そもそも、なぜ性的行為は嫌悪をもよおさせるのでしょうか?ロジンらは、こう説明しています。嫌悪は肉体を守るために進化しましたが、歴史の過程で、より抽象的な、魂の砦に変化したのだというのです。私たちは、いまや清浄で高尚な存在というセルフイメージを脅かし、自分たちが動物であることを思い出させるものすべてに嫌悪を感じようです。そのため、文化が定めた性的境界を逸脱する人間は、いとわしい、獣のような存在とみなされます。「人間が動物のような振る舞いをする限り、人間と動物の区別が曖昧になり、人は自分たちを、卑しめられ、おとしめられ、死を免れないと感じる」からだというのです。自分は人間で、本能だけで動く他の動物と違うのだという意識が働くのですね。ただ、生殖のためにだけ生きているわけではないのだという一種のプライドがあるのでしょうか?
哲学者のマーサ・ヌスバウムも、糞尿、血といったものに引き起こされる「一次的嫌悪」は、汚染物質を避けるために進化しましたが、人間に向けられる嫌悪は、他の社会集団の成員をおとしめないという欲望に動機付けられている、と主張しているそうです。これは、「優勢な集団を、それ自身が恐れる獣性から、より安全に隔離するために採用された戦略」なのだと言うのです。この理屈は、「このエセ人間どもが、私をいとわしい動物界の間に立ちはだかるなら、私は、死を免れない、腐りかけた、臭い、ドロドロした自分からずっと離れたところにいられる」と言い換えられると言います。
こうした仮説に、ブルームは少し疑問を持っているようです。あまりにも抽象的で、頭でっかちだと思っているからです。7歳児が、シラミのイメージにゾッとしたり、両親が寝室で何をしているのかを聞いて、嫌悪に息を呑むとき、その子は自分が動物であることを思い出したり、死について不安になったりして動揺するわけではないのです。実際、動物であることや、死すべき存在であることについての抽象的な心配は、そもそも嫌悪と関係ないと言うのです。
自分が動物であることを思いだして、嫌悪に襲われるのなら、人間の生物学的本性を容赦なく突きつける、系統図やDNAの二重らせん構造の図に吐き気をもよおすはずだとブルームは言います。死も、人をおびえさせたり悲しませたりしますが、むかつくことはありません。死体は、確かに気持ち悪いものです。しかし、死亡残存表を見て吐き気をもよおす人はいません。
セックスが嫌悪をもよおさせるのは、もっとずっと単純な理由からだとブルームは言います。セックスには、肉体が関わっています。そして肉体は嫌悪を感じさせる場合があります。体液の交換が問題なのは、私たちが肉体を持つ存在であることを思い出させるからでなく、こうした体液が、私たちの中核的嫌悪反応の引き金を引くからだと言います。愛や情欲といった別の衝動は、嫌悪反応を停止したり、弱めたりすると考えています。しかし、嫌悪が自然のデフォルトであるとブルームは付け加えます。すなわち、人類に組み込まれた初期設定だというのでしょう。
そうは言っても、ブルームは、道徳にまつわる私たちの直感が、清浄さに関する懸念に影響されるという点では、ロジンやヌスバウムはいいところをついていると言います。