子どもはみんな、友だちグループのなかで目立てるように、自分が得意なことをやろうとします。それはスポーツだったり、歌や踊りだったり、勉強だったりするかもしれませんが、そうした才能は遺伝の影響を強く受けていると言います。
しかしハリスは、こうしたことを言うからといってから遺伝決定論ではないと言います。子どもの成長には「友だち」が決定的な影響を与えると繰り返し強調しているのですから。
複雑系では、わずかな初期値のちがいが結果に大きく影響します。「プラジルで蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起こる」のがバタフライ効果だそうですが、人格形成期の遺伝と環境の関係もそのひとつだというのです。
スポーツが得意でも、友だちグループのなかに自分よりずっと野球の上手い子がいれは、別の竸技(サッカーやテニス)が好きになるでしょう。たいして歌が上手くなくても、友だちにいつもほめられていれば、歌手を目指すようになるかもしれません。最初はわずかな遺伝的適性の差しかないとしても、友だち関係のなかでそのちがいが増幅され、ちょっとした偶然で子どもの人生の経路は大きく分かれていくというのです。
小さな子どものいる親は、「子育ては子どもの人格形成にほとんど影響を与えない」というハリスの集団社会化論を受け入れ難いかもしれないと橘は言います。しかし自分の子ども時代を振り返れば、親の説教より友だちとの約東のほうがずっと大事だったことを思い出すのではないだろうかと言います。
このことをわかりやすく示すために、ハリスは乳児期に離れ離れになった一卵性双生児の姉妹を例に挙げているのを橘は紹介しています。私は、この例もある意味で衝撃だったために、記憶に残っています。
2人の遺伝子はまったく同じですが、成年になったとき、1人はプロのピアニストになり、もう1人は音符すら読めなかったというものです。養母の1人は家でピアノ教室を開いている音楽教師で、もう一方の親は音楽とはまったく縁がなかったと聞くと、それは当たり前の話だと思うでしょうが、実は、子どもをピアニストに育てたのは音楽のことなどなにも知らない親で、音符すら読めないのはピアノ教師の娘だったのです。
2人は一卵性双生児で、1人がプロのピアニストになったのですら、どちらもきわめて高い音楽的才能を親から受け継いでいたことは間違いありません。家庭環境や子育てが子どもの将来を決めるのなら、なぜこんな奇妙なことが起きるのでしょうか。
ハリスによれば、子どもは自分のキャラ(役割)を子ども集団のなかで選択するというのです。音楽とはまったく縁のない環境で育った子どもは、なにかのきっかけ(幼稚園にあったオルガンをたまたま弾いたとか)で自分に他人とちがう才能があることに気づきます。彼女が子ども集団のなかで自分を目立たせようと思えば、無意識のうちにその利点を最大限に活かそうとするでしょう。音楽によって彼女はみんなから注目され、その報酬によってますます音楽が好きになります。
それに対して音楽教師の娘は、まわりにいるのは音楽関係者の子どもたちばかりだから、すこしくらいピアノがうまくても誰も驚いてくれません。メイクやファッションのほうがずっと目立てるのなら、音楽に興味をもつ理由などどこにもないというのです。