「青鞜」創刊号は、歌集『みだれ髪』や日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』で有名な与謝野晶子の12連からなる詩「そぞろごと」から始まります。この「そぞろごと」は、女性の覚醒を高らかに、誇らかに謳いあげたものですが、私は、今こそ、子どもの権利条約をもとにして、子ども主体の世の中になるべく、世に訴える時かもしれないと思っています。特に、乳児における人権の覚醒を促すべきだと思っています。そう思って、与謝野晶子の「そぞろごと」を読むと、感動します。その一部を紹介します。
「山の動く日来(きた)る。かく云えども人われを信ぜじ。 山は姑(しばら)く眠りしのみ。その昔に於て 山は皆火に燃えて動きしものを。されど、そは信ぜずともよし。 人よ、ああ、唯これを信ぜよ。すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる。」
女性だけで作る雑誌は前代未聞で、しかも、皆、編集に関しては素人でした。当初は「女流文芸誌」であり、女性の解放という目的もありませんでした。しかし、この創刊号は、1000部をたちまち売り切れになります。その後も購読申し込みが相次ぎ、翌年には3000部に達しました。この数字は、文学雑誌ではあり得ない部数でしたし、青鞜社には毎日のように多くの女性から感動と賛意、激励の手紙が殺到したそうです。
この青鞜創刊号の表紙は、のちに高村光太郎の妻となる長沼智恵子が描いています。「『青鞜社』発祥の地」から鴎外記念本郷図書館(この時は工事中でした)を過ぎ、団子坂を上ると「高村光太郎旧居跡」があります。彫刻家であり、詩人・歌人でもあった高村光太郎は、彫刻家高村光雲の長男として台東区下谷に生まれますが、10歳の時にこの近くに移り、そこで育ちます。その後、父の家からここに移ります。ここには建て物はありませんが、当時、自分で設計した木造(外観は黒塗り)の風変わりなアトリエだったようです。
智恵子は、18歳で日本女子大学校に入学します。しかし、このころ油絵に惹かれます。そこで、日本女子大学校を卒業後、洋画家の道を選んで東京に残り、太平洋画会研究所に学びます。そこで、26歳のときに、雑誌「青鞜」が創刊されその表紙絵を描くことになります。そして、その年、柳八重の紹介ではじめて高村光太郎のアトリエを訪ねています。その後、28歳の時に、光太郎の後を追って上高地に行き、一緒に絵を描き、ここで結婚の意思をかためます。翌年、光太郎詩集『道程』が刊行され、ここ駒込林町(現在の東京都文京区千駄木)のアトリエで光太郎との生活を始めるのです。このころの女性は非常に元気があるだけでなく、いろいろな分野に力があります。
この地には、まだまだ元気な女性がいました。鴎外記念本郷図書館の手前の路地を入ると、「宮本百合子ゆかりの地」があります。明治36年(1903年)4月、智恵子は日本女子大学校に入学していますが、のちの宮本百合子こと中条ユリが日本女子大英文科予科に入学するのは大正5年(1916年)でした。彼女は、女子大 1年の時、毎年行っていた父方の郷里である郡山市郊外の農村を舞台にした小説『貧しき人々の群』を書き、天才少女と謳われます。そして、女子大は一学期で退学し、作家生活に入ります。
もともと、鴎外記念本郷図書館を訪れようと始まったブラヘイジでは、目的は工事中で見ることはできなかったのですが、次々と波乱万丈の女性ゆかりの地を歩くことになったのです。