ホリスティックについて、その内容について考えてくると、なんとなくその意味することがわかってくる気がします。また、なぜいまもう一度ホリスティックという考え方が必要なのかわかってくる気がします。それは、人類のあり方として、また、最近の核家族化、少子化、地域ネットワークの希薄かなどにたいして、「子どもにとって集団が必要である」と言うときに、日本でもつねに矛盾を抱える「個」と「集団」のあり方、かつて戦争に駆り立てた集団教育へのトラウマ、放任と無秩序さと自由の関係、そんなことに答えるために、ホリスティック教育が見直されてきているのでしょう。
そんなことを考えると、各国の課題の違いによって、ホリスティック教育への課題が見えてきます。欧米では、個の確立と自立が進んでいますが、社会の一員である意識とか、協力とか、つながりが弱い気がします。それに対して、日本人は、自分に対する自信とか、自尊感情、自己責任が弱い気がします。がそれらがしたがって、わたしたちは、社会から恩恵を受ける権利を持つと同時に、社会に対する大きな義務と責任を持っています。戦後、子どもたちには権利が教えられ、権利をきちんと主張することを教えられました。しかし、義務と責任については、きちんと教えられていない気がします。それは、両方とも「せねばならない」ということで、自分の意思に反して行うイメージがあるからでしょう。しかし、義務や責任とは、自分の意思に対して、自分が言ったことに対して、責任を負うというものです。
自分の意思に責任を持つというのは、個々の意志が、全体の意志に影響し、個々の利益は他者の利益につながるという、「情けは人のためならず」という考え方への転換が必要になります。ホリスティックな世界では、自己の利益は他者の利益につながり、他者の不利益は自己の不利益につながるからです。それが、人類が生き延びてきた力として「競争ではなく協力」であることとつながります。ただ、そのときの利益とは、物質的な豊かさとか、金銭的な豊かさではなく、本質的な豊かさである、心の喜び、心の充足、心のやすらぎなどの精神的な豊かさが個人の利益であり、他者とつながることで共感することが他者の利益となるのです。
このように、自己が全体につながっていくことを信じれば、自己を信じ、自己を高めることは大切なことになります。また、それは、自分が所属しているところに自信を持つことも必要になります。昨日、幕末を描いたテレビ番組を見ていたら、若者の武士が外国人から地球儀を見せられ、「日本ってずいぶん小さいんだなあ!」という場面がありました。この場面は、攘夷から、世界に目を向けるきっかけとなる象徴的な場面としてよく描かれます。しかし、世界の中では日本はそれほど小さい国ではないのに、このときのトラウマがいまだに続いており、日本は資源がなく小さい国であると思っている人は多いようです。
慶応義塾大学講師の竹田さんはこんな授業を中高校生にするそうです。「“今ある国で1番古い国はどこですか?”という質問に多くの学生は“中国とかエジプト”と答える学生が多い。そこで、“日本だよ”というと、“ええー”と驚きます。そこで、王朝ごとに色別になっている世界史年表を見せると、日本だけが1本の帯になっています。たったそれだけのことで日本人であることの誇りを掴むのです。」自分の国が好きになるのは、何も「愛国心」とか「国粋主義」という思想的なことではなく、そこに住む者の責任として、そこを大切にし、それゆえ、間違っているものは間違って言い、不正なものに対して怒り、おかしいものはおかしいと感じる感性を持ち、惑わされることのない批判的な思考力、判断力・行動力などを大切にする必要があるのです。