仲間のようになりたい

子どもは仲間のようになりたいと願います。中でも仲間集団で高位に就く子どものようになりたいのです。年齢に幅がある子どもたちで形成されるヤノマミ族のような部族生活者の村でのような子ども集団では、高位に就く子どもといえば、年長の子どもたちです。年少の子どもたちは一つか二つ年上の子どもたちに憧れ、彼らをうらやみます。
教育が義務づけられている社会では、子どもたちは「学校で取り残される」ことを最も恐れていることの第三位に挙げているそうです。それより勝っていたのは、「親を失う」と「視力を失う」の二点だけだそうです。「学校でおもらしをする」は第四位だそうです。ペニスを結びつけていないヤノマミ族の少年は、学校でおもらしをしてしまったアメリカの子どものように、取り残されてしまうのです。同年代もしくは自分より幼い子どもが既にペニスを結びつけているときに、ペニスをふらふらさせたまま歩きまわるのは屈辱的なことなのです。ヤノマミ族の少年が自分の包皮を腰紐に結びつけるのは、父親を装っているのではないのです。彼は村の他の子どもたちの中で自分の地位を固守しようとしているのです。年長の少年に笑われることがムチに、年少の子から尊敬されることがアメになるのです。
私たちの都市化の進んだ社会では、仲間集団は同年代の子どもたちで形成されるのが普通です。ところが同年代の集団においても、子どもたちの肉体的、心理的成熟度にはばらつきがあります。そのような集団では、より成熟している者が高位に就くのです。成熟度と地位が同一視されているからこそ、年少の子どもたちは年長の子どもたちと同じように行動し、話し、そして装いたいと願うのです。いかに行動し、話し、装うべきか、子どもたちはその指標を成人に求めようとはしません。なぜなら、子どもと成人とでは、属する社会的カテゴリーも違えば、従うべき規則も違うからです。より高い地位に就きたい、年長の子どものようになりたいという願いは集団の中に対して、〈子ども〉という社会的カテゴリーの中に対していだかれるのです。成人はまったく別の存在なのです。子どもにとって成人は〈われわれ〉の中の優越者ではないのです。成人は〈彼ら〉なのだとハリスは言うのです。
ヤノマミ族では少年も成人した男性もともにペニスを結びつけるということに、惑わされないでもらいたいとハリスは言います。これは少年が父親のようになろうとしているわけではないからです。社会の中には、複数の社会的カテゴリーにまたがる共通点が非常に多いのです。ヤノマミ族の男性、女性、そして子どもたちは、皆同じ髪型をしています。頭頂部を小さく丸く剃っているのです。アメリ力では男性も、女性も、そして子どもたちも皆、フォークとス。フーンを使って食べます。
さらにヤノマミ族の少年が遊びの中で成人した男性になりすますことがあることにも惑わされないでもらいたいと言います。彼が演じる役は彼自身の父親ではないからです。それは一般的な、さらには理想化された男性像なのです。遊びの中では子どもたちは何でも好きなものになれます。魔女、馬、スーパーマン、赤ちゃん。彼らはそのような空想と現実を混同させることはありません。おままごとの中で母親になりすましているアメリカの子どもは実生活では自分を母親だとは思っていません。学校ごっこの中で先生役をしている子どもも、教室で間違ってそのように行動してしまうことはないのです。