道徳心の教育

機能不全家族。確かにありえないことではないとハリスは言います。このような家庭を訪れたいとも思わなければ、そこに住みたいとも思わないと彼女は言います。この息子の実の父親でさえ、このような家庭には住みたくないでしょう。古い笑い話をハリスは紹介しています。

心理学者:ジョニーにはやさしくしてあげてください。彼の家庭はすっかりバラバラになってしまっているので。

教師:そうでしようね。ジョニーならどんな家庭でもバラバラにしてしまうでしようね。

親にとって育てるのが難しい子、社会化を施すのが難しい子。ほとんどの心理学者にとってはこの二つの言いまわしは事実上同じことを意味しています。というのも社会化を施すのは親の役目だと考えられているからです。ハリスはこの二つは別物だと思っています。両者間に相関関係が成立する場合が多いのは事実ですが、それは子どもたちがどこへ行くにも自分が受け継いだ特徴をもち歩くからだと言います。ところが、その相関関係は決して強いものではありません。なぜなら子育てが行なわれる家庭内の社会的状況は、社会化が施される家庭外の社会的状況とは大きく異なるからだと言うのです。家庭では鼻持ちならない子どもも、家庭外ではそうとも限りません。ジョニーはどこへ行っても鼻持ちならない子どもかもしれませんが、幸いなことにそのような子どもはまれだと言うのです。

社会化という言葉は、家庭で施されるべき道徳心の教育を意味する場合が圧倒的に多いのです。親は子どもたちに、盗まないこと、嘘をつかないこと、ズルをしないことを教える責任があるとハリスは考えています。ところがここでもまた、子どもたちの家での行動とそれ以外の場所での行動の相関関係は低いのです。家庭内で誰にも見られていないと思ったときにルールを破ることが観察されている子どもが、学校のテストや公園での遊びでズルをはたらく可能性が他の子どもと比べて際だって高いわけではないそうです。道徳心は、身につけるべき他の社会的行動と同様、それを獲得した状况と結びついているというのです。腕っこきドジャーも母親の前ではとびっきりのよい子だったのかもしれません。もっとも母親がいたらの話だと言います。

もし母親が生きていればオリヴァーも母親の悩みの種になっていたかもしれないと、とは考えにくいと言います。オリヴァーは行く先々で人と親しくなりました。女性の心をとりこにしました。生まれながらのやさしさと端正な顔立ちでいつもうまく立ちまわりました。ディケンズが描写したように、オリヴァーに備わっていた特性はまさに扱いやすい子どもの特徴そのものでした。他人の気持ちに敏感で、ほとんど臆病とも言えるほど刑罰や苦痛を恐れたのです。彼は明るく、一時の感情に駆られることもなく、攻撃的でもありませんでした。

ディケンズは正しかったのでしょうか。生まれながらにして善である子どもはいるのでしょうか。ハリスは、ここでジョン・ワトソンが好むであろう実験をしてみています。

道徳心の教育” への10件のコメント

  1. 家庭の内と外。子どもは確かに異なった行動をとるのでしょう。いや、子どもに限らず、おとなだってそうした傾向はあるでしょう。「社会化を施すのは親の役目」と確かに思われています。子どもの行為が反社会的な場合、その子が育っている社会の環境を云々するより、その子の親の在り方、子育ての仕方を云々することが多いような気がします。いわゆる「不良」グループの中にいれば、たいていは不良になってしまうのでしょう。逆に、不良ではないグループに所属していれば不良さ加減が減るような気もします。とにかく、私たちは影響を受けやすい存在です。競い合って他人を蹴落として這い上がる社会にいれば、そのことが常識ですから、そうした行為に入るでしょう。逆に、助け合ったり支え合ったりする仲間の内にあれば、同様に助け合ったり支え合ったりする可能性が高くなるでしょう。私は競い合って・・・が苦手です。「勝ち組」とか「負け組」という表現を知った時、世の中そこまで来たか、と落胆しました。

  2. 家庭内では守らない規則も一歩家庭外に出ればしっかりとこなす。幼い頃は私もそのようだったのを覚えています。それは、本当に身近で簡単な、ようを足すときに便座をあげるというようなことから、人のものを勝手にとらないというような道徳的なことまでさまざまでした。自分のテリトリーではない場所の緊張感やよく知らない大人の存在など、頑強な理性を作り上げる要素は腐るほどありましたが、一番自分の理性を働かせていたのは、自分や自分の家族がよく思われたいというようなことだったと思います。

  3. 「社会化という言葉は、家庭で施されるべき道徳心の教育を意味する場合が圧倒的に多い」面白いですね、となると授業で道徳を教える、ということは、家庭で出来なくなってしまった、それは道徳心というものが現代人に育ちにくい時代になってしまったということの表れなのかもわからないと思えてきます。徳を積む、という、先人が培ってきた教えに今こそ立ち返る時なのかもわかりませんね。人に親切にしたり、明るい言葉で話したり、そういう家庭にいる子は道徳心が確かに育まれていきそうですが、やはり家庭での教え、学びには限界があるでしょう。その子を取り囲む環境について考えることだと改めて思います。

  4. 人間は家の中と外では全くの別人だと捉えてもいいのかもしれないと、今までのハリス氏の見解を読んでいて思っていました。よく、犯罪を犯してしまった人の周囲に話を聞くと「そんな人には見えなかった」というインタビュー内容を見ることがありますが、そんなものなんだと。〝子育てが行なわれる家庭内の社会的状況は、社会化が施される家庭外の社会的状況とは大きく異なる〟外で他人に親切にするのと親に親切にするのとでは意味が異なります。親しい人にツッコミ入れるのと知らない人にツッコミ入れるのとでは相手の感じ方が違うということを学ぶ場は家庭ではないのでしょう。家庭の中というのは限界があり、それだけでは足りないといえるのかもしれませんね。

  5. 初めて新宿せいが保育園に行って、藤森先生に会って保育の話を聞いた時のことを思い出します。その頃、「見守る保育を受けてきた子どもたちはどうなっていくんでしょうか」という私の質問に対して藤森先生は「世渡りが上手になります」とおっしゃられていました。異年齢やチーム保育を通して多様性や関りに広がりがあることで、「悪いところには自分からよらないようになる」と言っていたのを思い出します。実際、今うちの園の卒園児のお母さんも異年齢保育を通して、幅の広い関係ができたので、友だち関係でも限定的ではなく、逃げ道を作るということを言っていました。家庭外と家庭内と子どもの見せる様子が違うのは環境が違うから当然だと思います。問題はその時にどういった方法で自分なりに環境に身を処すのかが重要になってきます。だからこそ、様々な多様性のある社会をもっと作らなければいけないのでしょうね。

  6. 「道徳心は、身につけるべき他の社会的行動と同様、それを獲得した状况と結びついているというのです」とあります。あ、そうなんどとすぐに理解できない内容です。獲得した状況に結びつくというのは一体どんなときなのか。親が「盗まないこと、嘘をつかないこと、ズルをしないことを教える」ということなのか、社会に出て経験したときの状況なのか。難しいですね。外と内での子どもの違う行動というのはいつも面白いなと思います。親になってそこの部分をどうするべきであるか悩むことはあります。親としてどんなことを伝えなければならないのか日々考えさせられますね。

  7. よく藤森先生の講演でも子ども達の道徳心については、自らの経験、子ども集団の中から学ぶと言われいたと思います。もちろん学校の授業のように教えてもらう事も時には必要なのかもしれませんが、乳幼児期について考えると、やはり体験が一番であり、それぞれがリンクして初めて身に付くのでしょう。先日、息子とカードゲームをしていた時に、息子は勝ちたいが為に私に見られないようにズルをしていました。彼なりに頭を働かせて細工をしているので、そういう面では知恵を使っていると思いますが、それを園の友人とゲームをした時にやると、おそらく反感を食らってケンカになるでしょう。本人には「それを友達の前でやると、怒るんじゃない?」と伝えました。意外と凹んでいたので理解していたと思いますが、やはり親が伝えられる道徳心というのは限界があるように感じました。この時期はたくさん失敗して、その失敗の中で多くのことを学んでもらいたいです。

  8. 「子育てが行なわれる家庭内の社会的状況は、社会化が施される家庭外の社会的状況とは大きく異なるからだと言うのです」「子どもたちの家での行動とそれ以外の場所での行動の相関関係は低いのです」とありました。道徳や社会でのふるまい方、礼儀とか挨拶などをしつけとして家庭でしつけていかなければいけないというような言葉をよく耳にします。ハリスのこういった考えを知ると、それは家庭だけで行えるものではないということを感じます。大人もそうですが、集団が変われば自分の振る舞いも変わりますね。その集団での自分の立ち位置とか、役目を意識することもあります。そうだとすると様々な集団、社会に身を置くことが大切になってくるということなのでしょうか?乳幼児から集団の中で過ごすこと、異年齢で過ごすことの重要性を感じます。

  9. 「家庭では鼻持ちならない子どもも、家庭外ではそうとも限りません」とあり、内弁慶という言葉が浮かんできました。そして、その逆も然りですね。よく保護者との懇談などで、園での子どもの様子を話すと、家での姿とのあまりの違いに驚かれる人がいます。「子育てが行なわれる家庭内の社会的状況は、社会化が施される家庭外の社会的状況とは大きく異なる」とあるように、子どもの置かれている社会的状況が異なるのですから、家庭の姿をそのまま外の姿に投影はできませんね。家庭だからこそ育てることのできるもの、外の社会だからこそ育むことのできるものがあり、それらをいっしょくたにして捉えるべきではありませんね。

  10. よく園での姿と家庭での姿が違うということを保護者との会話でも聞かれ、我が子の姿を聞いても、違いを感じる部分があります。ハリス氏の内容にも、集団の一員として、そのグループに必要な行動をすることで集団の1人として、受け入れられる、われわれというカテゴリーのなかで、生きていくすべであるとあり、そういった面から考えると、子どもが考えられた行動により、社会を築くための基盤には、多様な子ども、人との関わりによって社会的経験を積み重ねていくことが必要だと思います。

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