社会の一員

人類は、社会を形成して、その中で社会の一員として役割を分担して生きてきました。人は赤ちゃんの時から、少しずつ社会の一員となるべくいろいろなことを学んでいきます。それは、人とのかかわりの中で生まれてきます。そのかかわりが薄くなるのが少子社会ではないでしょうか。それは、子ども同士の関わりだけでなく、地域とのかかわり、社会とのかかわりが希薄になり、逆に、親子の関わりが必要以上に強くなることも意味します。もう一度、子どもたちに、社会の一員となる意識をつけ、その中で自分の役割を見つけ、自己の主体性を発揮しながらともに生きる社会をつくる基礎を培っていく必要があるでしょう。
それとは少し意味合いは違いますが、21世紀に入り、世界の様々な地域でシチズンシップ教育といわれる教育が行われるようになってきています。それは、「市民性教育」「市民教育」とも訳される教育ですが、日本では、その言葉を使うと少し誤解を生むので、私は「社会の一員意識教育」と呼んでいます。
日本でも最近は、学校教育の中で教科として位置付ける学校も増えてきたようですし、以前オランダのイエナプランという教育の講演を聞いたときにも、その柱の一つがシチズンシップ教育であるとも言っていましたが、もともとは、イギリスのシチズンシップ教育が有名です。そして、現在イギリスでは、2002年に新教科「シチズンシップ」が国の法制化を受けて必修化されています。しかし、このシチズンという「市民」というのは「国家」というような意味があるようですが、本来は違うような気がします。そこで、私はシチズンを「社会」と訳したい気がするのです。そんな試みも行われています。
戦争のない平和なヨーロッパ社会の構築をめざす欧州評議会では、1997年に多文化状況やEU発足による域内統合に対応するために民主的市民教育を推進する活動を開始しています。しかし、これもどうも市民教育というよりも市民運動のような気がします。どうもシチズンシップにはいくつかのパターンがあるようです。まず、絶対王政のもと国王・貴族の支配で苦しんでいた人々が、自ら市民としての権利を求めて立ち上がった「自由主義的シチズンシップ」という概念です。その中で、市民は、信仰・言論の自由や私的財産の所有、参政権、社会福祉など、市民権を次々に獲得していきました。次に生れたのが、福祉国家は経済的な壁にぶつかり崩れ、市民に平等な福祉を行なっていては国が立ち行かなくなってきたことから、アメリカで起きてきた「ボランティア的シチズンシップ」やイギリスでの「政治的シチズンシップ」が現れてきました。国家の福祉政策に頼らないで自分たちがコミュニティーに参加し課題解決をしていくというような能動的な市民の活動を指します。これで「市民権」が「市民性」になってきたのです。そして、国家を超えた地域・組織の提唱するシチズンシップ概念が提唱されてきています。それが、1990年代以降にヨーロッパを中心に登場する「グローバル化に対応したシチズンシップ」が生まれてきています。
私の「社会の一員意識」とは、人類としての社会を形成する中での生き方の問題です。それは、個人の力のみならず、世界の中に点在する地下資源も、海域資源も、その国の所有物という考え方から、人類が継続していくために必要なものを、役割を分けるためにいろいろな地域に分散して存在させているのではないかと考えています。

社会の一員” への8件のコメント

  1. 「人は一人でできることが少ないから支えあって生きている」と、よく聞くセリフですがまさにその通りですね。そして、それが世界規模で行われているのを改めて感じます。
    日本は裕福な国なので自分たちの周りには物があふれています。その物を作るにもいろいろな資源を利用して創りだされてきました。
    しかし子どもは物ではありません。我々保育に携わる人間として少子化社会となった今、保育園でしかできない「人とのかかわり」を学んで行ってほしいです。

  2. 地下資源がそれぞれの地域に存在しているのも人類が継続していくためという考えは、なるほどと思わされました。人だけでなく、様々なモノも、その存在には大きな意味や役割があると考えると、今まで見えていなかったものが見えてきそうな気がします。とはいっても理解が不完全なので本当にぼんやりとではありますが。社会の一員として具体的に行動するために広い視野でものを見る、という意識が大事なのかもしれません。

  3. 程永華駐日大使が母校の大学の交換留学生で、ちょうど同じ時期に大学生活を送ったので、中国には親しみを感じていましたが、今回の尖閣諸島をめぐる一連の騒ぎはとても残念です。改革開放で経済大国になったとはいえ、政治的には一党独裁のお国柄。付き合い方を間違えるとえらいことになりますねぇ。「市民性」を自主性とか自律性と捉えると、この国には、真の意味での「市民」という概念がまだ存在しないんだと思う。だから、平気で日本のアニメのキャラクターを真似るし、海に勝手に境界線を引いて自分の領土だと言い張る。人類がこれからも生きていくためには、自国のエゴを捨て、「世界市民」の自覚で力を合わせていかないといけないと思います。

  4. やはり思い出すのは、昨年当園を訪れたフィンランドの方の言葉です。フィンランドはスウェーデン、ノルウェー同様citizenship教育を幼児教育の世界においても重要視しています。人口は500万人ほど。そのフィンランドの教育の根底にあるのは、一人の落ちこぼれを出す、すなわち社会貢献できない国民を一人出すことによって、それ分国力が減じる、ということでした。私は、人口1億2千万人の日本にも落ちこぼれを出す余裕は本当はない、と思っています。しかし実際はどうでしょうか。引きこもりの若者が70万人とも150万人とも言われている国に現在の日本はなっています。「引きこもり」は英語でsocial withdrawalといいますが直訳すると社会から撤退する、社会から遠ざかる、ということです。「社会の一員」ということを保障する教育をわが国でも展開しましょう、と今回のブログを読みながら熱くなったところです。

  5.  社会の一員と聞いて、ある事を思い出しました。大学の面接試験を受けた時の出来事です。結論からいうと、その大学は落ちたのですが、面接の質問の中に「あなたが社会に貢献していると思うことはなんですか?」と聞かれました。恥ずかしいですが、その質問の意味が理解できず質問に答えることが出来ませんでした。まず、根本的な部分である「社会」とは何なのか?という事です。社会と聞くと授業で習う社会しか頭に浮かばなく、地域との関わりという発想がありませんでした。今はブログから社会というものを、何となくは理解できるようになってきましたが、もう一度、自分自身が「社会の一員意識」というものを見直してみようと思います。そして、子ども達にも、子ども同士の関わりの中で「社会」というものを少しずつ知って欲しいと思います。

  6.  「Social Capital」という言葉があります。社会関係資本という訳が一般的ですが、ある人は「ご近所力」と説明していました。近所に住む人々が互いに協力しあうことで、社会生活を豊かにすることができるという概念です。日本の昔の村社会は、おそらくSocial Capitalが高い、(強い?)社会だったと思います。そしてそれは、村人が互いに協力していかないと生活が成り立たなかったからとも言えるでしょう。反対に今の日本は、あまりご近所同士で協力しなくても普段の生活が成り立ってしまいます。職場と住居が遠くはなれている人も多いです。すると地域への帰属意識も薄くなることでしょう。今の日本社会で子ども達(大人も)が、社会の一員という感覚を持つにはどうしたらいいのでしょうか。難しい課題ですね。
     いま近所同士で協力しなくても普段の生活が成り立つと書きましたが、実際は近所どころか、世界中の国々と関わりながら生活しているのだけれど、普段はなかなかそういう実感が湧きにくいですね。一瞬だけでも鎖国してみたら、実感できそうな気がしますが無理なのでしょうね・・・。

  7. 少子化になることで、浮き彫りになることが多々出てきましたね。以前は考えられなかった引きこもりの問題など、今の子どもたちは多くの問題を抱えているのも、人との関わりが減り、「社会の一員」としての役割を実感することが出来なくなったからだと思います。それだけ、人との関わりが少なくなった分、保育園が行わなければいけない役割も今までとは変わってきていますね。人とのつながり、社会のあり方を保育園で学んでいって欲しいですね。

  8. 現在の内容とリンクするようなブログで、先生が考えてこられたことを肯定するような、例えばハリス氏のような存在が現れることは、本当に意味のあることだと改めて思います。
    そして最後の段落の考え方は、前回のチタンの回を受けて、とても納得してしまいました。何かの本で読んだ、奪い合えば足りぬ、分け合えば余る、という言葉が古く感じられます。そういう本能的な人間性の話ではなく、理性と知性を兼ね備えた人間の営むべき社会の形であると思いました。

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