自分という存在

 今日は、成人式でした。
 私が、小学校の教員の頃、少しワルだった中学生の面倒をみていたことがありました。その子たちの中の4人が、私の結婚式にテープでメッセージをくれました。そこには、「ぼくたちは、先生から、自分の存在感を学びました。いつも自分はこの世には用はないのではないか、自分は存在する意味がないかと思っていました。しかし、そんなぼくたちでも、世の中では必要なのだということを教えてもらいました。」というような内容でした。こんなことを書くと、いかにも私はすばらしい教師のような気がしますが、そんなではありません。この子たちと付き合い始めた頃の中学校では、忠生中で問題になったような、第1期の校内暴力が盛んな頃でした。この子たちの仲間も、当然のように、「いじめ」「万引き」「恐喝」が行われ、トイレの戸や教室の壁や窓は割れたままでした。そんな彼らでしたから、学校では、いつも邪魔扱いでした。「いないほうがいい。」「お前なんか、用はない。」「じゃまだ。」と言われ続けていました。そんな時、私は、彼らと知り合いました。そのころ、私は、子ども会を作ったばかりで、人手が必要でしたので、彼らを子ども会に誘いました。そして、中学生なので、リーダーをやってもらいました。小学生たちは、とても喜びました。一緒に遊んだり、甘えたりしました。そして、終わって、帰るときに小学生たちは、みんなこう言ったのです。「また、来てね。」初めて、自分が必要であるという体験をしたのです。自分を求めている人がいるのだという経験をしたのです。そして、そのあと、彼らの中の一人が、夜間に通って、男性保育士になったのです。
 昨年、私の園に一人の男性が紹介されてきました。彼は、高校を数日行っただけで、その後不登校になり、家にずっと閉じこもっているのです。彼は、子どもと一緒に過ごしたいので、ボランティアで園に来たいと言います。最初、少し心配でしたが、毎日きちんと通ってきます。そして、黙々と子どもたちと遊んだり、面倒を見たりしてくれました。そこで、9月から少しは張り合いになるのでは、ということで、夕方の保育のアルバイトにして、少し給料をあげることにしました。しかし、金額には限度があるので、勤務を15時から19時にしました。すると、心配そうに、「午前中から来ては、いけないのですか?」と聞きます。そこで、時給の金額を低くせず、15時までは、無償ボランティアで来て、そのあとは、きちんと働いてもらうということにしました。年度が終わる頃、みんなの勧めもあって、もう一度、高校に行ってみたいという申し出がありました。そこで、みんなで応援して、夜間の高校に入ることができました。(どの高校かをみんなで選んであげ、試験の日は、みんなで励ましました。いつ、やめると言い出さないかが心配だったのです。)その彼が、1学期の終わりに成績を持って、見せに来てくれました。そして、先日、2学期の成績を持って見せに来ました。みんなが感心したのは、まず、1,2学期を通して、遅刻、欠席が1日もなかったことです。そして、成績も、10教科のうち、7教科が「5」(もちろん、5段階)で、2教科が「4」、1教科が「3」です。もうひとつびっくりしたのは、彼は1年生なのに、生徒会長に選ばれたそうです。投票で、他の2,3,4年生をしのいで、選ばれたのです。私は、持ってきた通知表をコピーさせてもらいました。彼は、もって来た日、1日中、子どもたちと過ごしました。帰りに、子どもたちに「また、来てね。」と言われていました。

自分という存在” への9件のコメント

  1. 藤森先生のお話を始めて聞いたとき、一番印象に残ったのが中学生の子ども達のことでした。
    みんなでコタツにはいり一人入る場所がなかったから、抱っこをした・・・
    というようなお話その他、まるでTVドラマのような話だなぁと本当に感激したのです。
    高校生の話も素敵ですね。‘みんなで励まして’が目に浮かびます。我が娘も中2で不登校です。
    親として本当に難しい、大きな課題を頂いているようです。
    これが親として、また保育者としての修行なのかもしれません。

  2. 先日野見山さんから教えていただいた『致知』にあった“縁を生かす”の女性教師と男子生徒を思い出しました。先生もすばらしいですが、生徒の心の中にはその土台が育っていたのだと思います。その土台を育てるのは家庭と私たち・・・。だとすると、一日一日を丁寧に大事に保育をしていかなければ・・・とあらためて思いました。感動いたしました。

  3. ●後段読後、「うぅ?ん」と唸(うな)ってしまいました●まず最初に、そろそろ求職時期にかかる、我が子の姿が思い浮かびました…●次に、本園で働いている若い先生たちの職業意識について思いました…●そして、この話が含んでいるいろんな意味について、思いを巡らしていると、また、「うぅ?ん」と唸ってしまいました。

  4. 自分という存在を認められることがどれだけ大切なことなのかを読んでいて感じました。あるコミュニティの中ではもしかすると認められないこともあるかもしれません。そんな時に別の価値観のコミュニティがあれば、そこでは認められることもあると思います。社会全体が一つの価値観に染まってしまうことなく、多様な価値観があることは社会にとって大事なことかもしれませんね。

  5. 誰かに必要とされるのは本当に嬉しいことです。反対に自分は必要とされてないのかなと感じてしまうとこんなに辛いことはありません。仕事の面でも生活の面でも、必要とされている感覚があると様々なことにも前向きに取り組めますし、頑張るエネルギーにもなります。現代のように、いろいろなことを均一化し、誰にでもできるような仕組みすることは、必要とされるという感覚を薄れさせていくのかもしれません。子どもたちに対してもその子、その子に応じた関わり方があり、これが正解の関わり方という均一なものはないはずです。子どもに応じた関わり方こそが、その子の存在を認めていくということになるように思います。だからこそ、大人の世界もまた、一人ひとりの存在を認めた上で成り立っている世界であってほしいと思います。些細なことでもいいので、あなたを見ているよというメッセージが行き交うといいなと思います。

  6. 「また、来てね」。すばらしい言葉ですね。人を暗闇の世界から、助け出す言葉があるとしたら、きっとそのような「自分という存在」を認めてくれる言葉であると信じています。子どもという存在は、計り知れませんね。まず、計ること自体が間違っているのかもしれませんが、そのような言葉をふと何気なく真剣に心から発することができるのは、子どもの魅力のひとつですね。社会の大人が世間体を気にして、そのままの感情を押し殺してしまうような姿にはない純粋さを感じずにはいられません。子どもがいることで、世界は成り立っているようにさえ感じます。

  7. 中学生たち、藤森先生と出会って本当に良かったと思います。個性が大切といわれ続けてから相当日にちが経ちますが、個性を出すと、おそらく「はみ出る」ことになり、結果として、周囲から厄介者扱いされることがあります。その中学生たちもそのものとして受け入れてもらえていたら、はみ出さなくても良かったかもしれません。もっとも、はみ出したおかげで、藤森先生とお会いできた、ということはありますね。やはり、人間関係はさまざまあったほうがいいと思いました。こっちの世界ではハブされるけど、あっちの世界では自分の存在が認めてもらえる。すなわち「また来てね」といってもらえる、このことが大事なのだと思います。とにかく、ある集団だけがすべて、ではないという認識が大切でしょう。別の集団、あるいは、やり直し、出直し、で自己存在の肯定感を得られるようにしていきたいものです。

  8. 自分という存在を認めてくれたり、必要としてくれる、それは人類にとって生きる価値を感じさせてくれるものだと思います。邪魔物扱いされたり、迷惑と言われたりするなかでの素直なこどもたちの行動、またきてねという言葉は、あなたは必要なんだよ、と言っているようにも感じられました。保育の中でも、どうしても他の子どもへ迷惑をかけたり、物を壊してしまったりする子どもはいると思います。それを迷惑だからと頭ごなしに起ってしまうと、その経験からその子は、どうせ僕は怒られるからと思ってしまうと思います。やはり、頼られる経験やその子が、手伝いをしてくれたり、困っている子へ手を差しのべている姿を見たときには、その子が、必要とされているという思考が働くような言葉がけをしていかなければなりませんね。

  9. 三省の心が奇跡をもたらすのですね。藤森メソッドを学べば学ぶ程、先生という人格を紐解いたもの、先生の子ども観をシステムとして解読し、実践できるものへおろされたものであることを感じています。不思議なことで、英雄、業界のトップの方々が書かれるような様々な本から得る情報も、先生の仰っていることを肯定します。富士山をどこから登っても辿り着く頂上は一つであり、それはつまり、人格を研磨した先にあるものはどこか共通していくということなのでしょうか。

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