性善・性悪

ディケンズの『オリヴァー・ツイスト』では、ファギンが、お腹をすかせた男の子四、五人に〈われわれ〉意識を養わせ、スリの手ほどきをし、彼らを〈彼ら〉である裕福な人々にけしかけたのです。ところが自分の手下であったロンドンのスラム街の子どもたちには滞りない効果を見せたファギン派もオリヴァーには通用しませんでした。ディケンズは、それをオリヴァーが良家の出身であることに帰していますが、その原因は他にあるかもしれないとハリスは考えています。オリヴァーは自分自身をファギンの一味である他の男の子たちと同一視しませんでした。彼らはロンドン生まれですが、オリヴァーは違っていたからです。彼らは盗人の隠語を話しましたが、オリヴァーにとってそれはまるで外国語のように聞こえたのです。あまりに違っている点が多く、新しい仲間に自分を順応させる間もなく、オリヴァーは彼らの行為が法に反することに気づいたのです。

『オリヴァー・ツイスト』が出版されたのは1838年ですが、当時はまだ性悪説、性善説が政治的に認められていた時代です。個々が属する人種もしくは民族集団によって、その人の悪行を予測できると考えることが実際に政治的にも認められていた時代です。ディケンズはファギンを「ユダヤ教徒」とも呼んでいました。時代は決して最悪の時ではありませんでしたが、それはたしかに最良の時でもありませんでした。

今日、個々に着眼した解釈、すなわち生まれながらにして悪なる子どもたちがいるという概念も、集団に着眼した解釈も、ともに政治的には不適切だと考えられています。西洋文化は哲学者ルソーの見解である、「子どもたちは皆生まれながらにして善であり、社会、すなわち彼らの環境がそれを堕落させてしまう」という見解に回帰した形となりました。これを楽観するべきか悲観するべきかはわかりませんが、これではあまりに多くのことが説明されないままとなってしまうとハリスは言います。ディケンズが生きた時代のロンドンのスラム街においてですら、全員が腕っこきドジャーになれたわけではないのです。同じ家庭の中でさえ、一人は良民となり、別の一人は犯罪者として一生を過ごすことになる場合があるのだというのです。

私たちは、もはや生まれながらにして悪なる子どもたちがいるとは言いませんが、残念ながら、遠まわしにそれを肯定せざるをえない状況にあると言います。今日、心理学者たちは子どもたちの中には「難しい」気質をもって生まれてくる子どもたちがいるという表現を使います。難しいとは、親が育てるのが難しい、社会化を果たすのが難しいことを意味します。活発で衝動的、攻撃的で怒りやすい。日々の仕事に飽きやすく、興奮を求める傾向にあります。傷つくことを恐れず、他人の気持ちに鈍感です。たいていは筋肉質で、IQは平均をわずかに下まわります。これらの特徴はすべて明らかに遺伝的な要素を含んでいます。

発達心理学者たちは、扱いの難しい子どもが管理能力の劣る親のもとに生まれた場合の弊害について述べています。実際こうした親子の組み合わせは、仮にあらゆる遺伝子が各世代に無作為に分配されることがあったとしたら、その場合よりも高い頻度で出現しているとハリスは言います。息子とその母親は悪循環に陥り、さらなる悪化の一途をたどることになります。母親は息子に何かをするように、もしくはしないようにと指示しますが、息子はそれを無視します。母親はふたたび同じ言葉を繰り返します。すると彼は怒りだし、母親は諦めてしまうのです。最終的には母親も怒りだし、息子を激しく叱責しますが、時既に遅し。あまりに一貫性に欠けていて、教育的効果をもたらすこともありません。いずれにしてもこの子どもは傷つくことを恐れない子どもだと言います。少なくとも退屈しのぎくらいにはなったことぐらいです。

性善・性悪” への10件のコメント

  1. 結果として「悪」と呼ばれる行為をしてしまうヒトたちがいます。窃盗、傷害、果ては殺人。私はルソーのように「子どもたちは皆生まれながらにして善であり、社会、すなわち彼らの環境がそれを堕落させてしまう」と信じたい。窃盗、傷害、殺人が行われる社会、環境は、善を悪に変化させたことになります。では私たちが今生きている社会、環境はそうした犯罪を起こすがゆえに悪と決めつけることができるのだろうか。いろいろな問題があります。そしてこうした問題が生じるのは今の時代に限ったことではなく昔からあった。日本の今日を半世紀前と比較すると交通事故は減ったし犯罪の件数も減少してきたのではないかと思われます。その意味では社会はよくなった、環境は改善されてきた、と思います。喫煙が当たり前でなくなったことも良い傾向です。減少はするが無くならないのはやはり「遺伝」によるもの?私たちはヒト同士でを殺し合います。中東やアフリカでは今でも戦争が起こっている。ホモサピエンスがホモサピエンスを殺戮している。今年1月に亡くなった哲学者梅原猛氏は人類を定義して「戦争する動物」としています。同類を殺す動物。遺伝子がその性質を伝えているのでしょうか?

  2. 個々が属する人種もしくは民族集団によってその人の悪行を予測できる、この考えにより宗教や人種による差別、迫害がうまれてしまうわけですが、まさに家庭内でも似たようなことが起きているように思いました。それは、一番上の子なんだからしっかりしなさい、といった叱り方や、男の子なんだから、女の子なんだからと世間のステレオタイプに当て嵌めようとする叱り方です。同じ家庭の中から良民と罪人が生まれうる可能性があるのだから一人一人の考え方や生き方を尊重して育児はしないといけないと改めて思いました。

  3. 「発達心理学者たちは、扱いの難しい子どもが管理能力の劣る親のもとに生まれた場合の弊害について述べています。」こうなった場合の子育てや、家庭生活というのは過酷なものだろうと想像します。子どもを育てる、ということは本当に一筋縄ではいかないことばかりですし、大人が大人になるべくしてならなければならないようか場面を突きつけられたり、どうにか気持ちを切り替えなければならなかったり、妥協点を見つけなければならなかったり、そういったことの連続です。必要な修行が待っていて、過不足ない相手が用意されている、そんな風に思いながら、子育ての大変な局面は乗り切っていくというような、気楽な気構えが大切なのかもわかりません。

  4. 〝扱いの難しい子どもが管理能力の劣る親のもとに生まれた場合の弊害〟とあります。今日、親は両親ともに働き、子どもとの時間がなくなっていく家庭が多くあるのではないかと思います。そういう子どもはかまって欲しさから「扱いの難しい子」と思われるような行動をして、少しでも親の気を引こうとすることもその流れから当然だと思います。そうなると書かれてある通りの連鎖が起こり、深みへとはまっていく。子育ては大変です。お金も当然ながら必要です。バランスをとることから難しい。やはり、大人である親も共に成長していくような感覚でいることで、そうした困難が少しでもやわらいでいくような気がしました。

  5. どんな環境、どんな家庭にも良民になる子どももいれば、犯罪者になる子どももいる。それはある意味で、「生まれながらにして悪なる子・良なる子が生まれる」ということを示しているということですね。確かに「気質」というものがある以上、個々の子どもたち自体の感性や性格が生まれもってあったとしても不思議ではありません。よく子どもの様子を見て、藤森先生も「世の中には根っからの暴力をふるうことが好きな人がいる。だからこそ、そういったことが生かせるようなベクトルを示してあげる必要がある」といっていたのを思い出しました。しかし、そう思おうとすると、その子どもの様子を認めてあげなければいけません。一人の人として認めなければ、その意識の転換はできないでしょうね。やはり「一人一人に真心をもって接しただろうか」ということが大切になってきますね。

  6. 「子どもたちは皆生まれながらにして善であり、社会、すなわち彼らの環境がそれを堕落させてしまう」というルソーのことはよく耳にします。そうあって欲しい気持ちはありますが実際にはそうではないのかもしれないと本文を読む限り思えてきますね。その遺伝の部分でどうしても「難しい子」というのが浮かび上がってきてしまいます。例え遺伝で難しい子がいたとしてもそれは保育の環境で変えることはできるのですかね。さまざまな要因があるとは思いますが、エンゾさんのコメントにもありますが認めてあげることで自分がいていいんだという安心感を与えることが非常に重要になってくるのかなと感じます。

  7. 子どもは性善か性悪か?と聞かれると前者の方だと個人的には言いたいところですが、やはり生まれながらにして遺伝の影響もあり、ブログを引用するならば難しい気質を持って生まれてくるのは確かかもしれません。それを性悪と呼ぶには個人的には腑に落ちないというか、完全な悪ではないような気がします。例え気質がそうだとしても、やはり乳幼児期の育ちによってはいかように変わると思いますし、そう信じたいです。「母親との悪循環」とも書かれていますが、だからこそ子ども集団を扱っている乳幼児施設の役割といのがとても重要なのだと思います。

  8. 子どもたちの中には難しい気質を持って生まれてくる子がいること、そして、そういった子どもが管理能力の劣る親の元に生まれてきた場合の弊害があるということとありました。遺伝要素、環境要素のどちらも子どもには影響するということを感じます。どちらかに影響があるのではなく、様々なことが関連しあっているという考え方をすることが大切なのかもしれませんね。何か問題が起こった時に、その問題の原因をひとつの要因だけが影響しているかのような推測がされることがありますが、それでは本当の解決策を見つけることはできなくなってしまうのかもしれません。そういう意味でも「子どもたちの中には難しい気質を持って生まれてくる子がいること」ということを理解しておくことの大切さも感じました。

  9. ルソーの見解だと曖昧な部分が多く、現代の子どもにおける様々な気質や行動を説明しきれないものが増えているのではないでしょうか。生まれながらに善である子どもがどのように成長するかは環境次第であるという考え方では説明しきれない姿や事象があることは確かです。ただ、逆にそれが遺伝子だけのものではないはずですし、環境の影響ももちろん受けているはずです。遺伝と環境、それら2つの相乗効果によって人は成長するように思えます。

  10. “私たちは、もはや生まれながらにして悪なる子どもたちがいるとは言いませんが、残念ながら、遠まわしにそれを肯定せざるをえない状況にある”こういった現状がある社会のなかではわたしたちのするべきことはなんなのかを考えていくなかで、やはり、親からの子育てをうけるのではなく、社会の集団のなかで子育てを受けることによって子どもの持ち得ている遺伝的要素に関しても少なからずでは、変わってくるものであろうと思います。確かに遺伝的要素ではありますが、それが、悪い影響、環境のなかで生活することによって、高い頻度で出現しているに繋がってくることが考えられました。生きてきたものが生きやすい環境ではなく、これからの時代を担う生きている子どもが社会で生きやすい環境であるために何ができるのかを考えていけことが必要なことだと思います。

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