リソースとニーズ

格差に対する校長の認識は、実際の格差がどうであるかよりも、教育機会の不平等に強く関係しているという見方とは別の見方もあるそうです。香港、マカオ、ベトナムの社会経済的階層の下位4分の1にいる家庭の子どもたちの60 %以上が、2015年のPISAで全世界の子どもたちの上位4分の1に入る成績を上げました。また、エストニア、日本、シンガポールの最も恵まれない子どもたちの約2人に1人も、同じく上位4分の1に入りました。対照的に、チリ、ギリシャ、アイスランド、イスラエル、メキシコの最も恵まれない子どもたちは、これよりも少ない5人に1人が上位4分の1の成績を上げました。

これらが意味することとは何でしょうか?社会経済的な格差は全世界の教育が直面する課題ですが、一部の国や地域では格差が実際にどうであるかよりも、格差をどう感じるかのほうが間題をはるかに大きくしているようです。その感じ方は、生徒の学力に大きな違いを生みだしているようです。別の国や地域では、実際に起こっている格差は校長が感じる格差よりもはるかに深刻ですが、これらの国や地域の学校と社会は格差を克服するために取り組めるだろうとシュライヒャーは言うのです。

同様に、多くの国々の学力の低さは、貧しい地域の貧しい子どもたちだけにかかわる間題ではなく、多くの地域の多くの子どもたちに影響を及ぼす間題であることをPISAのデータは示しています。つまり、どの国や地域の学校に通うかが、生まれ育った家庭の社会的背景よりも大きな影響を学習成果に与えるのです。

クラスの社会的多様性について話し合うと「学校は社会の問題を解決できない」という意見を耳にすることが多いとシュライヒャーは言います。とはいえ、彼は、社会が直面する課題に対処する以外に学校に期待すべきことがあるのか、と常に自問しているそうです。非常に困難な状況で働く教員や学校、そして非常に大きなニーズを抱える生徒への支援よりも大切なことがあるだろうかと。以前は他の人たちが対処していた社会問題を是正するために、社会が学校にますます関心を向けていたように思われます。公共政策の役割は、学校がそうした要求に応えられるようにするための支援なのです。

手始めに、多くの教育制度は、社会のリソースとニーズをもっと上手く合致させられるはずだとシュライヒャーは言います。物質的なリソースはかなり進歩しましたが、ほとんどの国や地域では、極めて才能ある教員に最も課題の多いクラスを担当してもらうことは依然として難しいようです。これは、恵まれない環境の学校で働く教員に、より多くの給料を支払うという単純な話ではないと言います。教員が更なる課題に直面し、さらなる努力が必要だと周囲から認められたとき、教員が専門家としての人生と、個人としての人生の両方を支えてもらっていると思えるような総合的な働きかけが必要だと言うのです。

限られた時間や乏しいリソースを、より支援を必要とする生徒に優先的に提供することは難しいです。クラスの多様性の価値を称賛する人々は、他の保護者の子どもたちのクラスについてよく話をします。一般的には、社会経済的に恵まれた立場にいる保護者に、クラスに社会的多様性があると皆がもっと恵まれた状態になると理解してもらうことは難しいようです。そうした保護者の子どもたちは、他の恵まれた子どもたちと一緒に学校に通っています。大抵の場合、恵まれない子どもたちのためにロビー活動をする人がおらず、最も大きな課題やリソースが最も大きな影響を及ぼす課題に対して、リソースを配分することが難しいと政策立案者も感じています。

リソースとニーズ” への6件のコメント

  1. 教育の機会均等とか教育の公平性、と言われることの内容は一体どういうことでしょうか?「平等」や「公平」という概念規定は一体どうなっているのでしょうか?日本において、はどうなのでしょうか。この問題を考える時、藤森先生がよく指摘される、習得主義と履修主義ということが思い出されるのです。私のコメントでしばしば述べております「教育時間」ということを今回もやはり言いたい。この「教育時間」の存在は、考え方としての「履修主義」を土台としています。そして、実は、このことが「教育の機会均等とか教育の公平性」を保障している姿として日本の学校教育の現場で現れているようなのです。「限られた時間や乏しいリソースを、より支援を必要とする生徒に優先的に提供することは難しい」ということ。このことは「かわいそう」とか「残酷」という情緒的感慨で納まりません。ますます格差社会が進んでいくことを示唆しています。「勝ち組負け組」という嫌な表現が大人と言われる人々の間に蔓延って久しい。「リソースを配分することが難しいと政策立案者」は思っているようです。であるならば、「賢い親が自分の子どもたちに望むことは、政府が全ての子どもたちに望むことでなくてはならない」はほぼ実現不可能ということになりますか

  2. どの国や地域の学校に通うかが、生まれ育った家庭の社会的背景よりも大きな影響を学習成果に与えるのです、とありました。これを認識している教員がどれ程いるものでしょうか?それと同時に、私たち保育士も、教育機関で働く者として背筋が伸びる思いです。
    また「学校は社会の問題を解決できるかどうか」という問いは、日本の幼児教育において面白い問いであると感じました。というのも、幼稚園は文科省管轄の学校、保育園は厚生省管轄の福祉施設として始まった歴史があり、保育園はそもそも社会の問題を解決するために始まったのです。その意味合いが更に強まる中で、教育的価値を創造しようと試みている。これは、幼稚園(学校)にはできないことができるということであると感じます。教育内容も、各園によって、どこまでも突き詰めていける余白もあると思います。
    保育士が、保育園の存在意義をしっかりと認識していくこと、保護者への説明責任を果たしていくこと、何より子どもたちの発達を保障してより良い社会の担い手を育んでいくことが、社会の価値観を改善し、ニーズに応じたリソースの分配がなされるのではないかと考えました。

  3. 近年、働き方改革という動きありますが、その動きと実際の仕事への捉え方にはズレがあるようにも感じます。給与を増やしたからといって、直接的にやりがいが高まったり、意欲的になったりするということでもないですし、社会的価値を高めたからといって現場の質が変わらなければ意味がありません。各々が主体的に自分の仕事に誇りと責任が持ち、自らコントロールできる環境下で仕事をすることができれば、きっと楽しいでしょうね。「教員が更なる課題に直面し、さらなる努力が必要だと周囲から認められたとき、教員が専門家としての人生と、個人としての人生の両方を支えてもらっていると思えるような総合的な働きかけが必要だ」というように、自分の人生設計と仕事との両方の充実は、良い教育を提供する上でも重要なのですね。

  4. 「つまり、どの国や地域の学校に通うかが、生まれ育った家庭の社会的背景よりも大きな影響を学習成果に与えるのです」とありました。以前のブログにもありましたが、このあたりは親が決めることができる部分ですね。国というのはいささか困難なところではあるかもしれませんが、環境というのは親が選ぶことができるものなのかもしれません。「一般的には、社会経済的に恵まれた立場にいる保護者に、クラスに社会的多様性があると皆がもっと恵まれた状態になると理解してもらうことは難しいようです」とありました。確かに、これは難しい問題ですね。これでは格差をなくしていくというのもなかなか難しいなと思います。教育というのは与えられるものではないはずです。しかし、いつしか教育に対価を求めてしまう風潮がうまれてしまっているのかなと思ってしまいます。

  5. よく親は子どもに「うちにはお金がないから買えない」「お金がないから我慢しなさい」というようなことを言うのではないかと思います。自分は言われていましたので、うちは貧乏だと思っていました。この「自分の家は貧乏だ」と感じることで学力に影響があることもあるということに驚きました。〝一部の国や地域では格差が実際にどうであるかよりも、格差をどう感じるかのほうが間題をはるかに大きくしている〟ということから、格差というものに対してマイナスに考えてしまうのではなく、プラスの方に考えることが必要なことなんだろうと感じました。それこそ、藤森先生がおっしゃっている「やらないのではなくどうすればできるか考える」というような思考でいることで、プラスな方向に向かっていくのではないかと思いました。

  6.  かつて『今を生きる』という映画がありました。今でも時折思い返す程、印象深い作品です。保育も今、行われるものです。将来を案じて、将来の為にと、将来役に立つであろうことを教えても発達に則していなければ身につきません。子ども達一人ひとりの今を充実させることの連続が将来の糧になるという一過性の取り組みです。しかしそれは保育者にとっても同じことです。自分のキャリアアップや自己実現は今この瞬間にしかできません。今の保育をどうするか、昨日でも明日でもなく、今日の今に集中することが子どもにとっても保育者にとっても重要なことだと思います。

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