量から深さ

多くの国が、カリキュラムにますます多くの内容を加えることで、生徒が何を学ぶべきかという新たな要求に応えてきました。その結果、カリキュラムは1マイルもの幅になりましたが、深さはたった1インチとなったとシュライヒャーは比喩しています。教員は大量の教科の内容を扱いますが、深さはほとんどありません。新しい内容を追加することは、教育システムが新たな要求に対応していることを示す簡単な方法ですが、内容を削除することは本当に難しいと言います。幾つかの国では、学際的な学びを提唱して新しい教科、トピック、テーマを伝統的なカリキュラムに統合し、学習体験を広げようとしているそうです。他の国々は、教員が深さを扱える余白をつくるために学ぶ量を減らしました。

必要なのは「交渉されたカリキュラム」と「設計されたカリキュラム」の慎重なバランスであるとシュライヒャーは言います。言い換えれば、教えるべき内容と上手に設計された学習成果を定める際には、幅広い協議と妥協の両方が必要なのです。それが次に国民の信頼と専門家の関与を引き出すからです。

適切なバランスを見つけることは容易ではありません。例えば、テクノロジーが進んだ世界における困った質間は、生徒がプログラミングを学ぶべきかどうかです。プログラミングを教える世界中の学校には、興味深い事例があるそうです。しかし、今日の問題を解決するために、今日の技術を生徒に教えることにはリスクがあります。生徒が卒業するまでに学んだ技術は陳化するかもしれないということです。この例がもたらす大きな疑問は、今日のデジタルツールに気を取られることなく、デジタル化の基本概念への深い理解と実践をいかに強化できるかなのです。

重要なのは、教える内容により多くの「内容」を加え続けるのではなく、カリキュラムの設計時から到達目標をより体系的に考えることです。21世紀のカリキュラムの特徴は、厳密さ(高いレベルの認知的要求に基づいて教える内容を構築すること)、焦点(内容の幅よりも深さを優先して概念的な理解をめざすこと)、一貫性(学習進捗と人間の発達に関する科学的理解に基づいて優先順位をつけること)だと言います。カリキュラムは学際的な学習をめざし、生徒が複数のレンズを通して問題をとらえる能力を身につけることをめざしながら、学問分野に忠実であり続ける必要があると言うのです。

カリキュラムは、分野の内容に関する知識と、その分野の基本的な性質および原理に関する知識とのバランスをとる必要があります。将来の未知の問題に取り組む生徒のために、カリキュラムは転移価値が最も高い分野に焦点を当てる必要もあります。言い換えれば、ある文脈で学び、他のものに応用できる知識、スキル、態度を優先するのです。教員がこの考えに納得するためには、この転移価値がどのように起こるかについての行動理論を明らかにする必要があると言います。学習の認知的、社会情動的な側面のパランスをとり、教員が学習過程の中で生徒と共に責任を引き受けられるように支援することが求められるのです。教員は、関連性のある現実的な文脈で学習を組み立てる必要があり、テーマ別学習、間題解決型学習、プロジェクト型学習、さらに同僚や生徒との共創を中心とした方法に取り組みます。

量から深さ” への6件のコメント

  1. 「カリキュラムは1マイルもの幅になりましたが、深さはたった1インチとなった」というシュライヒャー氏の比喩は痛烈ですね。成熟社会において必要になる項目は次から次へと上がってくるのに対して、それらを深める具体的カリキュラムや総合的学習へのアプローチは未だ浸透しきれていないイメージがありますね。学習において優先されるのは「広さ」なのか「深さ」なのかというテーマには、脳の可塑性や汎化という性質を考えると「深さ」に軍配が上がる気がしていますがどうなのでしょうか。他国では、「学際的な学びを提唱して新しい教科、トピック、テーマを伝統的なカリキュラムに統合し、学習体験を広げようとしているそうです。他の国々は、教員が深さを扱える余白をつくるために学ぶ量を減らしました。」という動きがあるようですね。学ぶ量を減らすという勇気が、大人には必要なのかもしれませんね。

  2. 「カリキュラムは1マイルもの幅になりましたが、深さはたった1インチとなったとシュライヒャーは比喩しています」とありました。こういうことは様々なところで起こっていることかもしれませんね。幅を広げているとなんだかやったように思えてしまいますし、周りにもやっているような印象を与えることができるのかなと思ってしまいます。「今日の問題を解決するために、今日の技術を生徒に教えることにはリスクがあります。生徒が卒業するまでに学んだ技術は陳化するかもしれないということです」このあたりも、それを教えることで何を育てたいのか、そしてその力は普遍なものであるのかということを考えなければいけませんね。方法が目的になってしまうことが一番、まずいですね。『重要なのは、教える内容により多くの「内容」を加え続けるのではなく、カリキュラムの設計時から到達目標をより体系的に考えることです』ということも非常に大切にしたいことです。到達目標を設定し、それに到達するためにどうするべきか、このような論理的な思考が重要になってきますね。

  3. 保育においても、これが子どもにとって良いと聞けば取り入れようとなり、気づけば大人にとってやらなければならないことが増え、いつしか子どもがやらなければならないことが増えて…ということにもなりかねません。バランスを図ることは非常に重要であり、何にしても、子どもたちがやることは、意思ある選択に基づいていることが重要ですね。

    また、園の子どもたちが遊ぶ様子を見ていると、ある意味とても学祭的であると感じるものです。保育の5領域は、5つで1つでありますし、1つの遊びから育つものを、たった1つに定義することは不可能です。
    乳幼児期の遊び、教育から順を追って教育を考えていけば、自ずと教育改革の道筋が見えてきそうなものですが…。

  4. 保育実践を考える際のヒントになることが沢山ありました。幅広い協議と妥協、ツールに気を取られることなく物事の基本概念を深い理解と実践に繋がること、内容をつけ加え続けるのではなく到達目標から体系的に考えること、転移価値が高いものに焦点を当てることなどなど…。
    チーム保育において協議は不可欠であり、乳幼児と向き合う際には、どこに落とし所を設けるのかという意味での妥協点を予測して仮説を立てておくことは必要かもしれません。
    そんな風に、一つ一つを咀嚼して、保育的に考えることをしていきたいです。

  5. 日本の教員養成課程では、一体、どんな学びが実施されているのでしょうか。養成課程を経て、学校での教育実習に臨む学生さんたちは今時、どんな実習を展開しているのでしょうか。そして、教員免許を取得し、実際の教室に向かう新任の先生たちはどんな思いを抱いて生徒たちの前に立つのでしょうか。「教員が深さを扱える余白をつくるために学ぶ量を減らしました。」これは「ゆとり教育」の際に該当すると思うのですが、「深さ」という概念は当時の教員さんたちには果たしてあったのか。「学ぶ量を減らし」たことは、円周率が3となったり、台形の面積を求めることが教科書からなくなったことでわかります。「ゆとり教育」ももう大分昔のことになりましたね。「デジタルツールに気を取られることなく、デジタル化の基本概念への深い理解と実践をいかに強化できるか」これはポイントでしょうね。養成校時代に学生さんたちがこうしたことを徹底して学べると、抱く問題意識も違うような気がします。

  6. 例えば、一本の木があって新しく葉が出たり、花が咲いたりします。自分たちはその新しいものについ目を向けがちになってしまいますが、その木を支えている幹や根にフォーカスしていくことで、根幹が見えてきて、新しい花や枝があってもそれがその木のものなのかどうかの判断ができるんだと、まずは根本をしっかりと理解しておくことが大切なんだということを教わりました。その観点からいけば、深いところにある核を理解しておくことが、これからのますます発展していき、どんどんと変化していくことになるであろう社会に対応できる力になるんだろうと思います。これまでも変化して教えなければならないものも増えている印象ですが、その根本に目を向けていくこと、それを伝えていくことが必要ですね。

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