文化に同化

誇りと悔いが入り交じる複雑な心境をかかえながら、バークスは自分が一生よそ者でありつづける社会で、自分の息子が立派な一員として成長していく姿を見守りました。彼はミケーレがイタリア人になるだろうと予想していたのでしょう。そうでなければ、彼にイタリア人の名前などつけたりはしません。それなのにパークスはもの寂しげです。子どもが自分から離れていく。ミケーレの場合、その距離は通常子どもが親から離れていく距離よりもさらに遠いのです。

おそらく移民である親ならば、自分の子どもが自分とは別の文化の一員になりつつある姿を見ると、誇りと悔いが混在する複雑な心境に陥るのでしょうが、時には誇りが強調され、時には悔いが強調されます。ヨーロッパ系アメリカ人と結婚したある日本人女性は英語力の習得の妨げとなるからと、子どもたちにはいっさい日本語で話しかけませんでした。実際はそのようなことはありえないのですが。その一方で、私の知っているユダヤ人の女性の祖父母はユダヤ教正統派で、ポーランドからアメリカに移住しましたが、子どもたちが不信心なアメリカ人になっていく姿を見て、子どもたちを連れてポーランドに戻ってしまいました。その祖父母に加えて、一人を除く子どもたちは全員ホロコーストで命を落としたのでした。

ユダヤ教正統派の親が子どもたちをアメリカで不信心なアメリカ人に感化されないようにニューヨーク州プルックリンでは、数世代前に東欧から伝わった宗教、育てる方法があるとハリスは言います。ニューヨーク州ブルックリンでは、数世代前に東欧から伝わった宗教、習慣、さらには服装や装飾までをも守りつづけているハシド派のユダヤ教徒たちがいるそうです。どのようにするかというと、彼ら自身で子どもたちを教育するのです。子どもたちはイェシーバと呼ばれる宗教学校に通学します。子どもたちは学校でも、居住地域でも別の文化に属する子どもたちと交わらないそうです。

もう一つ、支配文化に子どもたちが同化しないように努めている集団、それがカナダのキリスト教フッター派の人々だそうです。人々は財産を共有し、再洗礼の習慣があり、昔ながらの服装に身を包み、振る舞い方も厳格に規定されています。コロニーそれぞれに学校があり、あるイギリス人ジャーナリストによれば、そこで子どもたちは「畏怖の念、自制心、勤勉さ、そして鞭を恐れること」を学びます。フッター派のコロニーで一定期間を過ごしたそのジャーナリストは次のように説明しているそうです。

「フッター派の教育の目的は、フッター派が隔離された社会的存在でありつづけることにほかならない。フッター派の財産共有生活がつづけられるか否かは、神でも信仰でもなく、子どもたちの教育を掌握しつづけることができるかどうかにかかっている。“外の学校に通っていれば、とてもではないが、この習慣を守ることはできない”とある長老が胸の内を打ち明けた。」

ところが、親が支配文化のメンパーではない子どもたちのほとんどは「外の」学校に通学します。そこで何が起きるかというと、一定期間だけだが、子どもたちはバイカルチャラルになります。その結果、彼らは親の母国と、「外の」国の二つの国に属することになります。

文化に同化” への9件のコメント

  1. ハシド派のユダヤ教徒やフッター派の人々の徹底ぶりは凄いですね。そこまでの信仰心を持たない私にとってはただ驚くばかりではありますが、“外の学校に通っていれば、とてもではないが、この習慣を守ることはできない”とあるように、純粋な形で文化を伝えていこうとすれば隔離のような形を取らざるをえないのでしょう。様々な文化が交わることで新しい文化の形が生まれていく反面、それぞれの文化において大事にしなければならない本質の部分が失われてしまうこともあるわけですから、文化をどのような形で後世に残していくのかは難しい問題であると思います。そもそも、私自身にそこまでして文化を継承し、次の世代に伝えようとする意識があるかといえば、正直怪しいところです。私自身が文化のあり方、伝え方についてもっと本気で考える必要がありそうです。

  2. ユダヤ教正統派、キリスト教フッター派、アーミシュ、・・・自分たちの文化の維持伝承のために閉鎖的になるグループは、私たちが想像する以上に全世界には存在しているのだろうなと思うのです。私たちが生きている現代の世界はGAFAという神々の世界のようです。ITが生み出した神々。自分たちの宗教、信念、文化、風習を維持伝承しようとする人たちにとってこの現代神はどう映るのでしょうか。ある種宗教紛争の火種となってしまうのか。子どもたちは生まれてきた世界を所与のものとして受け止め、その受け入れ、すなわち受容から自分たちの生を始めます。それは単なる影響の域を超えているのでしょう。影響されながらも影響する主体へと変貌していく。GAFAの神々も始めから神ではなかったでしょう。受け入れ、影響されながら、やがてサーブし、インフルエンスしていく存在へと変容し神となった。そして受容と提供、応答と反応、等々往還関係の繰り返しの中から流れを創出してきたのでしょう。AI世界の到来は私たちホモサピエンスの未来を大きく激しく変えていくのでしょう。以上のようなことを考えてみました。

  3. 私の知り合いに朝鮮学校出身の人がいます。まさに日本に居ながら朝鮮国のことの文化に染まるわけですが、その人の話だと2分されるそうです。そのまま朝鮮文化を中心として生活するまたは帰化すること、逆に日本の文化の中で生活していくこととあるみたいです。しかし、多くは日本で生活するので、あまりどっぷりとというわけにはいかないのでしょうね。あまりデリケートなところなので、詳しくは言えないのですが、これまでの日本で生きてきた朝鮮の方々は同じような意識下の中にいたのかもしれません。そして、子どものほうが敏感であり、柔軟であります。話を聞いていても、その人は2か国に属しているような感覚でした。文化は日本、血は母国といったイデオロギーがあるように感じます。

  4. 「自分の子どもが自分とは別の文化の一員になりつつある姿を見ると、誇りと悔いが混在する複雑な心境に陥る」それ程までに自身の文化について強い想いを抱いたことがあっただろうか、と頭を働かせていない日々を積み重ねてはいけないことを改めて思います。例えば園でも諸外国出身の保護者をもつ子どもがいます。これからの時代、もっともっと多様化していく中で、例えばその子の文化と我が家の文化が交わる機会もあるのかもわからず、その時は強烈に感じることだろうと想像します。
    そういえば小学生の頃、友だちの家にお昼を食べに行くと、いただきますの前に神に祈りを捧げるという習慣を友だちとご家族はもっていて、その時一緒にしたことを思い出しました。その時味わった感情を思い出しました。書いていて昔のことを思い出すことができるのも、臥竜塾ブログにコメントを書く魅力の一つです。

  5. 〝誇りと悔いが混在する複雑な心境に陥る〟とありました。前回のコメントでの父親はまさにそのような心境であるように感じました。自分も父親ですが、例えば、息子が県外へ出て、久しぶりに帰って来た時に熊本弁がちがう方言になっていたりすると寂しくもあり、と同時に「立派にやってるんだな」と思うような複雑な気持ちになるのだろうなと思いました。
    今書いたことはまだ少し未来のことですが、今年から小学生の長男は学校で新たなものを吸収し、段々と変わるのでしょう。そのことは誇らしくもあり、寂しくもあるのだろうなと思いました。パークスさんの気持ちになっちゃいました。

  6. 「自分の子どもが自分とは別の文化の一員になりつつある姿を見ると、誇りと悔いが混在する複雑な心境に陥るのでしょうが、時には誇りが強調され、時には悔いが強調されます。」というのはなんともわかるようでわからない部分でもあるように感じます。異国の方が日本の文化に染まっていく姿は現場にいることでわかる時がありますが、やはり日本にいる以上日本の文化に従わざるおえない状況もあり、複雑な気持ちなったことを思い出します。そう考えると文化というのが人の影響に大きく作用していることもよくわかりますね。

  7. “おそらく移民である親ならば、自分の子どもが自分とは別の文化の一員になりつつある姿を見ると、誇りと悔いが混在する複雑な心境に陥るのでしょう”ということから考えると、親が育ってきた文化が親自身としても良いものだと思い、その文化を家庭で行ったとしても、外の社会へでてしまえば、こどもは、外の社会で必要な振る舞いや生き方を行うようになる、また、文化として、親が教育する、別の文化で生活していたとしても厳しい教えによって、親が育った文化で育てようとする、この文化というものへの執着した考えがこどもにとってどのように作用するのか考えていかなければならないと思いました。

  8. ブログを読みながら所属感という言葉を思い出しました。新宿せいがが開園したての頃に、外国籍の子どもが多いことから日本の文化をしっかりと子ども達に伝える事を大切にし、日本の伝統的な装飾、そして地域の地場産業を環境に多く取り入れました。今後、日本には多くの外国人が働きにくると思うと、まずは自分の文化をしっかりと理解しておく必要があると思いました。そこから初めて違う文化と接する事で比較ができたり、混雑せずに一つ一つの文化を大切にできるようになると思いました。

  9. 想像以上に過激な内容でした。そこまで激しい敵意を見せ、実際に行動に移してしまったのですね。「両集団がお互いに直接遭遇する前から両者は敵対心を露わにしたのです」とありました。姿は見ていなくとも、、声などから想像し、敵とみなしていたのでしょうか。分けることで、互いに敵対心を持つようになるということなのですね。両グループを対抗させるようなゲームをするというのは、なんとも争いを加速させてしまいそうなのがぷんぷんしてきます。学生時代の運動会や体育祭がそうですが、色別にチームを分け、競わすことで、学生たちのエネルギーが過熱したのを自分も含めて感じました。別の存在を作る、敵を作るということで生まれるエネルギーを利用しているのがもしかすると今のこの国でもあるのかもしれませんね。。。「ところが人々を分裂させる方が一つにまとのめるよりもはるかに簡単でした」とありましたが。まとめるというのは難しいことなのですね。

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