高い期待

より困難ですが少なくとも同等に重要なのは、資格に基づく認定制度から知識とスキルに基づく認定制度への移行であるとシュライヒャーは言います。つまり、教育の道筋を文書化することから、知識、スキル、性格面での資質をどこでどのように身につけたかにかかわらず、個人が実際にできることを強調する方向に向かうのです。シュライヒャーは、自分はその良い例だと言います。何年も前、彼は物理学の学位を取得し、それは彼の履歴書に資格として記録されたままです。しかし、もし今日彼が研究室に戻ると、仕事で惨めに失敗するだろうと言います。なぜなら、彼が学位を取ってから物理学は急速に進歩しており、しかも長い間スキルを使わなかったので、スキルの幾つかを失ってしまったと言います。しかし、その一方で、正式に認定されていない多くの新しいスキルを獲得したと振り返ります。

このような体験は、誰しもが少なからずしているでしょう。私も、大学では建築で造形学士の資格を取りましたが、いま建築事務所に戻ると、きっとみじめに失敗に終わるでしょう。それは、資格を取った後、継続的にその分野を学んでこなかったからです。だからといって、建築を学んだことが無駄だったとは思いません。その学びは、保育の中で「環境を通して」という内容が、より身近に感じられるからですし、空間構成を考えるうえで、動線を考える上で、その影響を感じることがあるからです。同じように、シュライヒャーの教育改革に関する考え方を知ると、そこには、情緒的ではなく、論理的に構築し、因果関係をきちんと整理しようとする姿勢から、物理学を学んだ影響をみることができるからです。このような幅広い視野から考えることは、特に教育に必要な気がしています。

シュライヒャーは、教員に対する期待は高く、日々増加していると言います。教員が知っていることや関心のあることが生徒の学習に大きな違いをもたらすため、私たちは教員に対して何を教えるか、誰に教えるか、生徒がどのように学ぶかを深く広く理解することを期待すると言っています。しかし、私たちは教員に対して職務内容に書かれた内容よりもはるかに多くを求めます。私たちは教員に情熱的で、思いやりがあり、思慮深いことを期待します。すなわち、学習を中心にして生徒の関与と責任を促すこと、様々なニーズを持ち背景や言語が異なる生徒に効果的に対応し、寛容と社会的結束を促すこと、生徒に継続的な評価とフィードバックを提供すること、そして、生徒が自尊心や帰属意識を持てるようにして協同的な学習を保証することです。また、私たちは、教員自身がチームとなり、他校や保護者と共に働き、共通目標を定め、目標を達成するために計画したり監督することを期待します。とりわけ、教員が自身の視野を広げ、時代の常識に疑間を呈するような活発な生涯学習者であると生徒から見なされなければ、生徒が生涯学習者になることはまずないと言うのです。

今日の「ネットにつながった」学習者である教員は、情報過多から盗作、詐欺やプライバシー侵害やネットいじめのようなネット上のリスクからの保護からメディアの適正利用まで、デジタル化から生じる問題にも対処しなくてはなりません。彼らは、生徒が情報に基づいて選択し、有害な行動を避けるため、インターネットサービスや電子メディアの批判的消費者となるように教育することが期待されています。

高い期待” への6件のコメント

  1. 教員の方々が背負っている責務や責任の多さに驚いています。簡単に「こうすればいいのに」なんて言葉はかけられそうもありません。「教員が知っていることや関心のあることが生徒の学習に大きな違いをもたらす」というように、保護者にとっては担任の先生の人格と教養、総合学習ベースの対話的で深い学びであるのか期待してしまいます。教員の数が減っているというデータもありますが、そのような期待がその現象に要因していることもあるのでしょうかね。子どもの数が減っていることを踏まえても、そうなっている現状は大きな問題ですね。そして、一番強く感じるのは、学んだ分野は継続的に学び続けないと廃れてしまうということ、だからといってその学びは何にも活かされないということではないということが印象的でした。無駄だったと思い込んでしまう道の先には、過去の経験や知識との関連性を見出したり、それらを結びつけて新しい価値を生み出すなどは待っていないというなのだと感じました。

  2. 時代が変化すれば教育も変えていかなければいけませんね。子どもを取り巻く環境も劇的に変わっている現代では、新しいものを知ろうとしたり、学ぼうとする姿勢がないと社会の変化を感じとれなくなり、同時に子どもを理解するということもできなくなりそうです。自らのどこか古い価値観や、かつてのイメージで子どもや他者を捉えてしまうと、適切な理解には程遠くなるかもしれません。このあたりの最近の現状を知るというところでは藤森先生は、私も知らない若手の歌手のことを知っていたりと驚かされることがあります(それだけではありませんが笑)。社会情勢、サブカルなどあらゆることに興味を持ち、知り、そして、それらの情報を関連付けで考えていくという癖は持ち続けたいなと思います。

  3. 私が生涯敬意を表する歴史学者がおります。その人は自分自身を「読書人」としました。私もそのやり方に従って「学習人」としております。学習人は、知りたいという知的欲求をその根底に持ちます。何でも知りたいのです。知らなかったことを知り得た時の喜び。これは何物にもまさるご褒美です。その「知りたい」「知りたい」欲こそが私の興味関心の源泉であり、私のこれまではその興味関心によって形成されてきたと私自身考えています。私は、大学の学部で西洋哲学、キリスト教学の表面を学びました。大学院にいって、仏教哲学やインド哲学、チベット仏教教学に触れ、文学修士号を頂戴しました。現在、私は保育所型認定こども園に副園長として奉職しております。そうした立場はともかくとして、私の知りたい病、興味関心好奇心癖(へき)は、藤森先生の後押しにより、自分がお世話になっている世界に相当のめり込む形をとっています。資格の問題ではありません(申し訳ございません)。縁あって今があり、縁あって次がある。これは仏教哲学を学んだ時習得したことです。私はこれからも「縁」によって学びを続けます。

  4. 教育者に求められる資質、能力について語られていました。自分のことを鑑みると、自信を持てないことばかりでしたが、学び続ける人でいることはできると思いました。
    保育園だけの世界に留まるのではなく、自ら足を運び、人と出会い、体験を重ねて、身につけた知識や技術以上に、そこで得た「何か」を子どもたちに還元できる人になりたいです。なります。

  5. 〝教員が自身の視野を広げ、時代の常識に疑間を呈するような活発な生涯学習者であると生徒から見なされなければ、生徒が生涯学習者になることはまずない〟という言葉が印象的でした。やはり、子どもたちは教員の学びに向かう姿というものを敏感に察知しているんですね。先生はしなければならないことがたくさんあるんだと改めて知り、あれもこれもして欲しい、なんて簡単に言えるものでもないのでしょうが、教員自身が今までに学んだことを子どもに還元していくことは、楽しみながらできることなんではないかと思いました。その「楽しんで」いる姿こそ、「生涯学習者」なのではないかと思います。

  6. 教員に求められることの多さを感じてしまいました。それらは多分に本人の資質によるようなものもあり、例えば教育に対する情熱などは、教員になってから身につくものなのだろうか、と思えてきてしまいます。教員を志す動機、または、志す以前から何かしらによって育てられた情熱があるはずで、そういう数値化されないながらもとても大事なものを、元々持っているかどうかというのは、とても大切なことなのではないかと思えてきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です