余暇スポーツ

ドイツでは、戦後になってスポーツ団体による健康増進、余暇スポーツの取り組みが盛んになりますが、それに伴い、各自治体でスポーツクラブも増えていき、当然クラブ加入者も増加していきます。1970年にはスポーツクラブ加入者数が1010万人だったところが、1989年になると2090万人と2倍以上に増え、2000年には2680万人になっています。なお、1990年を見ると、全人口に対するクラブ加人者数の比率が一旦下がっていますが、これは旧東西ドイツの統一によるものです。ともあれ、戦後のドイツでスポーツが盛んになってくるのは「余暇」という時間環境との関連性が透けて見えると言います。日本でも働き方に関する議論はありますが、余暇時間が増えるとスポーツ人口の増加につながる可能性が高いと高松氏は考えています。また人々の健康の底上げや、スポーツを通じたボランティアなどの増加といった社会インバクトも考えられると言います。

余暇や健康のための、誰にでもできる「第二の道」の発想を表すものに、「万人のためのスポーツ」という言い方があるそうです。スポーツに対して、そういう考え方を付されていったのは、ドイツの場合、体操(トゥルネン)をともにする仲間という考え方を提示したフリードリッヒ・ヤーンの存在がその出発点ではないかというのです。

しかし実は詳しく見ると、もう少し事情が複雑なようです。19世紀終わりにイギリスから「スポーツ」がドイツに入ってきます。スポーツはイギリスで発展を遂げたものです。「遊び」といった要素はあるものの、一方で「競争」という要素もありました。それに対して、ヤーンの体操は全身運動を促すもので競争の要素はありませんでした。勝ち負けという価値にヤーン自身も否定的だったのです。この点で、19世紀末からドイツで「トゥルネン」と「スポーツ」が拮抗する時代もあったというのです。誰にでもできる「万人のための体操」が「余暇スポーツ」の基本的な考え方に繋がっていったのは、ドイツにおいてはヤーンが嚆矢といえるのではないかと高松氏は言うのです。

では、「余暇」に対するドイツの考え方はどうなのでしょう。まず、「休暇」そのものは、軍隊からしばらく離れる許可のことを指していたそうですが、今日の仕事に対する「休暇」の登場は1873年に見られます。公務員に有給休暇制度が導入され、上級の職員は年6週間の休暇を得ました。1918年には労働組合の活動が奏功し、多くの労働者が休暇を取得するようになりました。もっとも当初は年1週間未満でしたが。

ともあれ、今日の連邦休暇法は労働者の権利獲得の賜物ですが、それは19世紀からはじまっていたわけです。しかし問題は休暇の使い方だと高松氏は言います。当初からレクリエーションや娯楽のために使われていましたが、これはモデルがあったそうです。富裕層が優雅に過ごす様子がある種の理想像としてあったというのです。これが労働者の権利の中に入ってきたと考えられると言います。

「休暇」の流れは第二次世界大戦中、妙な発展を遂げます。ナチスが1933年に、余暇のための組織「喜びを通しての力」というものを作りました。特別列車で安価な旅を実現。国民車「フォルクスワーゲン」もこの中で普及します。そのほかに、ミュージアムや劇場を利用するといったことも定着しましたが、これに並んでスポーツ施設を余暇として利用することも広がりました。

アルテ・ピナコテーク(ドイツの国立美術館)

余暇スポーツ” への4件のコメント

  1. 余暇スポーツは、健康面だけでなく精神面にも良い影響を与える印象があります。高松氏は、「余暇時間が増えるとスポーツ人口の増加につながる可能性が高い」「人々の健康の底上げや、スポーツを通じたボランティアなどの増加」が見込まれるという話がありました。多角的視点として、脳は「運動→感覚→思考」の順に発達すると以前学びました。それは、きっと必要性の優先順位であるのかもしれないと感じました。とかく、人は運動機能を刺激することによって、他分野の機能が最大限に発揮されることを意味しているのではないかと考えました。そして、藤森先生に連れて行っていただいた懐かしいアルテ・ピナコテークの写真がありました。私にとって、初めてしっかり鑑賞した西洋美術です。キリスト教の始まり、受胎告知、独特の柔らかい表現、色使い、生々しくてドロドロした人間模様などなど、そこで抱いた感情は今でも忘れません。やはり、ルーベンスの「最後の審判」でしょうか。人類が死後に審判されるというのは、日本でも「閻魔様」がいるように、名前は異なりますが、同じような思考・共通項目を持っているという、どこか親近感が湧いた印象があります。

  2. オリンピックが開幕しました。オリンピックの競技は相手と競うということになりますね。競うことで、相手に勝ちたいという思いが強くなり、モチベーションが上がり、自らの技術を最大限まで高めるということができるのかもしれません。相手に勝つためにはそのようにして高めるということが必要になってくるのかなと思うと、体操にはそのような要素はないですね。競うとなると、相手がいることが前提になるのではないでしょうか。そうなると自らの技術も自分が満足するというよりも相手より高いものでなければいけません。そうなると、どこか無理もしなくてはいけないのかもしれません。だからこそ、体を動かすことを楽しむという体操とは根本から違うなということを感じます。同じ体を動かすということでも意識が違うと別物のように思えてきます。

  3. 今回のブログの最後に掲載された「アルテピナコテーク」。懐かしいですね。ブリューゲルやレンブラント、デューラーなどの名画を堪能しました。スポーツとトゥルネン。まるでエデュケーションとビルトゥング、という関係を彷彿させられます。体操トゥルネンというドイツ語にはこのところのブログのおかげで馴染みになりました。「勝ち負けという価値にヤーン自身も否定的だったのです。」ヤーン氏のこの考え方に共感します。現在東京オリンピックが開催されています。金メダル、金メダル、と何だか頂点を目指す、そうでなくても自国のチームが勝つことだけを願ってテレビ観戦している状況です。やはり勝ち負けではなく、その競技の妙技とでもいいますか、スポーツ超人たちの芸術を堪能したいものです。とはいえ、自国の選手が負けるとやはり悔しいですね。刷り込みとはまことに怖いものです。

  4. 現在、東京オリンピックが開催されていて、テレビを通して応援しながら見ているのですが、やはり気になるのは自国の勝ち負けです。ヤーン氏の〝勝ち負けという価値にヤーン自身も否定的だった〟ということに共感できますが、自分も勝ち負けに価値を見出すような刷り込みを持っていることに気がつきます。本当は達人たちのすごい技や努力の過程を見ることに重きをおかなければならないのでしょう。1日の終わりにあるハイライトもそのようなものを見にくくしている気がしました。

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