共視という見守り

京都大学霊長類研究所の松沢さんは、長い間のチンパンジーの研究を通して、人の生き方を見つめてきました。そして、今、なにを思い、どんなメッセージを人類に向かって投げかけているのでしょうか。最近の若者に向けてこんなことを言っています。「こういう能力があった方がいいとは少しも思いません。みんなそれぞれ違っているからいい、というのが生物学的な真理なので、そのままでいいんじゃないですか。もしずうっと立ち尽くしている子がいるとしたら、ポンと背中をたたいて「歩いた方がいいんじゃないの」と言いたくなりますね。言ってもどうにもならないと思ったら、チンパンジーと同じ教えない教育を見習うしかなくて、ポンと背中をたたいて自分が歩いてみせます。するとトボトボついてきますよ。」
チンパンジーに限らず、生き物は生き方を次の世代に伝えていきます。それは、教える教育ではなく、示す教育ということなのでしょう。ミラーニューロンに訴えかけるのです。ただ、そのきっかけをつくってあげればいいのです。しかし、その時にも、自分を客観視することが必要だと言います。それを、「目の前のことを一生懸命に、じっくり取り組むのがいいと思います。同時に自分を冷静に見守るようなもう1つの目を持っているとさらに素晴らしいですね」自分が自分を「見守る」ことが必要だと言います。それは、乳幼児期の体験からできるようになるのかもしれません。松沢さんは、こう思っています。「ヒトの赤ちゃんは常に、何かを自分が達成したらそれを見てくれている人がいることに気づきながら育つようです。いろいろなものに興味を持って、いろいろなものに手を出し、遊びます。同じ表情で同じものを見てくれている人がいる。家庭でもそうですし、保育所でもそうです。そういう人と赤ちゃんはやりとりをします。指差しをして、「あー」という。それを見てくれている人がいるのだ、後ろを振り返ってやっぱり見てくれたね…という表情を返します。赤ちゃんは何か面白いものがありそうだな、というところを見ます。そしてこれは何?という感じで振り返ると、必ず応えてくれる人がいます。そして、相手の視線と気持ちを確認したら、また、相手のまなざしを背景に新しいものの探索に行くわけです。常に見守ってくれる人が後ろに控えています。その人は、普通はお母さん。でも、保育士さん、お父さん、それ以外の家族でもよいです。」
後ろから赤ちゃんを見守ってくれている人に対して、赤ちゃんは、自分のことを見てくれているのだという安心感だけでなく、自分と同じものを見ている人がいるという安心感があるような気がします。その行為に対して、私は「共視」という言葉を考えました。後ろからから見てくれている、見つめあう、そして、同じものを見るというそれぞれの見方が、赤ちゃんだけでなく、子どもには必要な気がします。それらをすべて含めて「見守る」だという気がします。
子どもに対して、周りの大人はこう思ってほしいと松沢さんは、チンパンジーのアイちゃんとその子アユム君を見て考えます。「自分の子どもがその人生を全うするのを、見守る、一人の人間として自分の生に満足するように生きていくことを応援してあげようと、後ろから見守るような立場で、子どもの成長につきあっていくことが必要です。しかし、今の時代は競争社会です。自分の子どもをこのように育てたのだ、私が育てあげたのだという親の思いが強くて、それに子どもが潰されてしまいかねないようになっています。最近は、「子どもが授かる」という言葉が無くなり、「子どもを作る」ということ、理想の子どもを作るというような違い、「授かる」と「作る」の違いですが、それが見られるようにも思いますし、本能の部分が少なくなって、逆に文化で様々な多様なものを作っていく能力の発達した人間の一つの側面かもしれませんが、親子関係のあり方に雑音が入ってきて、本来の自然であったらそうであるような関わり方が、雑音、雑念に惑わされて、違う方向に行っていることは残念であると思います。素直な関わり方で、虚心に子どもを育てる、育つのを見守るというような形で親と子がお互いに関われれば良い方向に行くのではないかと思いました。」

共視という見守り” への5件のコメント

  1. 東京女子大学の柏木惠子先生の「子どもが育つ条件」という著作にこんな記述があります。『子どもの特徴が生かされ、子供が熱中できる機会が与えられた時、子供は最大の満足を得ます。そしてその機会を側面から支えて作ってくれた人に対して、自分をわかってくれているとの安心感や信頼感を覚えます。・・・子供が豊かに持っている育つ力を無視することは、「発達の主体」である子どもをなおざりにすることです。・・・見守るという言葉があります。すぐに手や口を出さず、少し距離を置き、時間をとって子を見て、子供がしていることを尊重する態度です。これは簡単なようで、実は案外難しいことなのです。』私たちの親や祖父母の世代は、今のような医療の整った時代ではなかったので、多く生んで生き残った子を「授かりもの」として育てた時代でしたが、今は違います。計画的に産んで親の所有物として「作る」時代だそうです。だからこそ、家庭での育て方も、保育や教育の在り方も、藤森先生や柏木先生のような子ども主体の考え方に変えていかないと子供たちは本当にかわいそうだと思います。

  2. 今回のブログからはまず「示す教育」という学びを得ることができました。私たち大人は子どもたちのモデルとなることによってこの「示す教育」を実現できるのだと思います。読書を好きな子にしたければ、大人がその子のそばで熱中して本を読むことが必要になります。何かを学ぶことを好きになる子の親は常に学ぶ姿を子に示さなければなりません。振り返って、私たち親子関係を見る時、収集することが好きな私の姿を見て私の子も集めることに関心を示しています。もちろん、彼の好みのものであり、私と同じではありませんが・・・。そして「子どもが授かる」ということ。私たちは子育てでネガティブな感情に陥った時常にこのことを確認し合います。すると変なこだわりが消えて問題はうまい具合に解決していきます。「授かった」という気持ちで子どもを育てる。途轍もなく重要なことだと思います。

  3. 自分を見てくれている安心感についてはよく話を聞きますが、それに比べて自分と同じものを見てくれている安心感についてはあまり聞くことがありません。でもその場面を想像してみると、自分だけでなく、自分が体験し感じている世界全体に同じように目を向けてくれていることの安心感は、見てくれている安心感とはかなり質も違うように思います。「見守る」という言葉の意味の深さをもっと理解できるようにならなければと思いますし、そんな安心感の中で子どもが育つことのできる場を作り上げていきたいと強く思います。

  4.  大人がモデルになり子どもに示す事は、藤森先生がよく講演でお話される内容です。それがミラーニューロンと関連していると聞くと、改めて大人がモデルを示す事が重要だと思いました。また、これも実際の現場で赤ちゃんが何度も振り返る場面は、自分の事をちゃんと見てくれているか?確認している為に振り返るのと同時に、自分と同じものを見ているという安心感も赤ちゃんに与えているのですね。それが、藤森先生が言われる「共視」。共視をする事で、子どもに安心感を与えている。これは確かに「見守る」事に通じています。子どもを見守る事はとても大切な事ですが、ただ子どもを見守るのでなく、子どもが何をしようとしているのか?何を見ているのか?というのを理解し、共視する事も大切です。

  5. 親子関係に雑音が入って本来の自然のかかわりができなくなっているというのはその通りかもしれません。だから、「授かる」という言葉より「作る」という表現になっているのかもしれません。子どもはものではなく、可能性を秘めたしっかりとした人間だと当たり前のことですが、そういった意識がもしかしたら薄くなっているのかもしれません。本来の持っている力を引き出し可能性を延ばすために大人に求められるのは子どもを信用し、受容することだと思います。そのためには見守るということが必要不可欠になってきます。見守る保育というものは人間の子どもに対する本来の「子ども観」を考えた結果なのだと思いました。そして、今一番必要とされることなのではないでしょうか。共視というものがとても重要になってきますね。

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