「私」

子ども時代および思春期に仲間集団の中で私たちが獲得する性格は、死ぬまで私たちに連れ添うことになります。遠近両用の眼鏡が必要になっても、目を通して外界を見るのはその「私」なのだとハリスは言います。この不朽で不変の「私」は自身が宿る肉体の変化に何度も驚かされ、たびたび幻減し、時には喜びを感じます。老人たちは奇妙にも変わってしまった自分の姿に若者たちが気づいてくれないのではないかと恐れます。それには正当な理由があると言うのです。技術の発達がそれを食い止めたり逆転させたりすることを可能にしたので、中には自分の外観が中身とあまりにかけ離れないようそれを試す者もいます。

ハリス自身も同じようにそのミスマッチを痛切に感じていると言いますが、それを食い止めようとは思わないそうです。時折鏡をのぞきこんでは、白髪や、鼻、口、目の周りの皺を見て、なんて滑稽なと一瞬思うそうです。高校の演劇会でおばあさん役を演ずるためにみっともない衣装を着た私がそこにいると言います。白い粉で髪を白くし、アイブロー・ペンシルで皺を描きます。ただし、もはやそれらを洗いながすことはできないのです。

17歳から25歳までのどこかの段階で、内在する「私」の変化が止まります。変化が止まるのは、脳が物理的に成熟したからかもしれません。そうであるならば女性よりも成熟が遅い男性は、女性よりもわずかですが成形期間が長くなるはずです。大人が子どものときのような感覚で仲聞集団をもたなくなるから変化が止まるのかもしれません。そうであるならば大学に行く人は行かない人よりも成形期間がわすかですが長くなるかもしれません。もしくは大人になると集団規範に同化しない場合の罰則がはるかに寛大になるからかもしれないのです。そうであるならば性別や学歴などによる系統的な違いは見られないはずです。

子ども時代そして思春期に形成され、洗練された性格は、死ぬまで私たちに連れ添うのです。ハリスの母親はアルツハイマー病を患い、話すこともできなくなってしまったそうですが、80歳のときにはまだ話すことできました。80歳の誕生日に何歳になったかわかるかとハリスが訊いたところ、質間の趣旨は理解できたものの返答の根拠となる記憶を失っていた母親は、でたらめにこう答えたそうです。「20歳かしら?」

アメリカの医学会機関誌の論説によると、カール・マケルヒーは児童殺人犯でした。いや、子どもを殺した犯人ではありません。殺人を犯した7歳の少年です。その論説は100年前に掲載されたものですが、歴史的な関心を呼び、最近JAMAに再掲されたそうです。

カールの犯した犯罪の詳細はわからないそうですが、というのは論説の焦点は犯罪者自身ではなく、その母親におかれていたからです。

「カールが生まれる前のマケルヒニー夫人は大の小説好きだ。朝、昼、晩と彼女の頭の中は空想の、それも最も残虐な事件のことでいっぱいだった。物事の認識に関しては繊細で、感受性豊かな女性であったため、小説に描かれた過度の窮状、心の動き、悪行をまるで現実のものであるかのように受け止め、カールが生まれるまでの数週間、彼女の心は惨めにも歪められてしまっていた。生まれた男の子は犯罪に関する意識の発達に異常が見られた。彼は残酷さを好んだ。その特殊な欲求を満たすには非常に恐ろしいことを起こさなければならなかった。これほどまでに非凡なケースは犯罪史上初めてではないだろうか。男の子が成熟すれば、これらの心の状態も成熟することになる。彼は社会によって危険な存在だ。」

「私」” への10件のコメント

  1. 事の良し悪しはともかく「子ども時代および思春期に仲間集団の中で私たちが獲得する性格は、死ぬまで私たちに連れ添うことになります。」この断定には異論はありません。私は私であり、あなたはあなた、そしてかれらはかれら、です。親からの遺伝による性格もあるでしょう。しかし、割合は多くないと言われますが、環境による性格形成があるように思います。このことを実証するにはかなり論証の精査の積み重ねが必要となるのでしょう。何はともあれ「子ども時代および思春期」の関わる集団の影響は否定できません。但し、自身の経験を振り返るならば受けた影響は大人になって気づき、変えていくことは可能です。ここで私が気付くことは、変化を是とする性格の形成です。または,、こだわらない性格の形成です。「まぁ、なんとかなるさ」精神をその時期に培えたか、ということです。そしていろいろな発想ができる性格。好奇心旺盛な性格。さらには他者および集団を思いやれる性格。もっとも重要なことは自分を愛せる性格です。三つ子の魂百まで、とはよく言ったものです。「子ども時代」どころか3歳までに死ぬまで連れそう性格は決まってしまう。だとすれば、周囲環境、すなわち人的物的空間的環境が途轍もなく重要な意味を帯びてくることがわかります。3歳未満児の保育の重要さがわかります。

  2. 大人が子供の時のような感覚で仲間集団を持たなくなるから変化が止まる、この一文を読んだときになにかはっとするものがありました。小学校低学年の頃は、会話をしたことがなくても同じクラスであれば、近くの席になればもう仲良しの友達でした。中学生でも同じクラスであれば割りとすぐに仲は深まります。しかし成長するにつれ同じ室内にいて隣の席に座ってもすぐに友達とはいきません。もちろん関わりのイベントが少ないということもありますが、はたしてこれは礼儀を覚えるという進化なのか、出会いを失うという退化なのか、今の私にはすぐには答えは出せませんでした。友人のなかで成人しても成長を続けてると感じる人は旅へ行ったり出会いの場へ出向いたりと人との出会い、交流の機会を多く設けている人です。今の私が変化を望むのであれば、少し生き方を変える必要があるのでしょうか。

  3. 「女性よりも成熟が遅い男性は、女性よりもわずかですが成形期間が長くなるはず」neotenyの多く残ると言われる男性、ここでも改めて男性の幼さについて理解することができます。遊び心や子どもっぽさ、女性の先生方のようにしっかりしようと努めても苦しくなるばかりで、毎日うっかりしています。チームの先生方に毎日本当に感謝の気持ちでいっぱいになります。
    お陰様で毎日の保育は楽しく、このチームで今年一年を働けるのだと思うと、やっぱりわくわくしてしまいます。咲いた桜を見て、新年度の訪れを感じる帰り道です。

  4. 〝大人が子どものときのような感覚で仲聞集団をもたなくなるから変化が止まる〟とありますが、子どもの時のような感覚で集団をもてなくなってしまう側面もあるのだと思いました。子どもの頃は気軽に話し、すぐに仲良くなっていた時もあるのでしょうが、今では考えられないくらいの人見知りである自分も、子ども時代か思春期に作られたのでしょう。思うのは、余計な今この人に話しかけたら迷惑かなとか、この人は自分のことをどう思っているんだろうなど相手を考えすぎてしまい、考え過ぎて話しかけられないのではないかと…思っていますが、分かっていてもなかな変えられません。

  5. 「子ども時代および思春期に仲間集団の中で私たちが獲得する性格は、死ぬまで私たちに連れ添うことになります。」という冒頭のパンチ力がすごいですね。しかし考えてみれば三つ子の魂百までもという言葉や我々がしている保育であったり人間の基礎を育てる乳幼児期と考えると当たり前ですね。やはり乳幼児期の重要性というのをより感じさせてくれます。その時にいかに自分を好きになって思いやりを持つことの大事さを知るのか、逆に言えば最後の文章のようなこともありえることから本当に環境の影響を理解しているからこその怖さというのも感じます。

  6. もう30歳も半ばに達していますが、30歳といえばもっと「大人」といった感覚がありましたが、それほど大人になったような感覚もなく「年甲斐もなく」といった気分になります。そして、周りの友だちに関しても、同じことが言うことが多いですし、「もう○○歳」かと再認識することが多いのですが、それは脳が成熟し、性格などができあがったことで変化が止まったからなのですね。この感覚はこれからも同じように感じるものなのでしょう。また、最後のカール・マケルヒ―の母親の話ですが、とても興味深いものがありますね。妊娠しお腹の中にいる胎児に母親の思考が乗り移ったかのような影響を受けているのがわかります。以前にも同じような話がありましたが、私の兄や私も実際、そのころに母親が読んでいた小説の影響を受けていたであろうことが心当たりあります。性格の決定というのは様々なところからの影響と環境によって生まれるというのがわかりますが、その過程が複雑すぎて混乱します。

  7. 今の自分の性格の基礎は乳幼児期における仲間集団の中で獲得したと思うと、自分の歩んできた道をできる限り思い出してみると、まぁなんとも言えない内容のような気がします。確かに内面というか、脳が物理的に成熟した25歳くらいで止まってしまうと書いてありますが、そこから歳を取れば取るほど外見は衰えるのは目に見えてますが、脳は25歳のままだと、その差に対して「歳をとったなぁ」幻滅する人がいると思います。少しコメントがずれてしまいましたね。
    カールマケルヒーに書かれた論説ですが、生まれた時から残酷さを好み自分の欲求を満たすには非常に恐ろしい事をしなければならなかった・・・こうなるといくら子ども集団を大切とは言っても、なかなか難しいような気がしました。ただだからと言って個別対応してはもっと酷くなってしまう可能性もあります。もともとの性格をいかに様々な環境を通して少しでも社会に貢献し共生できるようにするの大切だと思いました。

  8. 年齢の次なる節目を迎えつつある私も、それによる衰えを食い止めようと悪あがきをしていることに気が付きます。そして、自分では気づいていないだけで、すでに年齢と心、そして外見等において既にミスマッチが起きているのではと感じてしまいました。「大人が子どものときのような感覚で仲聞集団をもたなくなるから変化が止まるのかもしれません」とありますが、これはわかる気がします。あれだけ仲の良かった仲間内で集まったとしても、昔ほどの無邪気さや盛り上がりがなく、逆にそういった状況になった場合では一歩引いている自分がいます。これは自信が大人になったことと、大人になると集団規範に同化しない場合の罰則がはるかに寛大になるということが関係しているように思えます。それは大人になることで同調、同化による思春期特有の仲間における規範の絶対的呪縛から解き放たれたからなのかもしれません。

  9. 記憶というものはどういうものなのでしょうか。内容とはズレてしまうかもしれませんが、そんなことを感じました。かつての記憶が残っているからこそ、ハリスが感じたようなミスマッチが起こるのかもしれません。ハリスの認知症の母の話がありましたが、若い頃の記憶は残っているためにそのような言葉が出たのですね。そうなると過去の記憶を失った人は自分というものをやはり認識できなくなってしまうのでしょうか。私たちは過去の記憶から自分を作り上げているということにもなるのでしょうか。

  10. “大人が子どものときのような感覚で仲聞集団をもたなくなるから変化が止まるのかもしれません”子どもが集団で生きていくなかで、どのような集団であるのかを感じ、その集団的文化にあった振る舞いを学び、行うことをごく自然に行うことができます。確かに、今の自分を考えてみてもそういった感覚はなくなっていると思います。同じクラスであれば、仲間、集団だったものが、大人になるにつれて、その規模も小さくなっていった気がします。考えすぎた関わりかたと相手の属する集団に適切な関わりかたのように思うところです。

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