを発揮することで、そうした苦境を克服することが期待される面があるのは事実でしょう。しかしながら、そうした状況にある生徒にとっては、そもそもエージェンシーの発揮自体が困難な状況にあることにも留意しなければならないというのです。例えば、暴力や性的・心理的な虐待を受けてきたり、あるいはネグレクトされてきた生徒は、将来に対する希望や達成感、モティベーションなどが低くなる傾向にあり、エージェンシーを発揮する基盤自体が揺らいでいるというのです。そうした場合には、自らのエージェンシーの問題として扱うことなく、「厳しい状況にいる生徒がエージェンシーを発揮できるよう、きちんと支援していくこと」か教育の役割であろうと白井氏は言うのです。とりわけ、「基礎的なリテラシーやニューメラシー、社会・情動的スキルなどの発達の基盤は、エージェンシーの基盤であり、エージェンシーを発揮していくためには、これらをしっかりと身につけさせることが前提である」とされているのです。

エージェンシーの側面

はじめに、エージェンシーの第一の側面が、コンピテンシーとしてのエージェンシーということです。この場合、エージェンシーを獲得すること自体が目標となり得ることになります。幼少期の子どもたちは、周囲の人々の考えを理解して、成長する過程で自己を発達させていきます。学齢段階に入ると、自分自身の目的意識を見つけ出すことが求められるようになりますが、同時に、目標を設定して、それを達成する行動をとれば、目的を実現できるということが理解できるようになります。こうした場合には、目標としてのエージェンシーが獲得されていると言えます。

一方、エージェンシーのもうーつの側面が、獲得したエージェンシーを活用していくことです。エージェンシーを発揮して、より高いモティベーションをもって、自らの学習をより良いものにしていくということであり、この場合のエージェンシーは、学習のサイクルを改善するプロセスとして位置づけられることになります。生徒が、学習においてエージェンシーを発揮している場合には、学習の当事者として、例えば、学習内容や学習方法について、積極的にかかわっているということです。そうした場合には、モティベーションを発揮して、適切な学習目標を定め、学習を進めていくことができるだろうというのです。

エージェンシーを育むことは、家族や仲間、教師との時間をかけた相互のやりとりを含む相関的なプロセスであり、一生涯を通じて継続し、また発達していくものであると白井氏は言うのです。

エージェンシーは、およそあらゆる文脈において発揮されるものであると考えられますが、リードビーターは、人生においてエージェンシーが発揮される主な文脈として、①モラルについてのエージェンシー、②市民としてのエージェンシー、③創造性に関するエージェンシー、④経済に関するエージェンシーといった4つを挙げています。

はじめに、①のモラルについてのエージェンシーとは、「自分は何をすべきなのか」を考えたり、「自分がしたことは正しかったのか」といったことを問い直していくことであるとしています。場合によっては、自らの利益に反してでも、義務や約束を果たしていくことでもありますが、その判断の基準は、当然社会や文化によっても異なってくると言います。

②の市民としてのエージェンシーは、単に市民として、自分たちの権利や責任について理解しているということだけではなく、それを前提にして社会の構成員の一人としてどのように社会を担っていくかということです。近年では、それぞれの地域や国といった枠組みだけでなく、よりグローパルな視点での市民としての在り方も重視されるようになっていますが、様々な考え方や価値観がある中で、対立やジレンマに対処したりしながら、社会を形作っていくことが求められると言います。その観点からは、学校の役割の重要性が改めて認識されるのです。すなわち、学校に行くことで、生徒は教師や仲間と出会い、家族以外の人間とどのように関係を構築していくのかを学ぶことになりますが、これは市民としてのエージェンシーを獲得するための基盤になるのです。

高め合う

最近の小学生のかばんは、随分と重くなりましたね。まず、私たちのころと違って、教科書が大判なっています。また、最近は、タブレットも家に持って帰ることが多いので、重いようです。それなのに、日本では、原則として教科書など持ち物は、毎日自宅に持ち帰るように求める慣行が普及しています。この慣行は、一般に「置き勉(禁止)」と呼ばれていますが、一部の保護者やメディアからは、発達途中にある子どもたちに過度な負担を課すものとして、俗に「重いランドセル問題」と呼ばれて問題視されていました。この問題に対しては、文部科学省から各教育委員会等に対して事務連絡を発出して見直しを求めるに至ったのですが、本来は、子どもたちが自ら声をあげたり、教師や保護者に相談したり、議論したりして、学校におけるルールを作り直すべきだったのではないだろうかと白井氏は言うのです。実際、教師との対話を通じて問題解決に至っている学校もあるようですが、残念ながら少数派のようです。

確かに、今も子どもたちは、教師に対して従順というか、絶対視している気がします。異を唱えたり、新しいことを提案したり、一緒に考えたりすることが少ないような気がしています。

この「重いランドセル問題」は、エージェンシーにも深く関連する問題であると言います。すなわち、ここでの一番の問題は、学校におけるルールについて、生徒がそれを自分たちには変えることができない所与のものと受け止めてしまっているか、あるいは不満はあっても、どうせ自分たちには変えられないものとして認識してしまっていることだと白石氏は考えています。本来であれば、「そのルールはおかしいのではないか」、「ルールを変えるために、どのように行動したらよいのか」といったところまで考えるべきだろうというのです。

こうしたエージェンシーの欠如は、もちろん校則など学校のルールに限ったことではないと言います。例えば、仮に教師が行う授業について何らかの改善が必要な場合、生徒が声をあげて、教師と一緒に授業改善について考えていくということは、何らおかしなことではないでしょう。むしろ、教師や授業に対する不満を適切な形で伝えられないのであれば、教師からしても、自らの力量を向上させるための絶好の機会を失ってしまうということにもなりかねないのだというのです。エージェンシーは、生徒と教師が、お互いに高め合っていくためにも重要なのです。

ところで、エージェンシーとは一体何なのか、白井氏は改めて考えています。より具体的には、エージェンシーとは、それ自体が身につけるべき特定のコンピテンシーなのでしょうか。それとも、エージェンシーを身につけることで、コンピテンシーが身につくという基盤となるものなのでしょうか。

この点について、 Education2030では、エージェンシーには「目標」の側面と「プロセス」の側面の両方があるとしています。別の言い方をすれば、エージェンシーというコンピテンシーの育成という側面と、コンピテンシーを育成するプロセスとしてのエージェンシーの育成という2つの側面があるとされています。

それぞれの側面について考えていきます。

関係性の中で

エージェンシーを考える際に手掛かりになるのが、エージェンシーが他者や社会との関係性の中で育まれるということだと言います。したがって、社会の状況から全く離れて、単に生徒が自分で考え、行動することを肯定するというものではないのです。別の言い方をすれば、エージェンシーとは、単に個々人がやりたいことをやることではなく、むしろ、他者との相互のかかわり合いの中で、意思決定や行動を決めるものであるのです。それも、家庭や地域の状況などミクロなことだけでなく、国の経済や文化などマクロなことまで含めて、様々な影響を受ける中で発揮されることになります。そうした他者や社会との関係性があるからこそ、自分だけの考えに陥らないようにしたり、自らの行動を社会的な規範に照らして律するなど、「責任」ある行動につながってくるのだと言うのです。

また、エージェンシーが、一人一人が成長する社会的・文化的な文脈において、親や仲間、地域の人々などとの関係性を通して育まれるものであるということは、エージェンシーが、生まれながらにして変えられない性格や性質といったものではなく、学習することができるものであるし、変えることができるものであることにも留意してほしいと言います。

ここで、白井氏は、「重いランドセル問題」から見えてくるエージェンシーの課題について考えています。

授業の在り方であったり、厳しい校則であったり、あるいは部活動の在り方であったり、程度の差こそあれ、子どもたちは様々な不満を抱えながら学校生活を送っているでしょう。ところが、そうした不満があっても、それを解決するために行動に移そうとすることは少ないようだと白井氏は言います。その例として「重いランドセル問題」を取り上げているのです。

多くの学校において、教科書や荷物が非常に重いにもかかわらず、自宅における学習習慣の形成であったり、学校に教科書を置くことによる盗難リスクなど、様々な理由によって、それらを原則として毎日自宅に持ち帰るように求める慣行が普及しています。この慣行について、私はある思い出があります。

中学校に入学して、小学校と違って、自分用のロッカーが与えられました。それがある意味大人になった気分でうれしくて、毎日、教科書などすべてをロッカーにしまって帰っていたのでした。しばらくして、先生から、きちんと家に教科書を持って帰って、予習、復習するものだと注意されてしまいました。今度は、中学生になって初めて中間試験がありました。小学生の時は、テストは、まとまってあるわけでなく、日々の中で行われているのですが、中学生は、中間テストは三日間テストだけで、その間は授業はありません。テスト教科は9科目でしたから1日3科目ずつです。その間は授業がないので、当然テスト期間中は、筆箱と下敷きだけもって学校に行きました。そして、テストとテストの間の休み時間は、屋上に行って(校庭だと注意されるので)、精いっぱい遊んでいて、何度か試験に遅れたことがありました。しばらくして、試験中は、次のテスト科目について勉強するものだと知って、驚いたことを思い出しました。多分、音楽のテストの時だったと思いますが、遊び惚けて、だいぶ過ぎて急いで教室に汗びっしょりで戻ったところ、先生から、「そんなに汗びっしょりだとテストが受けられないから、顔を洗ってきなさい!」と注意されました。随分と、おおらかな時代だったのですね。

日本の教育

教育の世界だけではありませんが、日本でエージェンシーという言葉を聞くことは少ないだろうと白井氏は言います。そこで、彼は、日本の学校教育におけるエージェンシーについてどのように位置づけられているかを説明しています。

日本で、あまり教育界ではなじみがないために、エージェンシーという言が出されると、何か従来の日本には存在していなかった新しい価値が含まれているように感じるかも知れないと言います。しかしながら、エージェンシーは日本の教育に、本来含まれていたものと考えられると言うのです。

例えば、教育基本法第2条の第3号には次のように規定されています。

「第2条 三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。」とあります。ここで白井氏が注目しているのが、特に後段の表現です。「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し」と書かれていますが、これはエージェンシーの理念に重なるものだと言うのです。すなわち、エージェンシーは、主体的に社会の形成に参画していくことを意味しますが、それは単に自分が希望するからということでなく、それぞれが属する社会における自らの役割や責任を認識したうえで、一人一人が主体的に行動していくことが含意されているからだと言うのです。

教育基本法にも明記されているように、エージェンシーは決して日本におけるー新しい概念ではないはずなのです。しかしながら、その理念が、日本において十分理解されてきたとも言い切れないだろうと考えているのです。Education2030プロジェクトにおいて、エージェンシーという概念が注目されていることをきっかけに、日本の教育を改めて見つめ直してみることも大切だろうと白井氏は提案しています。

エージェンシーに近い概念として、日本でしばしば使われるのが、「主体性」や「主体的」といった言葉です。実際、こうした表現は、学習指導要領の2017年・2018年改訂における「主体的・対話的で深い学び」や、中央教育審議会の答申や報告書などで用いられている「主体的に学習に取り組む態度」「主体性を持って多様な人と協働して学ぶ態度」など、政府が策定する文書にしばしば登場します。また、「主体性」や「主体的」といった言葉は「主体的に学ぶ子」、「主体的に行動する力」などの形で、学校が定める学校教育目標などにおいても頻繁に用いられています。

しかしながら、実は「主体的」や「主体性」の捉え方は曖昧であることも多いと白井氏は指摘します。実際、教師の指示に誤りなく従ったり、宿題を忘れずに提出するといった行動が、「主体的」と考えられている場合もあったりするのです。ただ、「主体的」や「主体性」が本来目指すところが、単に教師の指示どおりに行動することではないとしても、反対に、生徒による自発的な行動であれば何でも良いというものでもないと言うのです。エージェンシーに似た言葉として、例えば、生徒の自律性、生徒の声・意見、生徒による選択などの言葉が用いられる場合もあると言うのです。これらの用語は、一歩間違えれば、生徒が自分自身で考えたり、自分自身で行動してさえいれば良い、という考えにもつながりかねませんが、それはエージェンシーの目指すところではないのです。

共同エージェンシー

リードビーターが提案したエージェンシーの概念に対してうけた批判の中で、特に個人のレベルからはじまって、集団、社会となるにつれてより高度な力が必要だというように、必ずしも直線的に発展するものではないという点については、厳しい批判を受けることとなったのです。

その後、イングリッド・ショーンをはじめとして、エージェンシーについて、研究者による分析や専門家グループでの討議が行われました。その過程においては、エージェンシーは必ずしも一人だけで発揮されるものではなく、共同で発揮されるものでもあるとして、「共同エージェンシー」の概念が提唱されるなど、理論的な整理が行われました。第四回IWGからおよそ1年後となる、第六回IWG(2917年11月、パリ開催)までの段階で、共同エージェンシーを含め、 2019年に公表されたコンセプト・ノートに示されている、エージェンシーに関する考え方の原型は、ほぼ整理されています。

ところで、心理学な専門的な領域を除いては、エージェンシーはあまり聞きなれない用語だと思われますが、そもそもどのような意味の言葉なのでしょうか?エージェンシーは、もともとラテン語の”agree”(行う)に由来する言葉であり、「行動」や「行動する人」との意味があります。ここで重要なのが、Education2030プロジェクトにおいて定義されたエージェンシーは、単に行動さえすれば、その結果は問われないというものではありません。すなわち、エージェンシーには、生徒一人一人が社会の一員として、社会がより良くなるように考え、行動していくという責任があることが含意されているのです。

これを教育の文脈で考えてみると、一人一人の生徒が、授業や学校生活の参加者として、主体的に直任をもって行動していくことが求められるということになります。もちろん、例えば中学生であれば、直ちに国際社会や国全体のレベルにおいて、自らの伐割を考え、行動していくことは難しいかもしれません。しかしながら、中学生には中学生が属する社会として、家庭はもちろん、在籍する学校におけるホームルーム、学年、生徒会、部活動、地域のコミュニティなどがあります。学級連営の在り方に問題があるのであれば、その在り方を変えていくために自らの役割を認識して行動していくことが求められますし、家庭での生活や地域コミュニティに何らかの課題があるのであれば、それぞれの場において、自分ができること、すべきことを考え、行動していくということなのです。

なお、しばしば誤解されがちだそうですが、生徒がエージェンシーを発揮することは、教師の専門性や教師による指導を否定するものではないことには注意する必要があると言います。もちろん、エージェンシーには、教師が一方的に生徒を指導したり、評価したりするといった古典的な教育観に対する挑戦という側面はあるかもしれません。しかしながら、生徒がエージェンシーを発押すればするほど、教師には、それを受け止めるだけの一層高い専門性が要求されるのであり、そうした力を備えた教師に対する需要がますます高まってくると考えられるのです。

一方的な指導から

ここで白井氏は、これまでコンピテンシーの議論において、あまり取り上げられることのなかったエージェンシーという概念が、ラーニング・コンパスにおいて中核的な概念として取り入れられるに至った議論の経過について、振り返っています。

Education2030プロジェクトの枠組みの中で、エージェンシーに関する提案を最初に行ったのは、イギリスの文筆家であり、教育実践家であるチャールズ・リードビーターです。Education2030プロジェクトの第四回IWG ( 2015年11月、北京開催)においてリードビーターは、現在の教育システムが、教師による一方向的な授業が中心であり、真の学びにつながっていないという危機意識を前提にして、「ダイナミック・ラーニング」の基本となる4つの要素として、①知識、②自己に関するスキル、③社会的スキル、④エージェンシー、を提案しました。また、続く第五回IWG( 16年5月、リスボン開催)において、リードビーターはエージェンシーに関するレポートを提出していますが、そこでは彼自身の問題意識を端的に表すものとして、次のような記述が見られます。「過去20年で、途上国を中心により多くの生徒が学校に通うことになったのは、教育における大きな成果である。しかし、生徒が学校で学んでいることのうち、彼らがその後の人生で直面する課題に取り組むために役立つことは、極めて少ない。学校にいるとしても、ほとんど何も学んでいないのである。たとえ、優れた成果を出している国(あるいは教育制度)の生徒で、テストで良い点をとっている場合でも、実社会における変化や不確実性に対しては、十分には適応できていないだろう。より変化が激しく、先の見通せない世界では、イノベーションや起業がより大きな影響をもつ。そのような世界で、新しい技術に適応し、それらを最大限に活用していくためには、子どもたちは単に決まったルーティンを行うだけでなく、世の中で自分なりの道を切り拓いていく力をつける必要がある。チャンスを見つけることや自らの目標を持つこと、リスクをとったり時間や労力を使うこと、複雑な問題を解決したり共通の目的を達成するために、他者と協働できるようになる必要がある。」

このことは、私がよくその言葉を例に挙げますが、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが警告した「2050年の世界や仕事がどうなっているかは誰にもわからない。はっきりしているのは、子どもたちが今、学校で学んでいることの多くは、彼らが40歳になる頃には 無意味なものになっている可能性が高いということである。」と全く同じことですね。

こうした提案に対して、基本的には賛同が示されましたが、一方で、リードビーター自身が実践家であったこともあり、彼の提案した、エージェンシーの概念に対しては批判も寄せられたそうです。すなわち、リードビーターの主張は、教師による一方的な指導だけでは、社会に出ていくうえで必要な多くのものが得られない、そのためには、自ら行動する中で学ぶことが大事だとするものであり、その内容は、概ね経験主義の立場からの系統主義批判に重なるものだったのです。また、リードビーターの提唱するエージェンシーのモデルも、個人レベルから、地域レベル、社会レベルへと徐々に広い世界に拡大していくという直線的なイメージのものでした。しかしながら、例えば、地域レベルのエージェンシーから個人レベルにつながったり、あるいは社会レベルのエージェンシーから地域レベルのエージェンシーにつながるケースも考えられるなど、エージェンシーは個人や地域、社会との相互の往還関係の中で育っていくものではないかとの批判が示されることとなったのです。

自分で

エージェンシーは多様な能力の集合であり、例えば、「結果を予測すること(目標を設定すること)」、「自らの目標達成に向けて計画すること」、「自分が使える能力や機会を評価・振り返ること、自分をモニタリングすること」「逆境を克服すること」などが含まれると言います。

エージェンシーが、なぜラーニング・コンパスの中核的な概念として位置づけられているかと言えば、よりVUCAとなる未来において、「私たちが実現したい未来」を実際に実現していくために、エージェンシーが必要になるからだと言います。すなわち、「私たちが実現したい未来」を実現していくためには、生徒が、教師から指示されたことをこなすだけであったり、あるいは、労働者が企業から求められるスキルを身につけていくだけでは足りません。コンピテンシーに関する議論を含めて、従来の教育の在り方に関する議論が、ややもすれば、「(企業などからの)人材ニーズに応えていくためにどうしたらよいのか」、という観点から議論されがちであったのに対して、より本質的に重要なのは、自分たちが実現したい未来を、そもそも自分で考えて、目標を設定し、そのために必要な変化を実現するために行動に移していくことだというのです。コンセプト・ノートにおいても、エージェンシーとは、「誰かの行動の結果を受け止めることよりも、自分で行動することである。形作られるのを待つよりも、自分で形作ることである。誰かが決めたり選んだことを受け入れることよりも、自分で決定したり、選択することであると説明されています。

また、エージェンシーの概念においては「責任」の意識が重視されています。すなわち、生徒が、自ら目標を設定して、それを実現することは大切ですが、そのことは、単に自分たちの欲求を実現することではありません。生徒が、その属する社会に対して責任を負うこと、また、そのことを自覚していることが、エージェンシー概念の基盤にあるのです。そのためには、自らの目的や行動が、社会に対してどのように受け止められるのかを考えたり、振り返ったりすることが必要になります。すなわち、「目的意識をもち、自らを振り返ることができる責任あるエージェントにならなければならない」のです。

ここで、こんな調査結果を紹介しています。それは、「各国の若者の意識とエージェンシー」についてです。「私たちが実現したい未来」を実現していくためには、エージェンシーは不可欠です。しかしながら、日本財団がアジア、アメリカ、ヨーロッパの9か国で行った「18歳意識調査」からは、日本の若者がどのように考えているかが垣間見えると白井氏は言います。例えば、「自分で国や社会を変えられると思う」という質問に対しては、「はい」と答えた者の割合は、日本では18.3 %にとどまっており、4~8割程度の諸外国と比べて低いようです。また、「自分は責任がある社会の一員だと思う」という質問に対しても、「はい」と答えた者の割合は44、8 %であり、8~9割程度の諸外国と比べ、やはり低いようです。もちろん、これは一つの調査結果ですが、日本の教育におけるエージェンシーの弱さが、データからも示唆されているように見えると言います。ほかにも、「将来の夢を持っている」と答えたのが他国では9割以上いるのに対して、日本は60.1%しかいません。「自分を大人だと思う」は、他国では8割前後いる中で、日本は29.1%です。