精神的能力

つい20年ほど前まで、類人猿は、外見の特徴から、ひとつは現生人類とその祖先、もうひとつは大型類人猿の四種(チンパンジー二種、ゴリラ、オランウータン)に、大きく二系統に分かれるとされていました。ところが、遺伝子解析が導入されたことで、この分類が実は的外れであることが判明したそうです。そのことは以前のブログで紹介したことです。系統がふたつあるというのは変わりませんが、ひとつはアフリカ類人猿であるヒト、チンパンジー二種、ゴリラで、もうひとつはアジア類人猿であるオランウータンという分け方になったのです。進化の枝分かれを調べるとき、外見は必ずしも正しい手がかりにならないようです。この類人猿、あるいはアフリカ類人猿に限定してもいいかもしれませんが、その種は「道徳的な存在」と呼んでもよいのではないかとダンバーは考えています。なぜなら、道徳感を持つ、あるいは道徳的な行動や態度が取れるからです。

人はみな平等であると私たちは確信しています。その理由のひとつは、共感能力から言語能力に至るまで、各種認知能力を全員が同じように持っているからだと彼は言うのです。となると、ヒト以外の大型類人猿にもそうした特徴があるかどうかが問題になります。

まず、類人猿に言語はあるか?ということを考えてみます。彼らに言葉を教える試みは、1950年代から始まりましたが、最初は惨憺たるものだったそうです。もともと類人猿は発声器官が人間と違うため、人間の言葉と同じ音を出すことがそもそもで来ません。それなのに、英語を教え込もうとしたのですから、挫折しても無理はなかったと振り返ります。しかし、話し言葉はひとまず脇にやって、手話に切り替えてからは成果が目に見えてあがり始めたそうです。これまでにチンパンジー数頭、ゴリラとオランウータン各一頭がアメリカン・サインランゲージを教わっています。また、言葉代わりの図形を用いてコンピューターのキーボードを操作させる方法は、ボノボとチンパンジー合わせて十数頭が挑戦していました。

このなかでいちばんの成功例は、まちがいなくカンジという名のボルボだったそうです。話された英語文をほかの類人猿にしても、私たちが使っているような言語を持っているわけではありません。彼らの言語スキルは、人間でいうとせいぜい3,4歳児程度だったのです。

しかし、大事なことを忘れてはならないとダンバーは言います。言葉は目的を果たすための手段にすぎません。よくできた手段ではありますが、言葉自体は、あくまで個人から別の個人に知識を伝達するメカニズムでしかありません。重要なのは、言葉の根底に横たわる精神的な能力なのだとダンバーは言うのです。こうなるといよいよ、言葉の助けを借りることなく、精神を掘り下げるという困難な問題と立ち向かうしかないというのです。

この見解は、とても重要な指摘だと私は思います。それは、グルーバルな時代に向けて、英語教育を早くから教えるということに対する警告でもあると思うからです。英語が話せるということは、知識を伝達するメカニズムを習得したに過ぎません。話すということは、単に知識の伝達ではなく、その人の気持ち、考え、こころを人に伝えることなのです。それをダンバーは、「言葉の根底に横たわる精神的な能力」と表現しています。

ですから、ただ言葉を話せるからといって、人間たらしめているかというと疑問なのです。

精神的能力” への13件のコメント

  1. 類人猿に言語を教えるという取り組みはなかなか昔から行われているものなのですね。そして、発声器官が違うため英語を教えるのは無理があったということで、手話に切り替えると成果があったとありました。英語は類人猿が自分の思いを相手に伝える手段にはならなかったのですね。そして、「言葉は目的を果たすための手段にすぎません」とありました。自分の思っていることを伝えたいと思うこと、相手の考えていることを知ることで、さらに自分の思いを伝えるという思いがなければ話すということにはなりませんし、言語を覚えるということにもならないのかもしれません。伝えたいことがあるからこそ覚えるのかもしれませんね。保育園でも赤ちゃんの頃から子どもが何かを訴えてくることがあります。その思いを受け止めることで、子どもと大人、他の子との間に信頼が生まれ、さらに話をしたいという気持ちになるのかもしれません。そういった気持ちがさらに言葉を発達させるのだと思うと、他者の気持ちを想像することができる人類が言葉を発達させたということになるのですね。

  2. 人との会話の中で感じることは、新しい知識を自分の中で感じるというのはもちろんですが、相手がどんな人であるのかということを考えたり理解しようとしている方が強い気がします。「話すということは、単に知識の伝達ではなく、その人の気持ち、考え、こころを人に伝えること」ともあり、そこで出会った人の人格を別の人に、そして次世代へとつなげるといった過程が、文化を継承させて社会を成り立たせていったのかなとも感じました。ダンバー氏が言った「言葉の根底に横たわる精神的な能力」というのは、言葉に隠された秘宝のようなものを私たちは先代からずっと引き継がれてきて、それをまた引き継ぐ役割があるということでしょうか。という思いが浮かんできます。

  3. 私は相手及び複数の相手と分かり合いたいと熱望します。分かり合えることは、幸福感をもたらします。分かり合えると、相手のために何かしてあげたい、と思います。困難を抱える他者に、自分ができることを可能な限りやってあげたいと志向します。私は言葉、言語はとても大切だと思っています。それゆえ、縁がある言語は、あいさつ程度でもいいから、私自身が使えるようにしたいと思っています。この「あいさつ程度」の言語的やり取りが場の空気を和ませることを知っています。そのあとは、コミュニケーションが成立する手段、すなわち、通訳者さんや意思疎通を可能にする言語、に委ねればいいのです。「サインランゲージ」も有効ですね。私たちも「身振り手振り」で意思疎通を図ろうとすることがあります。しかし、それよりも何よりも、他者に伝えたい何事かを有していることが重要です。英語を使えるより、その英語で伝えたいこと、そのことが必要不可欠なわけで、このことを意識した英語教育になってほしいと思うのです。

  4. 言葉は目的を果たすための手段にすぎません。よくできた手段ではありますが、言葉自体は、あくまで個人から別の個人に知識を伝達するメカニズムでしかありません。という文が印象的でした。これを読んだ瞬間、「そうなのかな。正直、声のトーンや、大きさ、抑揚などから相手の気持ちや、健康状態などを垣間見ることできると思うんだが。それは知識を伝えているのかな??」と思いました。が、重要なのは、言葉の根底に横たわる精神的な能力なのだとダンバーは言うのです。とありなるほどと思いました。
    英語教育のことについて、自分は、「話せないより、話せた方がいい」と単純に思っていました。しかし、これは、話すということの根本にある目的を度外視していた考えだったんですね。確かに、英語が話せても、ヒトの気持ちを理解したり、気持ちを伝えることはできません。「言葉の根底に横たわる精神的な能力」という言葉、とても奥が深いことばだなと感じました。

  5. 類人猿に言葉を教える試みは、1950年代から始まっていたことに驚きました。そして、その結果は惨憺たるものだったとありましたが、「話し言葉はひとまず脇にやって、手話に切り替えてからは成果が目に見えてあがり始めた」ことにも驚きました。「言葉自体は、あくまで個人から別の個人に知識を伝達するメカニズムでしかない」とあるように言葉を話せることが重要なのではなく、手話やジェスチャーなど言葉に変わる知識伝達メカニズムがあれば同じということなのですね。重要なのは「言葉の根底に横たわる精神的な能力」とあり、「精神を掘り下げるという困難な問題」とあるようにこれを調べるのは大型類人猿どころか人間も難しそうですね。また「話すということは、単に知識の伝達ではなく、その人の気持ち、考え、こころを人に伝えること」とありました。このことは早期の英語教育への意味を問うものですね。早期の英語教育の意味は、覚えるには幼いころから身近なものとしておくことが良いからだと思いますが、それが子どもの自発的な興味関心からなら良いと思うのですが、大抵は親の意思であることが問題である気がします。トイレトレーニングなどのように子どもの意欲に沿って行わないと大きな成果があらわれない気がしてなりません。

  6. 〝話すということは、単に知識の伝達ではなく、その人の気持ち、考え、こころを人に伝えること〟とあり、単にグローバル時代だからといって英語を早い段階から教えていくというのは、本当の話すという意味とはまた違った意味を持ってしまう危険をはらんでいるということになるということなんでしょうか。
    英語が使えることよりも「英語を使って何を伝えていくのか」ということに重きを置いた英語教育がされることが望まれますね。
    自分は英語が嫌いでしたが、少し考えてみると普段の生活の中で、英語を全く使っていないわけではありません。ということは、英語の方が伝わりやすい、相手に分かりやすいこともあるということになるのでしょう。
    話す意味、伝える意味を考えていくことで、自分たちが今まで伝承されてきたものの意味ということもみえてくるのではないかと感じました。

  7.  「話し言葉はひとまず脇にやって、手話に切り替えてからは成果が目に見えてあがり始めた」「言葉は目的を果たすための手段にすぎない」「重要なのは、言葉の根底に横たわる精神的な能力」素晴らしいアイディアと言葉に満ちたこの度のブログです。「グルーバルな時代に向けて、英語教育を早くから教えるということに対する警告でもあると思う」「話すということは、単に知識の伝達ではなく、その人の気持ち、考え、こころを人に伝えること」本当にそう思います。動物と心を通い合わせること、というのは可能だと思います。実際にペットを飼ったり、動物を育てたりしたことのある人は承知のことだと思いますが、それはごく自然に日常の中で生まれ、育まれていくものです。心の奥底に流れるものをどう表現するのか、という高等なことは高等だとしても、その奥底に流れているものがあることそれ自体を疑問に思う人は、動物と接したことがあればそういないだろうと思うところです。その感受性、思いやり、共感。単なるツールとしての言葉を超えたところに、人間を人間たらしめるものがあるということでしょうか。
     

  8. 今回のブログで類人猿に道徳的な行動や態度が取れることがわかりました。
    そして、類人猿に言葉を教える取り組みがされていたことと、カンジという名のボノボが人間の3.4歳児程度の言語を理解したことに驚きました。
    3.4歳児といっても、とてもたくさんの言語を知っているイメージがあります。類人猿とボディーランゲージを使ったりしてコミュニケーションが取れることはなんだか嬉しい気もします。
    しかし、「言葉の根底に横たわる精神的な能力」という表現があったように、言葉は相手に伝える手段であることと、「気持ち、考え、心」を伝えることが大切なことを理解できました。
    カンジという名のボノボは言葉を理解できたとありましたが、自身の気持ちを表現するために言葉を使えたのでしょうか?実験の内容が気になります。

  9. 言葉のやり取りができるから、ハイ人間は素晴らしく動物を越している存在だ、と過信や傲りが過ぎていますね。それだけでなく、そのさらに奥が大事なもの、「精神的な能力」に繋がるのですね。伝達のツールである言葉、それだけの意味だと、私たちのやり取りはただの機械での会話と同じなように思います。知識を伝える中にも、様々な想いがあるでしょう。普段の会話においてもどういった感情が込められているのか、どう想っているのかなどの様々な意味があります。それをヒトは理解しようとしたり汲み取ろうとしたり、その場だけの理解ではなくその先のことも考える、考えようとするからこそ社会的繋がりが大きくなってきたのではと思いました。

  10. ゛言葉の根底に横たわる精神的な能力なのだ゛というダンバー氏の言葉が物語るのは、言語をもつから偉い、話せることが特別というのではなく、゛その人の気持ち、考え、こころを人に伝えること゛とあるようにわたしたちは相手へ伝える手段として言語をつかった表現を選択していると思います。年齢に関係なく、相手へ伝えようとするのは、子どもの姿からもとらえられますが、これが、言葉を話す練習というのではなく、間違いなく、何かを伝えようとしている、という概念を持たなければならないと感じています。言葉を交わすことで生まれる関係性は、間違いなく、こころへ伝えるということから始まっているのでしょうね。

  11. ダンバーの「言葉の根底に横たわる精神的な能力」という言葉は深いですね。確かに言葉と聞くと相手に情報や知識を伝達するものとして大抵の人は捉えていますし、私自身もそう感じていました。しかし、言葉というのはブログに書いてあるように手段であって、本当の言葉の意図は自分の考え、気持ちをちゃんと伝える事です。とは口では簡単に言ってますが、ちゃんと理解していない自分がいます・・・。ただ少なくとも、いくら英語が話せても話す内容もなければ、そもそも相手とコミュニケーションを取れないと話すことができません。言葉を使えるから人間であるというのは、確かに疑問が残りますね。

  12. 「言葉は目的を果たすための手段にすぎません。」というのが印象に残ります。最近の大学の問題はスマホで調べられる問題や覚えるだけの問題ではなく考えを書くという、その人の中身を知るような問題となっているとあります。それに似たような感覚を覚えました。言葉を話せたとしてもその内容が大事となります。英語が話せたとしてと内容がなければ話せないということにもなりますね。「話すということは、単に知識の伝達ではなく、その人の気持ち、考え、こころを人に伝えること」とあるようにその人のことを理解するとか共感がなければできないことなんだな改めて言葉の深さを感じます。

  13. なるほど、そもそも類人猿にあたっては発声器官が人間とは違うので、同じ発話はできません。しかし、手話や図形を用いることで意思を伝えるということができたのですね。これは言葉ではなく、文字につながっている内容ですね。文字においても、言葉においても、それはあくまで伝達手段でしかないですし、「個人から別の個人に知識を伝達するメカニズム」というものでしかないのでしょう。では「言葉の根底に横たわる精神的な能力」というのは「知識の伝達ではなく、その人の気持ち、考え、こころを人に伝えることなのです。」とありました。新学期に入り子どもたちは周りの環境にいる人に言葉をかけあっています。そこには知識の伝達だけではなく、気持ちや考えを伝えています。また、仮に言葉が通じなくても、必死に言葉を発している様子を見て、「陽気」なのか「怒気」なのかということも感じとります。「言葉の根底に横たわる精神的な能力」そこには相手に伝える思いというものも同時に発しているのですね。

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