公共財のように、払わなくても特に排除されないサービスについて、それを受けるための対価を支払わないで、その恩恵だけを受けようとする経済用語としてフリーライダーという言葉があります。これらの人に対して特別な排除がされませんが、世界中の人がフリーライダーを罰しようとしますが、では、罰を受ける側の反応はというと、その人がどの社会の成員かによって異なることがわかっているそうです。スイス、オーストラリアなどの国のフリーラーダーは、罰されると、態度を改め、きちんとお金を出すようになると言われています。しかし、ギリシアやサウジアラビアといった特定の国々では、ただ乗りを罰された人々は恥じるどころか、腹を立てて、仕返しをしようとすると言われています。いかにも罰を実行しそうな人物を探し出して、報復します。いわゆる「反社会的罰」だとブルームは言います。
予想通り、この反応は事態をいっそう救いのないものにします。ゲームは完全に収拾がつかなくなります。よって、第三者による罰は、ただ乗り問題への解決策として進化したのではないかと考えられています。ブルームは、第三者の罰の心理は、相手の罪状を明らかにした上で、復讐を果たす心理と本質的な違いはないと考えているようです。私たちは、自分や、自分が愛する人に危害を加える者に復習する傾向を進化させたと言います。それは、将来的にこうした行為を牽制できるからだというのです。その感情を、自分に直接関係のないケースに当てはめるとき、私たちは共感を働かせているというのです。被害者の身に我が身を置き換え、あたかも自分が傷つけられたかのように反応します。よって、第三者による罰とは、復讐心に共感をプラスしたものだと考えているのです。
これらの行為は、共感力を持った人類ならではのことになるのですね。忠臣蔵を見て、すかっとするのも、共感力による感情なのでしょう。アダム・スミスも似たようなことを言っているようです。「他者に抑圧され、傷つけられている人を見るとき、私たちが被害者の苦痛に対して抱く同情は、犯罪者に対する彼の憎悪との一体感を促すのに役立つだけだ。私たちは、時が巡って、その人が敵に仕返しするのを見て喜び、その人の力になりたいと願い、その準備をする」
しかし、被害者の憎悪と受け取れるものが、罰に不可欠な動機と考える点で、スミスの意見は少々的外れではないかとブルームは言います。確かに、子猫をいたぶるものは罰されるべきです。しかし、それは、子猫が復習を欲している、と思うからではないのです。重要なのは、「犠牲者が何を欲しているのか?」ではなく、「私、もしくは私の大切な誰かが、犠牲者の立場だったら、私が何を欲するか?」ではないだろうかとブルームは考えています。
第三者による罰への欲求は、共感に依拠しています。確かに、別への四級は、五世者と自分、もしくは犠牲者に危害を加える人物と自分の関係によって変化します。人間は、自然に共感が湧き上がる相手に危害が加える人物を罰したいと思います。共感が、危害を加える側と結びついている場合は、罰への意欲はそれほどでもありません。その例として、ブルームはこんな時を出しています。アメリカ海軍兵が、オサマ・ビンラディンを殺害したという報道を聞いて、兵士たちは罰されるべきだと感じたアメリカ人は、ほとんどいなかったのです。