戦後

 自分たちの足元も見ないで、人のことばかり言うのは大人げないとは思いますが、世界では困っている子どもが多く、援助を待っています。逆に、他人のふり見て我がふり直せというように、困っている国を見て、自分たちの生活をもう一度見直すことも大事かもしれません。
私の子どもの頃、給食に脱脂粉乳が出て、多くの人が嫌がっており、今でも給食の思い出の中の一番の悪者に脱脂粉乳が挙げられることが多いのですが、本当は善人だったのです。太平洋戦争が終わったのですが、町には戦災孤児と呼ばれる子どもたちがあふれていました。そして、物資・食料不足から日本中が飢えていました。食べるものといったら、おかゆに雑穀や芋類を混ぜて食べるといった食生活でしたから、当時の小学校6年生の子どもは、現在の小学校4年生くらいの体格しかありませんでした。そのような状況は、決して日本だけではありませんでした。そこで、1945年、終戦を機に国際連合がつくられ、その翌年の国際連合第1回総会で、ユニセフ(国際連合国際児童緊急基金 United Nations International Children’s Emergency Fund)がつくられ、戦争で被害を受けた子どもたちのために仕事をはじめます。当時の世界では、多くの子どもたちが、親をなくしたり、住む家を焼かれてしまったり、食べるものがなかったり、とてもきびしいくらしをしていました。こうした子どもたちを助けようとつくられたのがユニセフです。
 そのユニセフが、1949年から1964年までの15年間にわたり、日本の子どもたちを支援したのです。その内容は、給食用の粉ミルク(脱脂粉乳)や、くすり、服の原料(原綿)などで、ユニセフから日本への支援の総額は当時のお金で65億円にもなりました。その前の1946年には、日本の子どもたちの悲惨な様子をみて、アメリカなどから「ララ(アジア救済公認団体)放出物資」という救援物資がたくさん送られてきました。その物質の主なものは脱脂粉乳や小麦粉といったもので、これらを使って戦後の学校給食がふたたびはじめられることになりました。これらの物資の贈呈式が昭和21年12月24日に行われました。それを記念して、「学校給食週間」が定められたのですが、贈呈式が行われた日は、学校の冬休みと重なるため、1ヶ月遅らせて毎年1月24日から1週間と定められています。この期間には、全国各地の学校給食では地域の産物を取り入れた献立や、昔の献立を再現した給食を行うなど、さまざまな行事が行われています。
この時の脱脂粉乳は、ずいぶんと日本の子どもたちを救ったのです。その後、1964年から約2年間、脱脂粉乳から牛乳への移行期にかけて委託乳(脱脂粉乳と牛乳の混合乳)が導入されました。その時の混合比率は牛乳3:粉乳7、翌年は牛乳と粉乳が5:5でした。そして、1966年前後よりびん牛乳が導入され、中身が牛乳(生乳100%使用)になったのは1970(昭和45)年頃でした。その後、テトラ・クラックが、1964年の東京オリンピックで採用され、70年代以降急速に広まりました。ただその形状から積み上げることが難しかったため、徐々に四角いタイプに取って代わられます。それが、ブリックパック、ゲーブルトップ(パック上部が屋根型)と呼ばれる今の形で、軽く保管性に優れ、運搬しやすいため、1980年代以降に普及しました。
このような歴史を経過して、今の日本があることを忘れてはいけないと思います。

戦後” への8件のコメント

  1. 私は保育園出身です。記憶にあるのは、アルマイト容器の中のミルクでした。脱脂粉乳または「委託乳」だと思います。味はそんなに悪くはなかったと思いますが、果たしてしっかりと飲んでいたか?現在、牛乳は全く飲みませんが、小学校3年生くらいまでは将来は牛飼いになるのかと揶揄されるほど牛乳を飲んでいたようです。おそらく保育園の「ミルク」もしっかり飲んでいたのでしょう。さて、今回は敗戦後の日本の子どもたちに差し伸べられた戦勝国からの救援物資の話題ですね。おかげでわが国は「経済大国」と言われる様な国に成長したと思っています。現政権の総理が教育支援を海外に対して行うと表明しています。それはある意味では恩返しと言えるでしょう。やってもらったらちゃんとやってあげる関係性の構築を私たちはしなければなりません。そのためにはやってもらったという意識がもてるようにならなければいけませんね。「このような歴史を経過して、今の日本があることを忘れてはいけないと思います。」とは全くその通りだと思います。

  2. 人や物事と向き合うとき、そこにどんな歴史・世界を見ることができるかが大事なことだと思っていますが、それができていないために反省することがよくあります。今回の話のような歴史もそうですが、もっと個人的な人の歴史に関しても同じだと思います。様々な歴史を経て今の人や物事があると考えることが自分自身の成長のためにも欠かせないと思っています。今をきちんと捉えるための歴史観をもっときちんともたなければいけないと反省しました。

  3. 脱脂粉乳で育った世代です。アルマイトの容器の脱脂粉乳を鼻つまんで飲んでいました。時々、熱で表面が湯葉のような膜が張っていたように記憶しています。ともかく栄養になるからと強制的に飲まされました。あんまり給食に楽しい思い出はありせんね。今年の1月、福山市教委が市民を対象に思い出の学校給食ランキングをまとめています。第1位はあのサクッとした食感と程よい甘さの「揚げパン」。私も好きでした。第2位は幻の「クジラの竜田揚げ」。第3位はカレーライスだそうです。今はもっとおいしくて子どもたちの喜びそうなメニューになっていますが、あの頃は味よりも栄養の時代でした。

  4. 鯨の竜田揚げとコッペパンに脱脂粉乳世代でございます。
    カレーシチューなんぞがメニューの日は、熱があっても登校したものでございます。
    戦前生まれの両親は、よく食うや食わずの敗戦直後の話をします。
    食糧難の時代、子どもにお腹いっぱい栄養のあるものを食べさせられなかった親の気持ちはいかばかりかと思いを馳せます。

  5.  日本が戦後の復興をしていく過程において様々な援助を海外から受けています。ユニセフはもちろん、世界銀行からの援助もあったと聞きます。でもあまりそれらを知る機会がありません。以前、JICA(国際協力機構)からの援助を受けていたスリランカの方から、こんな話を聞きました。昔、日本が戦争に負けた時、スリランカの大統領は日本に対して、賠償請求を破棄した。だからその時の恩返しで、いま日本は我々に援助をしてくれているのだと。その時、その大統領が引用した仏教の言葉「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みをすててこそやむ」は実に示唆に富む言葉ですね。

  6.  祖母から小さい時に戦争中の話しを聞いていましたが、本当に平和な時代に私は生まれたと思います。戦争によって食事も十分に食べることができない、住む家がない、という状況から今の日本まで成長したのは素晴らしい発展だと思いますが、ユニセフから支援をしてもらっていたという事は忘れていはいけませんね。実は今回のブログで戦後日本も支援を受けていたという事実を知りました。どちらかと言うと日本は支援をしている側という印象が強い為、日本は過去に支援を受けていたのは考えもつきませんでした。確かに、日本は現在たくさんの物資を支援をしているかと思いますが、だからと言って大きい顔をして当たり前のような態度をとってはいけないです。

  7. 脱脂粉乳を実際飲んだことはないのですが、その手の話になるとみんな苦い顔をする方が多いのでそういった味なのだろうと思います。最近普通に飲むことが多い屋根型の牛乳パックに移行されるまでにも多くの経緯があったんですね。それがユニセフの支援から始まったというのは初耳でした。戦後そういった時代があり、今の日本があるという謙虚な心は持ち続けて行かなければいけませんね。
    物事には始まりがありますが、意外なところに歴史を感じることがこのブログを読み始めて多くあります。なぜ、どうしてと色々なことに目を向けていければと思いました。

  8. 日本が物質的に豊かになったと同時に精神的に貧しくなったという話を、小学校でアルバイトをしていた頃に耳にしました。それをなるほど確かにそうかもわからないと実感したのはその当時の給食の時間で、とても多くの子が給食を残していましたし、全く手をつけない子もいました。学校が終わった後友だちとすぐ近くの回転寿司に行くから食べない、とその理由を聞いた時のことは忘れられません。豊かな時代に豊かに生きるということは、心の育ちなくして出来ないことなのかもわからないと改めて思いました。

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