異なる視点

異なる視点や世界観に従うには、一人ひとりが他の起源や含意や前提を調べる必要があります。これは他者の現実観や視点に深い敬意と関心を持つということである。私が一昨年出版した「保育の起源」は、そこを意識しています。保育の起源を考える上では、他の起源や合意、前提を知ら得る必要があると思っているのです。もともと保育や教育は、他の分野と違って、人の生き方、生活、文化に関係するものだからです。そこには、当然経済も考慮しなければなりません。決して、他の介入を拒むほど聖域ではなく、広い視点から見ていく必要があるのです。シュライヒャーも、そう考えているようですが、だからといって、他者の立場や信条を認識するとは、必ずしもその立場や信条を受け入れることではないというのです。しかし、複数のレンズを通して物事を見る能力は自分自身の視点を深め、より成熟した意思決定を可能とします。そうでなければ、教育システムは砂上の楼閣になってしまいます。たとえ境界を主張しても、相互依存している現実では境界を維持できないというのです。

これらの認知的、社会情動的スキルを育成するには、学習と教育のための非常に異なるアプローチや教員の能力が必要となります。前もって準備された知識を授けるような教育では教員の質は低くなります。そして教員の質が低いと、政府は望む結果を得るために民間セクターを使って、教員に何をすべきか、どのようにしてほしいのかを正確に伝える傾向があります。現在の課題は、教職というものを高いレベルで自律し協同的な文化で働く進歩的な知識労働者とすることだとシュライヒャーは言うのです。教員は有能な専門家、倫理的教育者、協同学習者、革新的な設計者、変化に富むリーダー、社会の構成員として働いているのです。

しかしそのような人々は、主に行政上の説明責任体制、職務を指示する官僚的な指揮命令系統、科学的管理主義で組織された学校の交換可能な大量生産品としては機能しません。現代の学校システムに必要な人々にとって魅力的であるためには、学校の専門的な統制基準、官僚的で管理的な職業基準を変える必要があると言います。過去とは社会通念であり、未来とは私たちが創り出す知恵なのだというのです。このことから、彼は、「過去に学ぶのではなく、子ども達の将来のために備える」ことが大事だというのでしょう。すなわち、「昔からそうしてきた」とか「今までこうしてきた」ということにとらわれずに、これからどのような社会になるかをよく見極め、今何が必要なのかを考えることが大事であるということだと思うのです。

かつては分断されていました。すなわち生徒を内部に閉じこめるように設計された学校で、教科や将来のキャリアへの期待別に分けられたことにより、教員や教育内容も振り分けられたのです。校内以外は全て外部で、家族とのかかわりや他行とのパートナーシップにも消極的でした。将来は教料や生徒の相互関係に重点を置いて統合していく必要があると言います。また、実社会の文脈と現代の課題に密接に関連づけられ、地域コミュニティの豊富なリソースに対してオープンな学びであらねばならないとシュライヒャーは言うのです。

異なる視点” への8件のコメント

  1. 「他者の立場や信条を認識するとは、必ずしもその立場や信条を受け入れることではないというのです」とありました。核となる考えを持つことで、このように様々なものを受け入れながら、本質を見極めるという姿勢が生まれるのかなと最近、思うようになりました。また「決して、他の介入を拒むほど聖域ではなく、広い視点から見ていく必要があるのです」とあるように、常に、様々なことにアンテナをはり、様々な角度から物事を見ていくということは忘れたくないなと思います。そして「過去に学ぶのではなく、子ども達の将来のために備える」ことが大事だというのでしょう。これからどのような社会になるかをよく見極め、今何が必要なのかを考えることが大事であるということだと思うのです」というメッセージもまさに教育ですね。先を見通し、目指す方向を意識しながら、今目の前の子どもたちにどう合わせていくかということを日々考え、実践すること、まさに保育でもやっていることですし、それをやらなければいけないと感じます。

  2. 「昔からそうしてきた」とか「今までこうしてきた」ということにとらわれずに、これからどのような社会になるかをよく見極め、今何が必要なのかを考えることが大事であるということだと思うのです。

    この点は、身近なところにも存在しているように感じます。時代や社会、組織が変化すれば、既存の方法、その時当たり前とされた常識は、ほんの数年単位であっても現状とのミスマッチが生じます。
    社会として、組織として改善を図り続けること以外に、健康な状態を保つことはあり得ないのですね。だからこそ「課題と改善は両立する」という、ファクトフルネスの言葉が思い出されます。
    変わり続ける社会、既にその一部を担っている子どもたちを、見守る者、その役を担う組織として、改善を図り続けていきたいです。

    映画『えんとつ町のプペル』が上映開始されました。西野さんを特別好きという訳ではまったくあひませんが、どこか繋がるものが見つけられそうです。久しぶりに映画館へ足を運んでみようと思います。マスクを忘れずに。

    • 建築家であり、子どもの遊び環境を研究されている仙田満さん。何年も前のものであるが『子どもとあそび』という著書がある。その中では大人の「あそびの原体験」という言葉が頻繁に用いられている。子どもたちの遊び、教育は身近な大人の原体験に大きな影響を受ける。
      しかし、変化が大きく速い現代では、その原体験が良い影響を及ぼさないことも多いように感じる。私自身、このブログで語られているような教育を受けてきた原体験は無い。
      だからこそ、生涯教育が重要なのでしょう。学び続け、実践し続ける。原体験は、今、積み重ねていくしかないのだと考えます。

  3. 保育や教育のみを考えるというのは、まさに閉鎖的な見方を作ってしまうものかもしれません。それらの目的が、社会の形成者であるのなら社会にある事柄や事象に関連する多角的見方をする必要があるようです。ということは、本来育児は母親のみが行うことではないように、教育も教師や保育者のみで行うことではないことを感じます。社会に開かれた学校や保育園にする意味は、そこにあったのですね。「複数のレンズを通して物事を見る能力は自分自身の視点を深め、より成熟した意思決定を可能とします」とあるように、そのような環境下で育った子どもたちも同じように多面的思考を携えて、社会で貢献していくことにつながるのでしょうね。

  4. 保育や教育というのは、その分野のみで考えていくことは逆に難しいことであることを最近は思うようになりました。地域や社会に開かれた施設にするための意味というのは、アピールや発信以外にも違う分野との協同という意味合いもあることに気がつきます。そうした中で育つ子どもたちというのは、多角的な視野で物事を見つめることができ、考えることができるようになっていくことができるようになるのでしょうね。一つの視点から物事を見つめることはうまく行かないことがあり、そのことに今までは目をつぶっていたんだということになるのでしょう。これからの社会で活躍する人間には必要不可欠な視点であることを思いました。

  5. 教育は学校教育、この発想を辞めなければならない、と思っています。学校教育も教育の一つ、くらいの認識を持つべきです。日本国憲法は教育を受ける権利と義務に言及しています。しかし、学校教育とは限定していない。ところが、保育園でいうところの教育とは家庭教育だ、という位置づけをしてしまう向きがあります。幼稚園さんは学校教育法の中にその存在を位置付けられて私たちは学校教育、保育園さんとは違います、的スタンスを言外に表しています。今回のコロナ禍でよくわかったことがあります。それは「校内以外は全て外部で、家族とのかかわりや他行とのパートナーシップにも消極的」という事実です。学校単体の責にしてはいけないでしょう。教育委員会というシステムのもとに彼らも行動しているということを理解する必要があるでしょう。「現在の課題は、教職というものを高いレベルで自律し協同的な文化で働く進歩的な知識労働者」にしていく、ということでしょう。シュライヒャー氏は来日して教育関係者に講演しているようです。日本の文科省関係の人々はパリのOECD本部に行き、いろいろな情報に触れているはずです。今後に期待したいものです。

  6. 藤森先生に出会い、このブログを読むようになって一番感じるのが、「保育、教育」という視点だけではなく、その他の視点も含めて保育や教育を考えるようになった点が大きいように思います。そういった広い視点を持って保育を考えていくと、非常に社会と保育は繋がっているということが分かります。どうも、それまで学校で学んできたことを考えると、社会と保育とはどこか別のもので考えていたところがありました。実際、未だにそういった人は多いようにも思います。自分たちが社会につながることをしているという実感が持ちづらいように思います。しかし、本当のところはそれだけ意味のある、誇りある仕事であると思うと向き合い方が変わってきます。ドラッカーも「企業は社会貢献のためにある」といっているように、どこかで別として考えるのでなく、この仕事自体もどういった意味があるのかを考えることで、「昔はそうしてきた」とか「今までこうしてきた」といった呪縛から逃れ、「本来はどうあるべきなのか」といった意味や意図から考えることができるのではないかと感じます。

  7. 他者の立場や信条を認識することと受け入れることとの違いについて、確かに受け入れようとなれば、何か重いのしかかりを感じてしまうかもわからないところですが、認識しようというと、理解するというような、軽やかな視点になる気がしてきます。多様性も、あまりにも自身の個性ばかりが主張され過ぎると、それを受け入れなくてはならないようなプレッシャーと紙一重のような気がしてきますが、なるほど認識するという程度でいいのならば、それもまた軽やかに思えるような気がするから不思議です。言葉のもつ力、考え方の工夫を再認識する思いです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です