学習評価

白石氏は、日本における学習指導要領についてコンピテンシーの視点から考察しています。

2017年には、小学校、中学校、2018年には、高等学校、特別支援学校の学習指導要領が改訂されました。その中心は、資質・能力の育成を重視するものとされています。文部科学省が示している学習指厚要領解説においても、資質・能力の3つの柱である「知識及び技能」「思考力、判断力、表現力等」「学びに向かう力、人間性等」が、バランス良く育成されなければならないとされていますが、その内容は、コンピテンシーの統合的性格についての正しい理解に基づくものだと白石氏は言います。

このことは同時に、指導や評価に際しても、資質・能力の3つの柱を統合的に捉える視点をもつことが必要であるということが含まれていると言います。様々な課題は複合的な要素をもっており、例えば、「知識及び技能」と「思考力、判断力、表現力等」を全く別のものとして切り離して考えたり、あるいは「学びに向かう力、人間性等」を「知識及び技能」や「思考力、判断力、表現力等」から切り離して捉えることは適当でないとしていますが、そのことは、まさに、コンピテンシーの本質である統合性を表していると言えるのではないかというのです。資質・能力の3つの柱それぞれを意識することは重要であるとしても、本来のコンピテンシーの考え方からすれば、3つの柱を別個独立のものとして捉えることは厳に避けなければならないというのです。

これに関連した論点の一つが、学習評価において「態度」の面をとのように評価するかということだと言います。中央教育審議会においては、2017年から2019年にかけて、新しい学習指導要領の下での学習評価についての議論か行われてきたそうです。従来の観点別評価は、A(十分満足できる)、B(おおむね満足できる)、C(努力を要する)という形で、「関心・意欲・態度」「思考・判断・表現」「技能」「知識・理解」といった各観点ごとにA~Cで評価をすることとされていましたが、従来から、観点ごとに評価が大きく異なるケースがあることが指摘されていました。例えば、2019年に出された同審議会教育課程部会の学習評価に関する報告書では、「仮に、単元末や学期末、学年末の結果として算出された評価の結果が『知識・技能』、『思考・判断・表現』、『主体的に学習に取り組む態度』の各観点について、『CCA』や『AAC』といったばらつきのあるものとなった場合には、児童生徒の実態や教師の授業の在り方などそのばらつきの原因を検討し、必要に応じて、児童生徒への支援を行い、児童生徒の学習や教師の指導の改善を図るなど速やかな対応が求められる」とされているのです。

このような記述の背景にあるのが、特に、これまで行われてきた「関心・意欲・態度」に関する評価の問題だというのです。すなわち、「関心・意欲・態度」が「知識・理解」や「思考・判断・表現」とは別個独立のものとして提えられた結果、例えば授業中の挙手の回数や宿題の提出の有無など、本来各教科で評価の対象とされるべき「関心・意欲・態度」と切り離された、表面的・形式的な「関心・意欲・態度」のみで学習状況を評価する状況も生じていると言います。

学習評価” への6件のコメント

  1. いかなる評価にせよ、基準、が求められます。何を基準にして評価していくのか。この「基準」は、言うは易く行うは難し、にそのまま関連していきます。「知識及び技能」「思考力・判断力・表現力」「学びに向かう人間性等」を評価するに際して、「例えば授業中の挙手の回数や宿題の提出の有無など」で評価されると、何だか虚しいものを感じますね。それでも、何か明確な評価基準を設けなければ、評価に関して疑問を呈された時、返答に窮することになります。これはとても切実な問題です。昨年から専門学校で教鞭をとる機会を得ました。学期が終るごとに生徒さんたちを評価しなければなりません。そして、その基準は、出席やレポート提出、です。出席しているだけでタメになる授業を。そして、レポートには生徒さん自身が何を学んだか、そして何を学び得なかったがわかります。伝える側の私自身の振り返りともなります。それにしても、成績などつけなくてもいいような、授業があればいいと私は思います。どうしても評価しなければならないことの辛さ。計画と評価は一体誰のため、と疑問が沸き起こります。

  2. コンピテンシーは、統合的で総合的な行動・性格特性であるということを学んできました。資質・能力の3つの柱の中で、コンピテンシーはどの部分に当たるのかということではなく、「3つの柱を別個独立のものとして捉えることは厳に避けなければならない」という言葉があったように、それら3つの資質能力を総じているという考え方を持たなくてはならないことを感じます。そして、評価についてですが、園にいる子どもたちを評価しなければならない状況になったらどうのように評価しようかと考えてしまいました。心情・意欲・態度という行動特性を観察して、1人ではなく複数の先生たちがマークシートに記述し、その平均点が評価というものになるのでしょうか。難しいですね。それよりも、私たちの行動に評価(振り返り)をする方がやはりしっくりきますね。子どもたちを評価する側のコンピテンシーが分からないのに、子どもたちのコンピテンシーはきっとわからないだろうなと感じました。

  3. 『表面的・形式的な「関心・意欲・態度」のみで学習状況を評価する状況も生じていると言います』とありました。評価をする上でこういったことはよくあることなのかもしれません。そういう意味では評価されやすい行動を多くしていればいいという本来の目的から離れた行動につながってしまいますが、それでまた評価されるのですからどんどんと目的がズレていくのは仕方のないことかもしれません。そうであると、評価する方は形式的なものではなく、数値的なものではない評価を意識するということが大切なのでしょうか。これもまた難しく、個人の主観という問題もあるかもしれませんが、評価する側が本来の学びというものを理解していれば補えることかもしれませんね。そう考えると評価する側の見方、態度によって評価される側の行動は非常に変わるように思います。しかし、そもそも評価されるというものなんだかですね。そんなことを言ってしまうともともこうもないのですが。

  4. 誰かが誰かを評価するというものの難しさを保育の学びの中から感じています。そもそも誰かを評価するということは何か「基準」が必要になります。それが個々で違ってはいけませんが、統一するというのも面白味がないというか、個性的で無くなるというか…。「基準」があるということは、評価される誰かはその「基準」に向けて努力するようになり、本来の目的とはズレが生じてしまうようになるのではないかとも考えられます。日々の中での振り返り、そして、自己評価というのが〝本来のコンピテンシーの考え方からすれば、3つの柱を別個独立のものとして捉えることは厳に避けなければならない〟という部分を自然と達成するものであるように感じました。

  5. 評価というものはなかなかに難しいことですね。特にコンピテンシーや非認知能力といった目に見えない力はなおのこと、評価するには何を見るのか、数値化することの難しさがどうしても出てきます。また、抽象的なものを測るため、人による印象なども関わってくるように思いますし、それでは評価者によってその基準というものが必要になってきます。結果、「挙手の回数であったり、宿題の提出の有無」といった目に見えるものが評価基準になってしまうというのは本末転倒ですね。そうなってくると、他者評価だけではなく、自己評価というものも視野に入れていく必要があるのかもしれないですね。自己と他者との見方を比べることも、一つの評価として、様々な角度からの見え方が出てきます。また、複数の人で評価を見るということも一つかもしれません。しかし、それだけではなく、評価がすべてではない社会が出来たらいいのにと思うこともありますが、それはそれでどうやっても難しいことはわかっているので、様々な人の特性が見えるだけでも社会にとっては有用なもののように思います。

  6. 教育が面白ければ皆自然わくわくすることでしょう。教育が面白ければ、評価に相当する部分の大体をクリアすることができるように思えてくるのですが、的外れでしょうか。教育に意欲のある時代ではない、のではなく、現行教育より楽しいものを知っている子どもたちへ向けた教育を提供するのだからこそ、面白さ、というのは重要事項になると思えてきます。

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