余暇と労働

ナチスが1933年に、余暇のための組織「喜びを通しての力」というものを作ることによって、様々な施設を余暇として利用するようになりました。これらは今日のドイツの人々の「余暇の過ごし方」ともよく似ていると言います。もちろん、余暇組織「喜びを通しての力」はナチス党に労働者を取り込むのが目的でしたが、余暇が労働のための力を再創造するのだ、という発想が見て取れます。言い換えれば、余暇と仕事がかなりきっちりと切り分けた考え方があるのがわかります。ちなみにこの余暇組織は、「歓喜力行団」と訳され日本とも外交の一環として交流もありました。しかし当時も日本側には「余暇」がピンとこなかったようです。

余暇と労働を考える上でひとつ重要なのが、ドイツの時間感覚だと高松氏は言います。「欧米では仕事とプライベートを分ける」というイメージを持つ人が多いと思います。このイメージに照らし合わせてみると、時間に対する感覚が違うと感じることが多いと言います。ドイツの時間感覚は一直線で、タスクをひとつずつ片付けていく傾向が強いと言います。職場では、ほとんど休息をとらずに仕事に集中、そして「就業時間」という大きなタスクが終わると「プライベートの時間」に切り替えるかたちです。この時間感覚も仕事と余暇を切り分け、そのため「タスクとしての余暇」として何をするかという発想につながるのかもしれないと言うのです。

「余暇」に着目すると、富裕層の生活イメージにはじまり、労働運動の中で展開され、戦後は経済成長とセットに健康や楽しみといった生活の質を高めるものとして発展してきたのがうかがえると言います。余談ながら、日本語の「余暇」という字面を見ていると、「(時間が)余ってできた暇」であり、「労働時間」と拮抗しにくいです。そして積極的に使うための時間というイメージが少ないのです。そんなふうに高松氏は思えてくるというのです。

では、子どもにスポーツをやらせるにあたって親は何を期待するのでしょうか?ドイツの子どもや青少年がスポーツをする場合、スポーツクラブが主流になります。子どもがもし自分で「サッカーがしたい」といえば、親がすぐに思いつくのはもちろんスポーツクラブです。

一方、親としては子どもを育てるにあたり、様々なことを思うものです。健康、学力、社会性など幅広いようです。そんな「子育て課題」を考えたときに、「何かスポーツをやらせたい」という発想が出てきます。そんなとき、親の中には「何をやらせればよいか」ということになります。親向けの育児関係の記事などを検索すると、たくさん出てきます。それこそ、親のための雑誌、健康保険関係の組織、それに一般のメディア、スーパーマーケットが顧客向けに書く「生活のヒント」のような記事にまで扱われているそうです。

たとえば、スーパーマーケット「Real」のホームページの家族向け情報記事を高松氏は紹介しています。タイトルは「最も人気のある10の子ども向けスポーツ」というものです。ジャーナリストのダグマー・フォン・クラムさんによるもので、内容は次のようなものです。少し長いですが、この文章から、何をスポーツに期待しているか、どんなことが大切か、それをどにょうに保護者にアピールしているかよくわかります。

余暇と労働” への4件のコメント

  1. 以前、何かの特集でドイツ人の仕事の仕方が紹介されていました。詳しい内容は覚えていないのですが、ドイツでは終業時間までに仕事終わらせなければいけないというプレッシャーがあるという紹介がされていたのを覚えています。単に休みが多い、働く時間が短いということではないんだなということを感じましたが、『職場では、ほとんど休息をとらずに仕事に集中、そして「就業時間」という大きなタスクが終わると「プライベートの時間」に切り替えるかたちです』とあり、なんだか納得させられました。「子どもにスポーツをやらせるにあたって親は何を期待するのでしょうか?」とありました。これは気になるところです。では、日本ではどうでしょうか。私を含めて、どんな理由があるのだろうかと考えてしまいます。日本ではどこか健康のためというより非常に精神論的なものが優先されるようなそんな印象もありますが、どうなのでしょうかね。

  2. 意外だったのは、「余暇と仕事がかなりきっちりと切り分けた考え方」というドイツの時間感覚です。日本人から見ると、仕事なのか余暇なのかわからないくらいリラックスした接客、急ぐこともないゆったりした仕事時間な度など、余暇と仕事が混在しているような印象がありましたが、決して中身はそうではないのですね。日本人の仕事への向き合い方は、世界的に見てもレベルの高いものであるはずです。しかし、その反動として余暇に何をするのか、自分は何が好きで、余った時間で何をしたいのかを考える余白すらないのが現状なのかもしれませんね。

  3. 余暇とか休暇、と日本で言えば、まだまだ「余暇が労働のための力を再創造するのだ」という気分があるような気がします。余暇とか休暇という表現がよくないですね。暇とか休みとか、何だか、それらに積極的なイメージを抱くことは困難です。「欧米では仕事とプライベートを分ける」といいますが、関わる仕事内容が自分の考えや生き方に影響を及ぼすとなると、両者を截然と分けてしまうことは難しいです。プライベートで行うことの中にも仕事に役立つかなというものはありますから。「仕事とプライベート」を欧米のように分ける、というのはこれまた難しいですね。仕事もプライベートな活動と被ることがあります。不謹慎の誹りを免れませんが、何とも致し方がありません。私一人の人間の中で仕事は仕事、プライベートはプライべートと分けられないものがありますね。仕事も疲労を伴いますが、プライベートも疲労を伴います。その逆もありますね。仕事から活力を得たり、プライベートの活動の中に生きる喜びを見いだせたり。おそらくは、幸せな生き方なのでしょう。

  4. 余暇の考え方という観点が自分からすると盲点な気がしました。〝余暇が労働のための力を再創造するのだ〟というドイツの考え方というのがきっちりと分けるという考え方につながっているならば、内職や自宅で仕事している人たちにはなかなか切り替えは難しいのではないかと思います。場所などの環境が変わることであれば、気持ち的に切り替えがいくのではないかと思います。そのように考えていくと、子どもにしても「どこかに通う」という行為はきっちり分けるということにつながる重要なことなんだということに気づきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です