観点別評価

中央教育審議会において行われた現役の高校生や大学生からのヒアリングでも、「私の通っていた高校では授業中に寝たらマイナス1点、発言したらプラス1点といったように、学力とは直接関係のないことをポイント化して評価をつけているという現状が実際にありました。これだと、能力がある子ではなくて、真面目に授業を聞く子、それから、積極的に発言すること言うのが評価されてしまいますので、それらを意欲として評価し、それによって評定値を上下させるというのは、評価の正当性に欠けていると思います。関心・意欲・態度という観点でポイントをつけたとしても、それは科目に対する意欲ではなくて、授業に目地目に取り組むという意欲なので、本来評価するべき点とすり替わってしまっていると、私は思っていました。」といった意見が出されていたそうです。

もちろん、例えば「CCA」といった評価をしている教師には、「勉強が苦手な生徒でも、頑張っている状況を何とか評価してあげたい」、という切実な願いが込められている場合があることは、心情的にはよく理解できると白井氏は言います。しかし、コンピテンシーの統合的性格を前提に理解すれば、「知識」や「思考力」から切り離して、「態度」のみを独立して捉えることはそもそも不適切であるし、逆にそうすることによって、授業中の挙手などの表面的・形式的な態度の獲得も、数学や国語といった教科の「学力」の重要な要素であるという誤ったメッセージにもなりかねないと言うのです。授業中の挙手の回数や宿題の提出などについては、むしろ普段からの声掛けや面談、通知表の総合所見などにおいて評価すべきことであり、観点別評価は、あくまでも各教科を通して身につけるべき資質・能力を評価するために行うものであるというのです。そのためにはそれぞれの資質能力の3つの住を統合的に捉える視点は欠かせないのだと言うのです。

コンピテンシーに関するもうひとつのアプローチが、場面や文脈に即して考えていくということです。DeSeCoの最終報告においても、「ある状況の中で求められていることに呼応した行動を重視する能力」として捉えられています。例えば、現代社会においては、AIに関するリテラシーは必須な能力の一つとして認識されるようになっていますが、ロビンソン・クルーソーのように無人島で生活していく場面においては、AIに関するリテラシーの必要性はほとんどないだろうと言います。あるいは、一般に、日本社会では「空気を読む」とか「相手に合わせる」ことが重視されます。一方アメリカでは「自らの意見を明確に伝える」ことが重視される傾向にあると言われています。すなわち、文化や社会の違いによって、求められるコンピテンシーもまた変わってくると言うのです。

結局のところ、コンピテンシーとしては多種多様なものが想定されるとしても、それが重要なもの、あるいは「キー・コンピテンシー」となるものかどうかは、それぞれの文脈において求められるのかどうかによるのだと言うのです。別の言い方をすれば、コンピテンシーとは、ある文脈では非常に重要なものであっても、別の文脈では重要なものとはされない、ということも起こり得る相対的な概念であるとも言えると白井氏は言うのです。

それゆえ.コンピテンシーの中からキーとなるものを抽出するというDeSeCoプロジェクトの作業においては、一定の基準が必要とされたのです。

観点別評価” への5件のコメント

  1. アメリカでの重要点として「自らの意見を明確に伝える」ことが挙げられていたように、「文化や社会の違いによって、求められるコンピテンシーもまた変わってくる」という考えはなんとも難しい視点だなというのが正直なところです。ここでの評価は、きっとPISAの学力調査では見えてこない点ですね。これまでの日本が求めるコンピテンシーは「奥ゆかしさ」「謙虚さ」「きめ細やかさ」「真面目さ」とかでしょうか。しかし、社会の変革とともに「個」の主張を寛容的に見る傾向になっていると感じます。コンピテンシーは、国民性と関連しているのかもしれないとも感じました。そのような中、「キー・コンピテンシー」という核となる部分のコンピテンシーが存在するのですね。それらを育もうとする「DeSeCoプロジェクト」は非常に気になります。

  2. 評価するというのは非常に難しいなと考えさせられます。自己評価、他者評価、査定される職員。私は保育園という組織において安易な評価で職員を見てはいけないのではないかと感じるようになりました。学びのためという、ある意味ではやる気の搾取によって疲弊している保育士さんたちがいるのも事実ではないでしょうか。学んでいると思われる人が評価されるような雰囲気。それぞれにそれぞれの得意不得意があり、それでもその人なにり園の大切な役割を担っているということに気がつかずある一定の評価基準だけで職員を見てしまうということにもなってしまうということからも評価することの難しさを感じます。私は藤森先生のそばで先生の職員への関わり方の絶妙さ、バランスの素晴らしさを感じています。それぞれの職員が尊重されているからこそ、貢献しようと思えていくのではないでしょうか。話がかなり逸れてしまいました。

  3. ある評価機関に属し、年に1,2回、保育園を評価することがあります。現在、専門学校で教鞭をとっています。およそ60名弱の生徒さんを前期後期にわたって評価しなければなりません。評価はとても難しい、というのが実感です。計画があります。その計画は誰が誰のために策定したのか。そして、その計画は「評価」という振り返りをもって、その妥当性が確認されます。コンピテンシー、という概念で示される能力を客観的にどう評価するか。そもそも評価できるのか。評価は極めて相対的です。計画も評価も実に相対的。園の子どもたちを観ていると、この子たちにとっての計画とは一体何だろう、そしてその評価は?と考えさせられます。計画も評価も当の本人の問題だろうと思うのです。国家だって自分で計画をたて評価している。そのことに起因する問題に国民の一人として切り込んでも焼け石に水、どころではなく、計画と評価というシステムの前に己の無力さを感じるのです。

  4. コンピテンシーというのは共通のものではなく、〝文化や社会の違いによって、求められるコンピテンシーもまた変わってくる〟ということで、とても難しいものだということを感じます。ということは、その地域のみならず、例えば職場、家、友だち間でも変わってくるのでしょう。それぞれに求められるコンピテンシーがある。自分の職場に必要なコンピテンシーは?それが理解できるまでは誰かを評価することはやめた方がいいですね。

  5. いったい、何をもって評価をすればいいのかというのは難しい問題ですね。たとえば、保育の中で子どもたちを「評価」するとすればどうなのでしょうか。保育においては学校での評価と違いテストがあるわけでもないですし、学校以上に評価するというのは難しいでしょう。また、社会に出ると、業績や成績によって評価がおきます。しかし、保育のように必ずしも点数化できない職種においての評価というのは「人望」であったり、「人当たり」「やる気」「熱意」であるものが評価というものになるようにも思います。こういったものを評価することは非常に困難で、人によっても考え方や感じ方も違うというのはなかなかに難しいものです。『「知識」や「思考」から切り離して、「態度」のみを独立して捉えることはそもそも不適切である』という文脈から見ても、それらを総合的な初見で見る必要がありそうです。そう考えると、そもそもその「教育における評価」とは何のためにあるのだろうか、誰かの認定がいるのだろうかと考えてしまいます。

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