ふたつの文化

移民の子どもが普通の、人種に関係のないアメリカ人の仲間集団に入ると、親の文化はたちまちその姿を消してしまいます。香港からカリフォルニアに移住した父親は娘のアイデンティティの喪失を次のように嘆いているそうです。

「『彼女の学校の友だちは皆白人の女の子』と彼は末っ子について話した。『大きくなる段階ではそれで問題はない。ただ、白人の女の子は白人男性と結婚し、西欧の習慣に従う。そうなると自分との違いに気づくのだが、時すでに遅し、となってしまう。白人の友だちを重視して、あまり長いこと一緒の時間を過ごしていると、自分の集団を忘れてしまうんです』」

友だちが中国系アメリカ人ではなく、ヨーロッパ系アメリカ人であったことから、香港からの移住者の娘はおそらく、文化の融合ではなく、コード・スイッチングをしていたのだろうとハリスは言います。家庭では中国語を話し、お箸を使います。友だちの前では、英語で話し、ナイフとフォークを使います。コード・スイッチングする子どもは家の玄関を通り抜けるごとに二つの文化のスイッチを切り換えるのだと言うのです。玄関のドアを開けるたびにカチャ、カチャと。

ところがコード・スイッチングする子どもの二つの文化は異なるものですが、同等ではないと言います。移民の子どもたちは仲間たちの文化を家庭にもちこみ、親に示します。ところが、彼らは概して親の文化を仲間たちに示すことはしません。以前紹介したイギリスの心理言語学者の娘は黒人英語を家庭にもち帰りました。彼女は託児所の友人たちにイギリス英語を教えたりはしませんでした。ポルトガルから移民した両親にカナダで育てられたある心理学者は、子ども時代にはポルトガル語を毛嫌いしていました。親が彼女にポルトガル語で話しかけても、英語で答えていたそうです。ポルトガル語を改めて学習したいと思ったのは家族とともにひと夏を親のふるさとで過ごしてからのことだったそうです。

ティム・バークスは、彼のイタリア生まれの息子がいまだに英語で話そうとしていることがいかに幸いなことであるか、気づいていないと言います。ミケーレは典型的なコード・スイッチャーで、決して二つの言葉を混在させません。彼は父親に向かって「お父さん、fiscaleにならないで」とは言いません。自分の言いたいことにふさわしい英語の単語が思いつかないために、彼はイタリア語の単語を使うのですが、それを自分の知りうる一番近い英語に置き換えているのです。ミケーレは勇敢にも英語にこだわりつづけているのですが、英語の語彙がイタリア語に追いつかないのです。これはコード・スイッチャーに見られる典型的な現象だそうです。家庭ではある言葉、家庭の外では別の言葉を話す子どもたちは、家庭の外で使う言葉ばかりが上達し、家庭での言語は親とどうにか会話が交わせる程度にとどまってしまいます。日本生まれの親にカナダで育てられた言語学者、S・I・ハヤカワも「日本語はたどたどしく、語彙も幼稚」だと告白しているそうです。

子どもが家の玄関を通りすぎる時、その都度コード・スイッチが切り換わるので、状況は不安定ですが、じきに家庭外の慣習が優位になると、事態は解消されます。ところが、コード・スイッチングには、より長く留まるものもあります。それは家庭外に二つの異なる慣習がある場合です。

ふたつの文化” への9件のコメント

  1. 「コード・スイッチング」。前回のブログから親しんでいるキーワード。「玄関のドアを開けるたびにカチャ、カチャと。」あぁ、よくわかります。言語ではなく、訛りの世界でのコード・スイッチング。レベルは違えど本質的には通じるものがあるのでしょう。このコード・スイッチング。もしかすると、ホモ・サピエンスがアフリカ中央部を出て以来、実は連綿と行われてきた意識と行為なのではないか、とふと思いつきました。私たちは「行ったり来たり」しながら集団における生活を営んできたのではないか。想像をたくましくしてしまいます。私もそうだったし、わが子もおそらくそうであっただろう、コード・スイッチング。園の子どもたちの一人ひとり中には、このコード・スイッチングを日常としている子もいるのでしょう。私がフランス語を学んでいる年長の女の子は、日本語、フランス語、英語のトリリンガルな世界を日常としているようです。このコード・スイッチング、実はとても身近な行動様式だったのですね。

  2. 私の園に毎年母親の仕事で海外に年に半年近くいっている園児がいます。日本にいる期間も半分くらいでしょうか。私たちからすると二か国で言葉も英語と日本を喋れるということですごいだろうと思っていますが、実際のところは英語は話せても、日本語で表現する単語が見つからず、思わず英語で感情を訴えることがあります。まさにコード・スイッチが行われているようすなんだなと今回の内容を見ていて感じていました。もちろん、家では海外でも日本語を話すようにしているでしょうから、日本語もできます。しかし、その環境が英語圏であれば耳に入ってくる言葉は英語が中心になってくるでしょうし、環境要因における影響は大きいのでしょうね。このことを考えてみても、家庭の影響よりも周りの仲間や環境といったものの影響はとても大きいということがわかります。

  3. コードスイッチャーは非常に器用ですね。玄関のドアを開けるたびに文化を行き来するわけですから、私などでは直ぐにこんがらがってしまいそうです。仲間たちの文化を家庭にもちこみ、親に示すが、親の文化を仲間たちに示すことはしないというのは分かる気もします。我が家にも独自のルールというかしきたりに似たようなものはありましたが、それをするのはあくまでも家庭内においてのみで、家の外や仲間内では絶対にしませんでした。それは、あくまでも家や家族内でしか通用しないことであると理解していたからでしょうし、その行為はある意味コード・スイッチング的なものだったのではないかと今になって思えてきました。

  4. 「玄関のドアを開けるたびにカチャ、カチャと。」実際そのような感覚なのだろうと想像します。脳内のことであるからこそ、行動や物理的な影響というのはあることだろうと思います。仕事の日と、そうでない日のオンとオフのようなものでしょうか。出勤簿にハンコを押した瞬間からオンになる、という話や、メガネからコンタクトに変えた瞬間オンになる、という話も聞いたことがあります。そういった気持ちのスイッチのようなものを家の外と中で、言語までも変えて、文化を合わせていく能力が人間には携えられているというのだから凄いですね、そういった環境に育つということはやはり特別なことだと思いますし、そういった環境で育つ人がもつ使命について、知りたい気持ちが湧いてきます。

  5. カチャカチャと切り替えるということで、器用に使い分けるんですね。そして!大概は親の話す言葉を毛嫌いするというのも経験上、納得です。さらに、自分の場合は神奈川に働きに出てから親のことが受け入れられるようになったというか単純に好きになったので、ポルトガルからの移民の話で子ども時代は毛嫌いしていたが、〝ポルトガル語を改めて学習したいと思ったのは家族とともにひと夏を親のふるさとで過ごしてからのことだった〟とあり、時が経ってから勉強してみようと思う気持ちがしみじみよく分かりました。

  6. 人の前の顔と家庭での顔が違うだったり、態度などもコードスウイッチングでないにしろ、うまく切り替えながら生活をしていることを考えていくと、”移民の子どもたちは仲間たちの文化を家庭にもちこみ、親に示します。ところが、彼らは概して親の文化を仲間たちに示すことはしません”といったところに理解が示せます。
    文化を行ったり来たり、することでうまく対応することはできているなかで、外の影響が大きくなれば、外の文化が優勢になっていく、これは、子ども集団での姿が家庭での親から学び経たものより、社会性として、抄出されることとしととらえることができます。気持ちの切り替えのように文化を切り替えるのは、その場に合わせたすがたにスウイッチングしていると考えると最後にある家庭外に二つの異なる慣習がある場合には、さらに複雑になるために、コードスウイッチングする必要があるといった具合なのでしょうか。

  7. 「玄関のドアを開けるたびにカチャ、カチャと。」という表現はわかりやすいですね。二つの文化を行き来する扉のようです。そして「コード・スイッチングする子どもの二つの文化は異なるものですが、同等ではない」というのはどちらかがその人にとって比重が大きいことでより使う頻度も増し、偏ってくるのでしょうね。使っている時間や、好きな人がしていることの影響というのは大きいでしょうね。2つの文化を行き来する人の器用さはなんとなくわかります。言語以外にも立ち振る舞いでスイッチしていることもあるでしょうね。

  8. 話がそれるのかも知れませんが、二か国語を話す人と見ると、瞬間的に羨ましいと思ってしまいます。ただ今回のブログを読んで感じたことは、二つの文化を持つ子どもの親は複雑な心境だということです。例えば、我が家が外国に住んでいて、自分は根っからの日本の文化に対して、子どもはおそらく仲間との文化を優先した時に、日本人だから、最低限の日本の文化を優先してもらいたい!と思うのでしょうが、子どもからすると、それは厚かましく、説教に聞こえるのかもしれませんね。外国でなくとも、日本国内というか、子ども集団の文化というのも時代とともに変化して来てると思います。おそらく自分が息子と同じくらいの年齢の時の集団と全く違うと思いますが、その現実をいずれは突きつけられた時・・・素直になれる自分がいるのか少し心配になりました。

  9. 「移民の子どもたちは仲間たちの文化を家庭にもちこみ、親に示します。ところが、彼らは概して親の文化を仲間たちに示すことはしません」とありました。このことからは、子どもにとって家の外という集団がいかに重要であるかということを感じます。園の中にもコード・スイッチャーなのかなというお子さんが何人かおられます。文化が異なる場に身をおく状況が一日の中で何度もあるというのはどのような感覚なのでしょうか。しかし、そう思うと、私たちも異国ほどの文化の違いはありませんが、価値観の異なる集団幾つも属しているということはあるのかもしれませんね。

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