日本の子ども

1953_nagano_small.jpg
1953年 長崎(長野重一)
 今、東京都写真美術館で日本写真家協会企画展「日本の子ども 60年―21,900日のドラマ?」が開催されています。これに、今日、行ってきました。この写真展には、1945年(昭和20年)から2005年(平成17年)までの60年、子どもたちの姿を通して見る日本の社会を、日本を代表する写真家約150名が撮った200余点の写真が展示されています。最初は、まず、昭和20年8月6日、広島で被爆した子どもたちの写真から始まります。解説には、こう書いてあります。「焦土と化した都会では、大人も子どもも衣食住に事欠くどん底生活にあえいでいました。街には戦災孤児、栄養失調で尻にしわがよった子などがあふれ、貧困の中から力強く生きることにみな懸命でした。そして日本人は焼け跡から立ち上がり、経済成長へと歩みます。しかし経済優先の社会に、公害や環境破壊が問題となります。その後バブル経済へと一気に進み、バブルの崩壊、混沌の時代を迎えています。子どもたちの諸相は、大人社会を映すきわめて克明な鏡ともいえるものです。200点余の写真を一つのテーマに繋げ、未来に羽ばたく子どもたちへのメッセージにしたいと考えています。」
 以前のブログにも書きましたが、写真とは、とても不思議なものです。時が流れ、時代が流れ、途切れることはありませんが、写真は、ある時を切り取って見せます。その瞬間は、実際の姿ではあるのですが、時間にしては、ほんの一瞬です。しかし、そこから、その時代が見えてくることがあります。しかも、背景としての時代ではなく、心としての時代が見えてきます。特に、その時々の子どもの姿、顔はまさにその心を表わします。なかでも、子どもの「泣き顔」「笑い顔」は、その時代の表面的な悲惨さにも打ちのめされず、次世代への希望が見えてきます。確かに、戦後、生活は貧しく、苦しく、悲惨な状態でした。児童読み物作家の山中恒が書いた本に、「昔はよかった はずはない」というものがあった気がしますが、確かにそう思います。子どもの虐待にしても、子殺しにしても、いじめ、暴力も今の時代だけのものではありません。最近の言葉で、格差社会ということが言われていますが、戦後の格差も大きかったような気がします。しかし、その時代の写真を眺めていると、昔と今の大きな違いは、子どもの「泣き顔」と「笑い顔」です。特に目に焼きつくのは、子どもの笑い顔です。背景が、どんなに悲惨であっても、その前に立つ子どもの笑顔は、本当に楽しそうです。うれしそうです。時代が進み、生活がよくなり、写真の背景は、次第によくなっていきます。しかし、それに反して、なんだか子どもの笑い顔が減ってきます。笑い顔だけでなく、顔つきが変わってきます。無表情に、作り笑いになってきます。なんだか、今後が心配になってきます。
1978_komatsu_small.jpg
1978年東京(小松健一)
このような心配をする「今の子どもたち」に対して、作家で、今回、写真も提供している重松清氏は、このようなメッセージを出しています。「昔の子どものほうが、目がキラキラ輝いていた……。昔の子どものほうが、貧しいけれど楽しそうだった……。もしも、きみたちがそんな感想を抱いたのなら、この写真集にかかわったおとなたちみんな、そっと、黙って、きみたちの肩を抱くだろう。だいじょうぶ。残念ながら、いま、おとなたちがこどもたちを語る言葉は、なかなか「明るい未来」や「希望」とダイレクトには結びつかなくなってしまった。だが、子どもたちは、いつの時代だって、おとなが決め付ける「いまどきの子どもは……」という紋切り型からするりと身をかわす。そんなしなやかさとたくましさを、きみたちは持っているはずだ。」
 子どもとかかわる仕事をしている私たちは、心から笑い、泣く子どもの姿を取り戻す社会を作っていかなければならないのです。

日本の子ども” への5件のコメント

  1. 昔はよかった、昔に返ろうというかけ声に対して、昔がよかったなんてとんでもない、戦中戦後はひどかったとその時代を生きた人が言っていたのを聞きました。私は戦中や戦後のことを知りませんが、「昔がよかったなんてとんでもない」の言葉の方が響いてきます。今の平和は何としても守らなければいけないと思います。それに反して子どもの無邪気な笑顔が減ってきたことに対しては、特に私たちは公的な仕事として常に課題としていなければいけない事だと思います。そこから考えても、どのような保育を目指すべきかは少し見えてきますね。

  2. 「昔はよかった はすはない」なんだかどんとくる言葉です。あの時代はよかったんだろうな、あの人はいいなと、あの人のことばかりを気にして生きているのがもしかしたら今の時代なのかもしれません。あの人の情報であふれています。心から笑い、泣く子どもの姿は自分という存在をしっかり肯定できていたり、その時、その時を楽しく過ごせる人なのかもしれません。そんな人になってほしいですし、自分自身もそうなりたいと思います。そう思える人は強いですし、きっと優しい人だと思います。子ども達がそう思えるためには私たち大人の関わり方や保育の工夫が大切になってきますね。

  3. 「子どもたちの諸相は、大人社会を映すきわめて克明な鏡ともいえるものです」というように、子ども社会をのぞいてみれば、大人社会の映りだされていない部分が感じ取れるということだと思います。また、重松氏の子どもの可能性を信じたメッセージが心に響きますね。社会をおちょくるようにするりと身をかわし、自分たちでもっといい社会を作っていくんだと、いきいきとした姿が見れる事を信じて、私も、子どもの肩を抱いて「だいじょうぶ」という言葉をかけてみたいと思いましたし、大人の役割というのも明確に感じる事ができました。

  4. 子どもの存在を丸ごと信じる、ならば、いまどきの子どもたちも所与の現実の中で、自らの可能性を試しながら、精一杯生きている、その姿を見ることができるでしょう。「心から笑い、泣く子どもの姿を取り戻す社会」の創出のために、私たち大人はどのような環境を用意すべきか、あるいは用意すべきではないか、このことを真剣に考えなければなりません。「心から笑い、泣く」ことを大人は子どもたちに躊躇せずに示す必要があると思います。特に、笑いが絶えない人間関係の中にいる子どもたちは笑いの環境を喜び、考え方も行動の仕方も「笑って泣いて」という豊かな情操環境の自分たちバージョンを創出しようとするでしょう。好奇心と協力と笑顔、を大切にする社会づくりに貢献しようとするでしょう。親として、大人としての私の役割は、好奇心と協力と笑顔、が作り出せる環境を用意する努力を行うことだろうと思います。まことに、これは日々の課題です。今年という1年の幕開けに際し、そして今回のブログの「日本の子ども」を読みながら、そんなことを考えました。「焦土と化した都会」や貧困・虐待から子どもを遠ざけるように日々を考え、行動することも私たちの大人の役割ですね。

  5. 春、土から生まれ出た新芽のように若々しいその緑は煌きを持ち、美しさを携えています。子どもたちは、どの時代でもその輝きで大人を励まし続けていくのかもわかりません。時代は、時を経る毎に必ず善くなり、それこそ焦土と化されたその時と比較すれば、今の日本の悩みの何と平和なことと、先人の方々には一笑されてしまうかもわかりませんね。人は見たいものを見る、と言います。子どもの目の輝きに気付けない程忙しい毎日を送ってしまってはいけませんね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です