言い分

ユーモア作家デイヴ・バリーは、15歳の夏にはじめてタバコを体験していますが、それはやむにやまれぬ理由からだったそうです。

喫煙反対派の言い分として、「厭わしい中毒性を引き起こすもので、徐々にだが確実に息切れを起こし、肌の色もドス黒くなり、体は腫瘍だらけの病人と化してしまう。そして残る片方の肺からは、有毒な老廃物が茶色の痰となって吐き出されるようになるのです。」

喫煙賛成派の言い分として、「他のティーンエイジャーたちがやっています。」

ティーンエイジャーたちにタバコが及ぼす健康の害、しわだらけになる!不能になる!死んでしまう!を話しても無駄だと言います。それは大人のプロパガンダであり、大人の言い分です。大人が喫煙を好ましく思わないからこそ、危険で、悪評高き点があるからこそ、ティーンエイジャーはそれに惹かれるのです。

喫煙は気持ちの悪いものだと話しても効果はありません。それは、苦い経験からハリスが学んだことだそうです。大人があるものを気持ち悪いと評しただけで、アンチ大人たちはそれに惹かれるのです。

彼らと同年代の人に講演を依頼してもだめだと言います。講演者は裏切り者、メルの一人、ガリ勉、いい子ぶりっ子とみなされるだけです。大人に貧乏くじを引かされた哀れな奴としてしか見てもらえません。

タバコを入手しにくくすることでさえ効果薄だと言います。マサチューセッツ州の町では未成年者にタバコを販売した店を厳重に取り締まりましたが、それでもティーンエイジャーたちの喫煙はなくならなかったそうです。タバコの入手を難しくしたことで、ますます彼らのチャレンジ精神を駆り立ててしまっただけだったそうです。

大人が思春期の子どもに及ぼすことのできる力は限られています。ティーンエイジャーたちは独自の文化を構築しますが、それは仲間集団ごとに異なります。彼らが大人文化のどの部分を取り入れどの部分を放棄するのか、そして新しく独自に考案するものがどういうものであるか、私たちには予測もつかなければ、それを決めることもできません。

とはいえ私たちは無力ではないとハリスは言います。大人は彼らの文化にとっての主要情報源であるメディアを管理する立場にあります。メディアが喫煙者を反逆者や自らを危険にさらす者として描き、喫煙を「どうにでもなれ」という意思表示に用いたことで、タバコはティーンエイジャーにとって魅力的な存在となってしまったのです。映画やテレビ製作者たちが自発的に俳優たち(ヒーローであろうが、悪党であろうがかまいません)が、タバコを吸う姿を撮影することをやめないかぎり、この問題は解決しないだろうとハリスは言います。

タバコの値段を急騰させるのも効果があるかもしれません。少なくとも喫煙者の喫煙量が減り、常習者になりうる人の数は減るでしょう。

では、反喫煙広告が意味あるでしょうか? それも難しいかもしれません。最良の策は、タバコ産業の大物たちが、喫煙奨励は大人がティーンエイジャーに対して企んだ策略であることを理解させる広告キャンペーンを一展開することだと言います。野放図なタバコ会社のお偉いさんたちがティーンエイジャーがタバコを一箱買うごとに愉快そうに甲高く笑う様子を描けばいいと提案します。だまされやすいティーンエイジャーに商品を売りこもうとその広告、喫煙をかっこいしとして、喫煙者をセクシーな人物として描写する広告を考案している様子を描けばいいと言います。喫煙を、〈われわれ〉が望むことではなく、〈彼ら〉がわれわれに望むこととして描けばいいのだと言うのです。