ユーモア

家族のスタイルはおのおのですが、中にはよく冗談やダジャレを言う家族があります。私達は文字通りの意味ではないことを言ったり、したりすることがあります。日常にユーモアが溢れている家族はこのことを子どもが理解するお膳立てをしているのだとキャシーは言います。

イギリス・カーディフ大学の心理学者、メレディス・ガティスは4歳になる我が子の前で寸劇を見せたそうです。メレディスは卵の入っていない空のカートンを落としそうになりながら、キッチンを横切って冷蔵庫の方へ歩いていきました。4歳の娘はお母さんが冷蔵庫に卵を入れるのを見たことがあったので、今回もきっとそうだろうと予想していたに違いありませんが、突然、メレディスはカートンと取っ組み合いを始めたのです。暴れるカートンを何とか押さえ込み、つまずきそうになりながら、何とかそのカートンをゴミ箱に捨てることができたのです。これを見て娘は大爆笑しました。鉛筆の芯の方ではなく消しゴムの方で書こうとする時のように、母親が通常期待される行動とは異なる振る舞いをしたからです。更にそれをお母さんがわざとやっていることも解っていたからでもあります。4歳の娘は「心の理論」を発揮して、人を笑わせるためにわざと間違ったことをやっているという意図を読みとったのです。父親がブーツのことをカップケーキと呼んだり、一切れのピザを頭に載せようとしたりすると子どもは大はしゃぎします。ユーモアは他者がわざと実際とは異なることを考えたり、間違って見せたりするということを子どもに教える役割を持っていると言えるのではないかとキャシーは言うのです。と同時に、ユーモアを通じて同じ行為が複数の意味を持つという考えを、小さい子どもは理解してゆくのです。これはお馬鹿な両親の支えがあって初めて成し遂げられることでもあるのです。

このユーモアの例を読んで、私の園での男性保育士のことを思い出します。最初のころ、男性保育士のユーモアを女性の保育士はあまり理解していなかった気がします。それは、不真面目だとか、不謹慎であるかのように捉えていました。歌を歌うときに、わざと音程を外して歌うとかすると、子ども達はキャッキャッと喜んでいるのに、女性の保育士は、歌はきちんとした音程で歌うものだとたしなめたりしたものでした。今は、あきれた顔をしたりしながら、一緒に楽しんだりしています。確かにユーモアと、ふざけることの違いや、くだらない親父ギャクとは違いは紙一重のところがありますが、ユーモアに満ちた場を作ることは大切なことの気がします。

ディアナ・キューンはレベル2でクリティカルシンキングする人達を「絶対主義者」と呼んでいます。物事は「事実」であるかそうでないかのどちらかに分けられます。「現実」は自分が目にできることに限定されるのです。従ってレベル2の人は自分達の目に明らかに見える変化がなければ、地球温暖化が世界的に影響を与えるとは考えないというような見方をするのだとキャシーは言うのです。毎日の経験から感じとることの難しい目に見えない原因について、レベル2の人々は無関心です。もしあなたが「絶対主義者」のレベルに留まっているとしたら、長期的な視点で考えることや目に見えない力が地球規模の気候変動に関わっていると受けとめることは難しいだろうというのです。