中央集権化

教育政策にとって、学校システムの地方分権化を推進する勢力と中央集権化をめざす勢力との間の非生産的な論争を乗り越えることが重要であると言います。その議論は、教育のどの側面がどのレベルの教育システムで管理されるべきかという本質的な問題から目を逸らしがちです。また、学校システムの各層がどのようにして生徒や教員を支援できるかを自間していくという補完性原理を損ないます。

それはまた、教員、学校、地方自治体が、カリキュラム開発、シラバス、テストと教育基準に関する機能には、多くの資源が必要だと認識していることでもあります。それゆえに、これらが機能するためには、ある程度の中央集権化が進められてきました。それが正しいかどうかを見極めるためには、全ての生徒が利用可能であり、ワールドクラスの教育基準が緻密なカリキュラムに反映され、教員や教科書出版社の力を引き出すような一貫した教育システムが必要です。

学校や地域が教室で何を教えるかを決定する教科書に政府が関与しない国では、文部科学省が強力な役割を果たし、非常に中央集権化された教科書制作と審査がおこなわれている日本の事例を憂慮するだろうとシュライヒャーは言います。しかし、日本の教員に質問してみれば、教科書制作と出版に先立つ何年にもわたる協議と専門家のかかわりについて教えてくれるだろうと言うのです。また、学習指導要領を解釈し、指導力を高めるための広範な専門的能力開発についても教くれるだろうと言います。これらの取り組みによって、学校や地域が教科書を購入し、教員を通じて教室で配布する方法よりも、職業による当事者意識や現場での自律性がはるかに高いのが日本の事例であるとシュライヒャーは評価しています。中央集権化と地方分権化を一つの領域の反対のものとしてとらえるのをやめたほうがよいだろうとシュライヒャーは考えています。

システムのリーダーは、組織の方針や実践がどのように変化を促進し、抑制するかについて自覚する必要があると言います。彼らは、システムが変化の障害になる時には、システムに立ち向かうことが求められます。彼らは、新たに発生したトレンドやパターンを認識し、めざすベきイノベーションをどう促進あるいは抑制するかを理解する必要があると言います。また、他の組織や人々と一緒に仕事をする際、政治的なやり取りに精通することが不可欠です。リーダーは、自身の知識を使こなし、人々が変化のための計画を支持するように説得します。そして、権力と支配力を駆使し、変化を成し遂げるために必要な協力関係を築きあげます。

例えば、シンガポールの教育が成功した秘訣は、リーダーシップと政策と実践の整合性にあると言います。すなわち、野心的な目標設定、学校がビジョンと戦略を発展させるための教員と指導力の育成、世界のベストプラクティスに対する教育実践の基準となる継続的改善の文化等です。

効果的なリーダーシップ

特に政策に一貫性がなくリソースも少ない場合には、効果的なリーダーシップが事実上教育のあらゆる面での中心となるとシュライヒャーは言います。全ての教育システムには多くの素晴らしい教員、学校、教育プログラムがありますが、優れた教育システムを構築するには効果的なリーダーシップが不可欠だと言うのです。教育改革の権威であるマイケル・フラン氏が指摘するように、プログラムは拡大しません。拡大するのは文化であり、文化は効果的なリーダーシップの特徴だと言います。文化とは、システム全体による学習、システム全体のイノベーション、そして大規模で継続的な改善を推進する戦略的な協働のことだと言います。あなたが本質的で永続的な変化を起こしたいならば、何人の教員があなたに賛同するかではなく、何人の教員が効果的な協働を推進できるかを自問すべきだと言うのです。

投資が増加しているにもかかわらず教育に成果が現れないという教育危機は、部分的にはリーダーシップの危機であるとシュライヒャーは言うのです。テクノロジー、グローバリゼーション、環境の相互関係の変化に対して適切かつ前向きに対応していくことは、最終的にはリーダーシップの問題であると言うのです。効果的なリーダーシップは、教育機関、教育者、研究者、その他のイノベーターが専門家として協力していく環境を作り出すのに不可欠なのです。このようなリーダーは、何を変える必要があるのかを人々が理解し、支援を獲得し、教育システム全体がリーダーシップを共有するよう働きかけるべきだと言うのです。

マイケル・フラン氏が説明するように、自らの学校システムに将来を見据えた変更を加えようとするリーダーは、命令を出して従わせる以上のことをしなければなりません。彼らは、共通理解と集団全体の当事者意識を作り上げ、変化の重要性を語り、変化を現実にするために働きかけ、大衆に迎合しない信頼できる人物である必要があると言います。彼らは、法令遵守ではなくイノベーションと発展を促すことをめざして説明責任を果たし、リソースを集中し、能力を開発し、組織体制を変更し、適切な政策環境を作り出すべきなのです。そして、彼らは教育機関を支配している縄張りと階層的な官僚主義の力学に対抗するのです。

システムのリーダーは、生徒ではなく教員や事務組織の興味や習慣によって構築されている制度的構造に向き合う必要があります。学校システムのほとんどは、機会を広げて生徒の多様なニーズに対応するのではなく、人々を分類し排除するように設計されているとシュライヒャーは言うのです。それは、ごく一部の少数のリーダーを見つけて訓練し、他の人々には基本的な知識とスキルを身につけられるようにすることが教育であった工業時代には、効率的かつ効果的な方法だったかもしれません。しかし、全ての人々の才能を最大限に活用し、公平な学習機会を確保する現代社会では、このような方法は成功するための障壁となると言うのです。困難な生徒を他の場所に移動して効率化を図るのではなく、学校が生徒全員のニーズを満たせるようになるには、インセンティブと支援が必要だと言うのです。

学校が起業家のように適応するためには、システムのリーダーがイノベーションに必要な人的、社会経済的資源を獲得することが不可欠です。彼らには、業界や国を超えた強いつながりを築き、政府のリーダー、社会起業家、企業幹部、研究者、市民社会とのパートナーシップを築くことが求められるのです。

積極的な担い手

私たちは、既存の慣習をひっくり返すような「キラーアプリケーション」や「破壊的なビジネスモデル」を探すべきではないのでしょう。その代わりに、私たちは教育成果を生み出すエコシステム全体にわたる学習能力を特定し、解釈し、育成する方法を学ぶべきだとシュライヒャーは言うのです。デジタル時代で目標を達成するために、国は教員が新しいツールを使いこなすための説得力のある戦略を必要とします。この課題に上手に取り組んでいくことが政策立案者には期待されます。変化が不確実性を伴うとき、教育者は現状維持を選ぶことが多いようです。よりイノベーティブな学校を支援していくためには、教育システムはニーズを上手に伝え、変化を促していく必要があります。能力強化やチェンジマネジメントのスキルへの投資は非常に重要だろうと言います。教員はテクノロジーによるイノベーションの実行者としてだけでなく、設計者すなわち変革の積極的な担い手になることが不可欠なのです。

教育システムは、変化の主な要因を識別し、それらを支える必要があります。そして、イノベーションを拡大し、普及するための効果的な方法を見つける必要があるのです。それはまた、イノベーターが新しいアイデアを生み出すためならリスクを冒してあらゆることをおこなうように、成功を定義し、報酬を与え、評価する良し方法を見つけることでもあります。最初のOECD国際教員指導環境調査における最も残念な発見の一つは、先進国の教員のうち4人に3人が職場をイノベーションに敵対的な環境ととらえていることであったとシュライヒャーは言っています。その認識を変えなければ何も変わらないと言うのです。

教育の官僚制度を変えることは、墓地を動かすことに似ているかもしれないと言います。現状には非常に多くの防御壁があり、彼らに助けを求めることは難しいようです。要するに、学校制度はかなり保守的な社会制度なのです。誰もが自身の子どもたちに影響を与えないかぎりは教育改革を支持するのです。保護者は子どもたちの教育を自身の教育経験と比較して判断するかもしれません。教員は教えるために教わった方法ではなく、教わった方法を教えることができます。しかし、教育改革への本当の障害は保守的な一般の人々ではなく、保守的なリーダーだと言います。すなわち、現状を維持するために大衆に迎合するリーダー、快適な場所に留まるほうが楽だからと、変化する世界に教育実践を適応させるのではなく現在のカリキュラムに固執するリーダー、優れた教員への投資等の効果的な政策のメリットを保護者や教員に理解してもらうよりも、少人数制クラスのような人気のある解決策に投資するリーダーだと言うのです。

この指摘は、私は同意します。幼児教育の改革を行う上で、なかなか変えようとしない管理職が多いことに痛感しています。しかも、改革の障害は自分にあるのに、責任を他のせいにすることが多い気がします。制度が違うから、監査があるから、職員が納得しないから、保護者が納得しないからと色々な理由をつけます。また、現在でもそれほど問題がないからと言って、現実の子どもの姿から目を背けようとします。

教育産業

学校でのイノベーションのためには、より条件を公平にすることも重要です。政府は、優れたアイデアを改善し、共有する教員の自律性と協同文化を強化できるのです。政府はまた、補助金を設けたり、何が効果的かも明らかにし、効果があるものへの需要を高めるインセンティブを提供することもできます。政府にしかできないことは数多くあります。シリコンベレーが機能するのは、政府がイノベーションを起こすからではなく、政府がイノベーションが起こる条件を作り出したからです。同様に、政府は教室でイノベーションを起こすことはできません。革新的なアイデアが開花するイノベーションを受け入れやすい風土があるように、政府にできるのはシステムを開放的にすることだけです。すなわち、教育システム内のイノベーションを促進し、外部からの創造的なアイデアに開放するのです。

政策立案者は、教育産業を学校への商品やサービスの提供者と見なすことがよくあります。彼らは、教育におけるイノベーションが学校の運営環境そのものも変化させていることを過小評価しがちです。特にテクノロジーによるイノベーションは、デジタル世界と社会環境という外界へと学校を開放します。また、それは新しい概念や観点、教育のための明るい未来の持続をめざす教育産業を含む教育システム全体に新しい当事者を生み出します。

教育システムが産業界を価値あるバートナーとして扱うことは難しいのです。教育の「市場化」やコンビュータによる教員の代替が恐怖として認識されるため、実り多い対話となり得るものも危険にさらされています。同時に、私たちは教育産業に対して厳しく要求すべきだと言います。ほとんどの子どもたちは、企業が学校に提供しているようなソフトウェアで自発的に遊ぶことはないだろうとシュライヒャーは言います。教育産業では、本来あるべきイノベーションが進んでいるのでしょうか?サービスを細分化された市場に提供するために大規模な営業組織を擁する、寡占状態の大手企業を打ち破ることができるでしょうか?買い手が全ての担当者に対処しなければならないという、時間がかかる販売サイクルを克服できるでしょうか?

学校にイノベーションを促進するビジネス文化を作り出すことは可能でしょうか?現在は、新しいツールやシステムを購人したり、教職員を活用するのは非常に簡単です。なぜならば、まったくコストがかからないからです。教員の時間を埋没費用として扱うことは、人々がこの時間の節約に何のメリットもみいだせないことを意味します。新しいツールや新しい実践、組織、そしてテクノロジーによって、産業界がどのようにして教育分野の生産性の格差を埋められるかを探っていくことには価値があるというのです。

教育分野における起業家精神の低さは、驚くほどだと言います。確かに教科書、教材、オンライン講座を提供する大規模な組織があり、無数の私立学校や大学があります。しかし、これらは非常に細分化れています。2013年6月にシュライヒャーはインドの起業家であるサニー・ヴァルキー氏に出会ったそうです。彼は、教育分野を「公共セククーと民間セククーの対立」から「公共セクターと民間セクターの連携」へと変革する意欲を持っていたそうです。彼の使命を他者と違うものにしたのは、教育を他の何かの一部とするのではなく、教育を最優先にしたことです。

強い公共政策

イノベーテイプな変革は、規則や規制の遵守に重きを置く階層構造ではより困難です。教育のイノベーションを促進する政策的な方法として、自律性や多様性を高め、教育機関の竸争を増やすことが挙げられます。しかし、この方法に効果があるという確かな証拠はまだないそうです。

柔軟性とイノベーションを公平性を担保しながら両立するためには、選択が不平等や差別を助長しないような権力の抑制と均衡というチェックアンドバランスを学校制度に取り入れ、全ての保護者が望みどおりの学校を選べるようにする必要があるとシュライヒャーは考えています。つまり、政府や学校は、保護者や地域社会との関係構築に投資し、保護者が情報に基づいた決断を下せるようにする必要があると言うのです。以前、彼が言っていたように、学校制度が柔軟であるほど、より強い公共政策が求められるのです。学校の自律性、地方分権化、よりニーズに基づいた学校制度が拡大すると、意思決定は現場に任されるようになるのです。公共政策の役割は、戦略的なビジョンや明確な教育の指針を示し、知識を収集したり共有するための効果的なメカニズムを確立し、地元の学校ネットワークおよび学校に有意義なフィードバックを提供することなのです。言い換えれば、中央政府と地方自治体の協働があってこそ、学校選択は全ての生徒に恩恵をもたらすのです。

ガバナンスのイノベーションは、教育システムのイノベーションとは異なる課題だと言います。テレビ、ビデオ、デジタルホワイトボード、コンピュータ等、教育には新しい方法を導入してきた長い歴史があります。しかし、これは教育の徹底的な改良と学校教育の改善を期待しながらも、高いコストをかけて複雑な成果を段階的に獲得してきたにすぎません。教育が他分野でのイノベーションに追いつかない理由をシュライヒャーは何度も自問してきたそうです。政府、学会、教科書会社の現在のビジネスモデルを破壊する可能性があること以外に、もっともな答えをみいだすことができなかったそうです。

教育産業が弱すぎて細分化されているため、この課題を受け入れられない可能性もあります。OECD加盟国の医療・健康分野の研究予算は、教育研究予算の17倍もあることに留意すべきだと言います。それは実践を進めるうえで知識が果たすべき役割について多くを語っています。

しかしより大きな問題は、たとえ優れた教育研究や知識が存在しても、多くの教員は彼らが直面する問題が科学と研究によって解決できると信じていないことだと言います。あまりに多くの教員が、良い授業はインスピレーションと才能に基づく個人的なアートであり、職業人生を通じて向上していくスキルではないと信じています。しかし、それを教員だけのせいにするのは誤りであると言います。教員の知識やノウハウを体系化するインセンティブやリソースが不足してるため、この問題は政策に遡って考える必要があります。多くの国では、教育以外の労働時間の余地が少なく、教員は知識創造に取り組むことができません。他の専門職とは異なり、実践者のための専門機関あるいは科学的な共通言語さえも構築することができなかったので、教育実践は曖眛なまま可視化されず、孤立しており、伝承が難しいままです。より良い知識に投資し、広く普及することを優先すべきだと言います。それは大きな恩恵をもたらすに違いないとシュライヒャーは考えています。

効果的な教育手法

今日のカリキュラムの多くは、もはや存在しない静的な世界に生徒を参加させるように設計されています。そのような種類のカリキュラムは、階層的な官僚主義において産業的な手法で提供することができました。これまでの教育デサインでは、教員は専門家として高度な洞察を発揮することを期待されませんでした。しかし、それではもはや不十分です。カリキュラムは今、急速に変化する知識創造の動向を反映する必要があるのです。

逆説的に、教育における高度に標準化された産業労働組織は、しばしば教室に教員だけを置き去りにします。学校に自律性がまったくない状態とは、閉ざされた教室のドアの先で全ての教員が孤立していることを意味するのです。

規範的アプローチが弱まるにつれて、実践者である教員の立場を強化する必要があります。政府は方向性とカリキュラムの目標を設定できますが、現場で教育を担うのは教員です。政府は彼らのプロ意識を引き出し、支援する方法を見つけるべきだと言うのです。しかし、専門的な自律性の向上はまた、挑戦的で特異な実践を増やすことにもつながります。それは専門家によって効果的であると認められた実践の普及に取り組む、全ての教員を置き去りにすることを意味するのです。教育は、アートであるだけではなく、科学でもあるとシュライヒャーは言うのです。それが上海における教員の協同の事例なのです。

私たちは、自由を目的のための型にはまらないものとしてとらえるべきではないと言います。あなたがパイロットだとします。もし「風に逆らって着陸するように教わってきたが、今回は風に乗って着陸した」とアナウンスしたら、乗客は大きな不安を感じるでしょう。もちろん、風に乗って着陸することは良いことだとする教員にとっての事実と、一方で職業に対する自律性と当事者意識を推進していくことのバランスをとるのは、学校管理職にとって容易ではありません。大半の教育分野には実践に関する明確な基準がありませんので、教員は何が効果的であるかが十分に検証された分野であっても、自分がやりたいようにできるべきだと考えるかもしれません。教育実践への共通理解がないまま管理職が指示すると、教員は無力感を感じるかもしれないのです。

どの教育手法がどのような状況で最も効果的であるかを調べるには、時間、研究への投資、協同が必要です。その結果、優れたアイデアが広がり、教員全体へと普及します。したがって、職業的な管理基準が官僚的および行政的な管理を代替する、すなわち産業労働組織から教員および学校管理職のための真に専門的な労働組織への大きな転換が必要だと言うのです。言い換えれば、教員の専門的な裁量によってこそ、生徒の創造性と批判的思考のスキルを開発する自由度が高まるのです。これは21世紀の成功の中心であるにもかかわらず、非常に規範的な学習環境では育成することが難しいものだとシュライヒャーは言います。21世紀の教育政策には、そのような変化を支えることが期待されると言うのです。

ある部門が生産性の平準化をめざすとき、別の部門はイノベーションをめざします。それは教育でも起こっています。教育におけるイノベーションの水準は、他の経済分野とほぼ一致するようです。しかし、問題となるのはイノペーションの量ではなく、その妥当性と質、アイデアが効果を発揮するスピードです。イノベーションは起こっていますが、学習の中心に焦点が合っておらず、遅々として進まないとシュライヒャーは言うのです。

当事者意識

教育の規範的モデルを維持するだけでは創造的な教員は生まれないのです。対照的に、教員が自身の教室に当事者意識を感じるとき、生徒が自身の学習に当事者意識を感じるとき、生産的な問題が行われます。したがって、信頼、透明性、専門家としての自律性、専門家の協同文化を同時に強化することが重要なのです。

当事者意識を持った教員には、彼らが自問自答してきた以上に彼らに問いを投げかけることは難しいと言います。2011年、オランダの文部科学省がどのようにして職業基準を教員主導で開発しているかをシュライヒャーは研究したそうです。当初政府には、教員に任せれば必要な厳格性が失われ、最小公約数のような基準になるという懸念があったそうです。しかし、反対のことが起こったのです。当時の文部科学省のサンダー・デッカー副大臣は、オランダの政府には課すことができないような職業基準を教員が自ら開発したと後に教えてくれたそうです。他の職種でも同じことが言えます。医療専門職や法職に新規参入する際の障壁を考えてほしいとシュライヒャーは言います。プロ意識や専門家としての誇りが、政府よりもはるかに優れた監視役になることがあると言うのです。

シュライヒャーはこの経験から多くのことを学んだそうです。まず、教員が職業基準の開発に参加することは、専門的知識を培うための素晴らしい方法です。確かに、教育基準が妥当かつ教員自身のものとなるためには、その設計時に教員が主導的な役割を果たすことが不可欠なのです。同様に、以前議論したように、評価制度が効果的であるためには教員が教員評価制度の設計に参加することも不可欠です。教員の参加によって、彼らのプロ意識、スキルと経験の重要性、責任の範囲を理解できるのです。その過程で相談があれば、教員もまた評価されることに対してよりオープンになるだろうと言うのです。したがって、評価制度の設計者は、制度全体にわたって教員組合や優秀な教員と協力する必要があります。他の専門家がそうであるように、教員もまた彼らの職業の基準と評判を守ることに強い関心を持っているのです。

しかし最も重要なことは、21世紀の学校システムの変化があまりにも速いため、教員は仕事に当事者意識を持つ必要があるということです。国が定めたカリキュラムを教室で実践するという最重要事項でさえも、教育システムの様々な階層を経て目標と方法を共有し、それらを教員養成プログラムに組み入れるには10年以上もの時間を要します。生徒が何をどのように学ぶかが急速に変化するとき、この実行プロセスの遅さか、生徒が学ぶ必要があるものと教員が何をどのように教えるかのタイムラグを拡大すると言うのです。

そのタイムラグを短縮する唯一の方法は、教育の専門化を高めることだと言います。すなわち、成果物としてのカリキュラムだけでなく、カリキュラムの設計過程とカリキュラムの背後にある考えを最もよく伝える教授法を教員が確実に深く理解できるようにすることだと言うのです。

将来、若者にとって価値のあるものに対応するために、学校は厳しい課題に直面するでしょう。教科の内容はますます重要ではなくなり、より良い授業では文脈として扱われます。今日のカリキュラムの多くは、もはや存在しない静的な世界に生徒を参加させるように設計されているのです。

クラウドソーシング

上海の教員は、教室でテクノロジーを使うことに思慮深く慎重ですが、専門的な実践を促進して共有すれば進んで活用します。2013年にシュライヒャーが上海を訪れたとき、教員がデジタルプラットフォームで指導案を共有する姿を見たそうです。それ自体は珍しいことではありません。他と異なるのは、プラットフォームが評判指標を取り入れていたことだったそうです。他の教員がダウンロードしたり、授業を批評したり改善すると、共有した教員の評判が向上します。学年末に校長は、教員が生徒をどれほど上手に教えたかに加えて、職業上の技能向上と広範な教育システムの改善にどのように貢献をしたのかを評価するそうです。

教育実践を共有するクラウドソーシングという上海の取り組みは、教員間のベストプラクティスを特定し、共有する好例であると共に、教員の職業上の成長と発展を促す方法として成果連動型の報酬よりもはるかに強力だそうです。その評価は何年も前に現場から離れた一人の上司の見解ではなく、教員全体の見解に基づくものであり、より公平と言えるかもしれません。

このようにして、上海は巨大なオープンソースの教員コミュニティを創設し、貢献や協力、さらに貢献を認められたい人々の欲求を利用して教員の創造性を解放しました。テクノロジーによって優れた教育を普及できるのです。その価値は、指揮命令によって垂直方向では次第に小さくなりますが、私たちがつながり共に働くことで水平方向ではますます高まります。

両親が子どもの学校教育の質について調査を受けると、多くは質が低いと回答します。しかし、子どもの学校の質は学校教育の成果とは関係なく良いと回答します。私たちは子どもたちの学校の教員を知っているから信頼するのと同じように、子どもたちの学校を知っているから信頼するのです。私たちは見知らぬ人には信頼が低くなるのです。しかし、デジタル時代には、より豊かで価値のある社会関係資本を創造できます。上海で導入されているような評判指標は、見知らぬ人に顔や身元を与えるものです。多くの人々が同じように評価し合うことで、私たちは誰が信頼できる人物なのかを学ぶことができるのです。

ここでシュライヒャーは、あらためて悪魔は細部に宿ることを伝えようとしています。協同が成功するかどうかは、関係性に大きく依存します。オンラインバッジや星を付けるだけでは、その人が優れた協同相手であるとは証明できません。また、デジタル共有プラットフォームが商用化されることで、無償での経験の共有が制限される危険性もあると言うのです。

素晴らしい授業の中心はテクノロジーではなく、当事者意識です。21世紀に成功した教育システムは、専門家としての教員の当事者意識を育むために必要なことは何でもおこなってきました。多くの人々は、教員や学校管理職に十分な能力と専門知識がないために自律性を高めることができないと言います。そこには真実があるかもしれません。しかし、教育の規範的モデルを維持するだけでは創造的な教員は生まれないのです。調理済みのハンバーガーを再加熱するためだけに訓練された人が、料理長になることはないと言うのです。

テクノロジー

PISAの結果は、デジタルテクノロジーは優れた教授法を増幅しますが、貧弱な教授法を置き換えることはめったにないということが示されたのです。私たちが断片化した方法で学校にテクノロジーを導入し続けるかぎり、テクノロジーの可能性を実感できないと言うのです。各国は明確な計画を立て、それを実現する教員の能力を拡張していく必要があります。政策立案者はそのような取り組みへの支持を上手に集める必要があります。未来はテクノロジーの可能性を引き出し、生徒が内容の知識を習得するだけではなく、学習の価値を理解できるように支える教員と共にあるのです。また、教員は想像力あふれる問題解決のための環境をデザインし、批判的思考とメタ認知を育むことも求められるのです。

教育におけるテクノロジーについて、別の観点でシュライヒャーは考察しています。ビッグデータは、他の多くの分野ですでにおこなわれているように、教育の再設計に役立つ可能性があります。新しいデジタル空間を通じて共同体の専門知識と経験の全てを共有する教育システムが、どれほどの力を持つかを想像してほしいとシュライヒャーは言います。

しかし、教育データを公共空間に投入するだけでは、生徒の学び方、教員の教え方、学校の運営方法は変わりません。それは多くの行政における説明責任制度から学んだ不本意な教訓です。人々はデータを持っているかもしれませんが、それを使って教育のやり方を変えるとは限らないのです。

デジタル排気をデジタル燃料に変え、教育実践を変える触媒としてデータを活用するには、まるで石板のような旧態依然とした教育システムの「読み取り専用」モードから抜け出す必要があると言います。これは、協業しながら透明性を実現していくことでもあるのです。教育機関では、何十万人もの生徒や教員に影響をおよぼす内容、規則、規制が、現場から遠く離れた専門家によって意思決定されることが多いのです。どのように意思決定がおこなわれたかを把握することは、ほとんどできません。

これらの意思決定の根拠となるデータを全ての人々が利用できるようにし、最前線の教員が実験し、創造できるようになれば、ビッグデータで大きな信頼を培うことができるのです。シュライヒャーはいつも、「協同的消費」の力に驚くそうです。人々が自分の車、更に住宅さえも、見知らぬ人と共有するオンライン市場があるそうです。協同的消費は、人々を小さな起業家に変えました。そして、協同的消費を支える原動力は、見知らぬ人への信頼だと言うのです。ビジネスの世界では、信頼できる見知らぬ人が様々な市場で結びついています。この市場が機能する理由は、人々が相手を知り、信頼を築くのに役立つ強力な評判指標が、システムの背後に存在するからだと言うのです。私たちは見知らぬ人から何かを購入したとき、他の顧客がその売り手をどのように評価しているかを見ることができます。そして、購入後には自身でも売り手を評価できます。同様に、売り手も私たちを信頼できる買い手として評価できるのです。

2012年のPISAで最も高く評価された教育システムである、上海のテクノロジー活用方法をシュライヒャーは紹介しています。

デジタルスキル

教室の現実は異なるようです。2015年のPISAでシュライヒャーらは、生徒のデジタルスキルとデジタルスキルを育成するために設計された学習環境に関する報告書を発行したそうです。そこでは、まだ教室ではテクノロジーが広く活用されていないことが明らかになったそうです。2012年のPISAの時点では、ヨーロッパの学校のうち高性能なコンピュータと高速インターネット接続を有するのは約37 %だったそうです。これはポーランドの5 %から、ほぼ全てに普及するノルウーまでを含みます。しかし、コンピュータの性能が明らかに標準以下である多くの国でさえ、校長の80%から99%がコンピュータとインターネット接続は適切に配備されていると回答しました。テクノロジーはそれほど重要ではないのでしょうか?あるいは、学校管理職は学習を変えるデジタルテクノロジーの可能性を認識していないのでしょうか?

さらに重要なことは、そのようなテクノロジーが教室で利用されている場合でも、生徒の成績への影響が混在しているように見えることです。PISAは、生徒のデジタルリテラシー、生徒が学校でコンピュータを利用する頻度と程度を調査したそうです。コンピュータを学校で適度に利用する生徒は、まれにしか利用しない生徒よりも成績がやや良い傾向があったそうです。しかし、非常に頻繁に利用する生徒は、社会的背景や生徒の人口構成を考慮しても、ほとんどの成績が悪化したそうです。これらの調査結果は、デジタルリテラシーと数学的リテラシーと科学的リテラシーの両方のスキルに当てはまるようです。この結果は、今回の新型コロナ禍におけるデジタル化を進めるうえでしっかり検討してほしいものです。さらに、日本では気を付けてほしい結果があります。

それは、PISAの結果はまた、教育のためにデジタルテクノロジーに多額の投資をした国々では、生徒の成績があまり改善されていないことを示しているそうです。おそらく最も残念な発見は、恵まれた生徒と恵まれない生徒の知識とスキルの格差解消に、テクノロジーがほとんど役に立っていないことだと言うのです。簡単に言えば、全ての生徒が読解力や数学的リテラシーの最低基準の習熟度を達成するほうが、学校でハイテク機器の利用を拡大したり補助するよりも、デジタル世界における公平な機会を作り出すようなのです。

一つの解釈として、深く概念的な理解を構築し、高次の思考を育てるには教員と生徒の緊密なやりとりが必要ですが、しばしばテクノロジーはそのような人間のかかわりを阻害すると考えられます。もう一つは、19世紀の学校組織による20世紀の教育実践に21世紀のテクノロジーを加えるだけでは、テクノロジーを最大限に活用した教育は実現できないということだとシュライヒャーは言うのです。このことは、私も最近の傾向に危惧している部分です。教育の目的が20世紀の教育の中心であった認知的能力から、21世紀では非認知能力が中心になるのでしたら、20世紀に構築された教育方法は見直さないといけないと思っています。今までの教育方法に、非認知能力を付け加えるだけでは、その能力の獲得にはこんな酸が生じると思うのです。

シュライヒャーは、それをこう言っています。「もし生徒がグーグルで調べた回答を答案用紙に書き写すだけならば、従来の教授法よりも効果的な学習とは呼べない。」