遊び考

 「明治10年、日本にやってきて、東京大学で動物学の先生をしていたアメリカ人モールス教授は、大森貝塚をほって、日本考古学のもとをひらいた人であるが、そのモールス教授が旅先で子供たちに昆虫の絵を描いて見せると、その半ばもかからぬうちに、それがなんであるかをいいあて、また昆虫の名をたくさん知っていることを、驚嘆した記事が、“日本その日その日”に見えているが、それはこうした遊びを通じて、自然の中にとけこんでいった結果にほかならぬ。昆虫にかぎらず、植物の名などについても田舎の子供は実によく知っていた。」

 宮本常一が言う「こうした遊び」とは、子供たちの遊びに昆虫や植物を使ったものが多かったということなのです。例えば、「子供の世界」に描かれている子どもの遊びには、先日のブログで紹介したような、麦わらを使ったおもちゃや、つくしを使った遊び、ほうずきを鳴らしての遊びなど木や草を使った遊びのほか、昆虫も楽しい遊び相手だったようです。

 昆虫を使った遊びには、例えばカブトムシに糸をかけ、またになった枝を利用して、小さい鋤を作り、牛に見立てて耕作のまねごとをしたり、太郎ぐもにけんかをさせて喜んだりしました。そのために、黄金虫をくもに糸でまかせて訓練したと言います。このほか、せみとりなどあそびも多かったようですが、遊んだあとは、たいてい野に放ってくるのが普通だったと言います。それは、いじめたり、殺したりするとたたりがあるとか、不幸なことがおこるとか信じられていたからのようです。

 このようなことが子供たちに深い観察眼を与えたことは大きかったと宮本さんは言います。また、昔話の中には動物にかんする話も多く、そしてそういう話が子供たちにも喜ばれたのは、動物と仲良くする機会が多かったためであろうとも言っています。そしてこのように生き物や、自然にあるものを利用することから始まって、それにわずかばかりの手を加えたオモチャが、作られるようになってきたようです。

 次第に子どもたちは、仲間を作って遊ぶようになります。特に、7?8歳くらいから、鬼ごっことか勝負遊びに夢中になりますが、そうした遊びを楽しむには、玩具はたいして必要でなくなり、あそびそのものが楽しい要素を持った性質のもので、媒介物はたいして必要がないと言います。むろん、中には双六、カルタのように多くの人をつなぐ媒介物を必要とする遊びも少なくなかったが、それは大人の世界の模型ではなかったと言います。そのころの子どもに人気のあったあそびの中で、今でも遊ばれているものがいくつあるでしょうか。追っかけ鬼、めくら鬼、中の中の小ぼんさん、子をとろ、縄とび、角力などが特に人気があったようです。

 そこに野球ほかの球技が日本に入ってきて、特に学校の運動として行われるようになってから、在来の子どもあそびや兵隊ごっこをしのいで、今日では最も普遍化していると言います。しかし、これらの遊びは、村の中には行う場所も少なく、また、人数の整わぬことが多いため、たいていは学校の放課後に行われていたと書いています。他には、マラソンも盛んに行われたようです。それまでは村の道などをただみんなで雑然と走ることはあっても、ある一定の距離を競走することだけを目的とするようなことは少なく、一定の距離をある時間内に走るということは、子供たちの興味をそそるものであったと言います。

 あそびも、古いものが次第に人気がなくなり、それにかわり、ヨーロッパ的なあそびが子供たちの遊びの大部分を占めるようになってきたと指摘しています。