協力する能力

次に、仲間と協力する能力の発達を見ていきます。

世界のどこでも、子どもは、自分たちに対して権力を振るう大人とよりも、仲間同士の間での方がずっと平等な関係をもっているとハート氏は言います。彼は、子どもたちの間で、このように地位がきわめて対等であることが、協調性の発達にとって、とくに大事であると考えています。ここでもまた注意しておきたいのは、この理論はアメリカでつくられたものであり、もっと集団主義的色彩が強い文化のもとでは当てはまらないかもしれないというのです。この理論に従えば、子ども同士が相互にわかりあうようになるためには、お互いの言い分をよく聞き、一致しない点を解決しようと試みることが必要であると考えられると言います。まさに、私たちが設置している「ピーステーブル」の役割ですね。6歳から8歳の子どもは、仲間同士で厳密な直接的相互関係をつくるといわれています。つまり、この年齢の子どもは、他の子どもの行為に「同じやり方で」返します。9歳から11歳になると、この厳密な相互関係から協力の関係に変わると言います。というのも上述のように、この年齢では行為の裏にある、心理的な側面に留意できるようになるからだというのです。ヤニスによると、大人との協力よりもこうした仲間との協力の方がより有益であると言います。9歳未満の子どもたちの間では、本当の協力関係ができないからといって、彼らが環境のプロジェクトへ参加できないわけではないと言います。ただその場合、グループをまとめるためには、大人か10代の若者がかなり責任を担っていく必要があるとハート氏は考えています。

先に書いたように、最近の研究では、その時期はかなり早いと言われています。実際に、現場で子どもを観察していると、幼児のころから仲間同士で直接的相互関係を作っています。また、その関係から、4,5歳になるころには、協力の関係に変わっていきます。確かに、本当の意味からではないかもしれませんが、その萌芽が見られます。ということで、十分に幼児期から環境のプロジェクトに積極的に参加することが可能な気がしています。

この理論をもとにすると、子どもが仲間と相互に利益を得る関係を結ぶ必要に迫られたときに、協力することを学ぶとすれば、ほったらかしにしたり、権力を使って強制するような団体よりも、仲間と一緒に仕事をすることが必要な団体の方が、協力する能力をよく発達させるであろうと考えたくなるとハート氏は言います。残念ながら、この問題については、あまり研究例がないそうです。やはり集団における行動の観察は難しいようです。ただ、クラスに対してグループ単位での報酬を与えたほうが、子ども各人に個人的に報酬を与えるよりも高いレベルの協力関係が見られたことを示した研究はあるそうです。もちろん、この問題に関して深く議論するときには、その文化がどの程度個人主義的、あるいは集団主義的な志向性をもっているかを考慮する必要があります。また、女性は大人でも子どもでも他者との関係性をより重視し、相互依存的あるというように、性に関連してもこのような対照的な形態がみられると指摘する人もいるそうです。また、自律的か依存的かの違いは、人が社会階層のなかで、どういう位置にいるかということにより大きく関係しており、女性も含めて自律的な立場にない人は、生き延びるために、他人とのつながりや社会の共通の目標に向かって、熱心になるとも指摘されているそうです。

ドイツ冒険広場

仲間集団とリーダ-シップ

次に、各ステージでの仲間集団はどんな特徴があるのでしょうか?ステージ0では、「身体を使った関わり合いと分かりやすい行動が重要である。例えば、ゲームをするとき、“大きなチームになって”という」ステージ1では、「この段階の仲間集団は、一方的な関りが集まっただけである。グループ活動は、自分のため、もしくは他人を喜ばせる成果として捉えられる。相互的関係は身体的な活動に限られる」です。ステージ2になると、「双方向の相互協力関係ができる。一組の二者関係から別の組へと二者関係同士がつながっていき、“友情の輪が広がる”」です。ステージ3になると、「特定の関係とは区別された仲間集団の概念ができてくる。グループは、共通の関心と考えで結ばれる。しかし、みんなの意見が一致することを期待するあまり意見の違いを抑える」です。ステージ4になると、「グループの作業プロセスと個人の能力の相違は、相互依存的関係にあることが理解される。共通の目的を持ちつつ、多様性を認める多元的なコミュニティが一体化する」

最後に、各ステージにおけるリーダーシップはどういうものでしょうか?ステージ0では、「なぜそのようなことをするのか、といった原理的なものではなく、“これから何をするのか”を、リーダーの行動から理解する」です。ステージ1では、「権威に対しては、従順なため、リーダーが傷ついて辞めてしまうこともある」です。ステージ2になると、「明確な実利的効果に結びついた意見や行動が相互依存性の基礎となっている」です。ステージ3では、「全員一致、チーム精神が尊ばれる。リーダーシップは、パーソナリティの差として捉えられる。またリーダーの義務は、グループの中で共有された信念に基づいている」です。ステージ4になると、「リーダーの役割について、抽象的な概念を持つ」になります。

この社会的な視点の発達における、親しさの捉え方、仲間関係、そしてリーダーシップがどのように関連しているかを見ることは、いろいろな年齢の子どもたちを、もっともうまく参加させるような組織を作るための道具として使えるとハート氏は言います。確かに、これは、保育の中でもかなり参考になります。しかし、ハート氏はこんな注意をしています。「ただし、大人はただ子どもに参加の機会を与えるだけであり、参加する子どもは必ずしもいつもうまくいく活動をするわけではないということを、意識しておく必要がある」というのです。

また、ここで示したように、自己認識の発達と他人を理解する能力は、仲間集団のなかで、または仲間やそうでない人が混在するグループのなかで、子どもが仲間やグループとどんな相互関係を示すかということと密接な関係があると言います。これまで、このような発達のなかでは、幼い子どもたちには何ができないかを表わすということがあまりにも多かったのです。ここでの目的は、むしろ大人が適切な機会をつくれば、子どもがどんなことが

できるかを考える手助けをすることだというのです。組織したり、調整することは、青年期の初期かそれより後まで期待できないとしても、子どもたちはそれぞれの年齢でグループの活動に力を発揮することができるのです。例えば就学前の子どもは、自分の好きなことを表現したり、他の人と一緒にプロジェクトに参画することを楽しむことができるのです。

ものの見方のレベル

ハート氏は、これまで書いてきた子どもの他者理解の発達は、他人の立場に立ったものの見方ができるようになる、という子どもの知的な発達と論理的な能力の面に限られていると信じていると言います。人々が受け持っているいろいろな役割や、それにともなう権限についての理解力は考慮に入れていないというのです。これらの要素は、子どもが他人の目でものを見ることを適切であると考える度合に影響しているに違いないと言います。例えば、子どもがグループのなかの誰かが警官であることを知り、そしてまた警官はよくないことをしている子どもを罰するものと考えているとすれば、子どもがその人物を個人として理解する知的な能力を踏みにじってしまうかもしれず、それが参画しようとする気持ちを弱めることにつながるかもしれないと考えるのです。

こうした理論が、どのように子どもたちをプロジェクトへと呼び込むかを理解するには、ものの見方の「レベル」、親しさの捉え方、仲間関係、そしてリーダーシップがどのように関連しているかを見ることが有益であると言います。レベルとの関連をハート氏は、以下のように示しています。これは、社会的な視点獲得の発達レベルと、それらの社会的な関係における反映のされ方を、1980年のセルマンの研究にならって表しています。ただし、これは、アメリカ合衆国での研究に基づいており、おそらく日本のような集団主義的な文化よりも、比較的個人主義的な伝統のある英国系ヨーロッパ文化と密接な関係があると注意しています。

まず、「見方(視点)を調節する能力の発達段階」です。レベル0(おおよそ3~7歳)は、「自己中心的、あるいは未分化な見方、他者の視点が自分自身の視点から分化していない」段階です。レベル1(おおよそ4~9歳)では、「主観的見方だが、分化した見方、物の見方が人によって違うことがわかる」段階です。レベル2(おおよそ6~12歳)では、「自己内省的、あるいは相対的な見方、自分の考えや感情を他人がどう見ているかに気付く」段階です。レベル3(おおよそ9~15歳)になると、「第三者的見方、あるいは相互共通的見方、中立的見方ができるようになる」段階です。レベル4(おおよそ12歳~成人)になると、「社会的・綿密な見方、何が社会にとってよいことなのか、法律的、道徳的見方ができる」ようになります。

それでは、各レベルにおける親密な友だち関係はどのように発達するのでしょうか?ステージ0では、「短時間、身体を通したかかわりを持つ」で、ステージ1では、「一方的に助けてもらう。例えば、一緒に好きなゲームをしてくれる人を友だちと思う」です。ステージ2になると、「気が向いたときや、何か事件・問題が起こったときだけ協力。喧嘩で関係が壊れる傾向がある」、ステージ3は、「親密な関係ができ、共感ができる。孤独でない関係。この段階では所有欲と嫉妬がときおり特徴的に見られる」。ステージ4では、「自律的であり、かつ相互依存的でもある。すなわち、この段階の関係性は、柔軟で状況に応じて変化していく」です。

他者理解

個人主義文化の伝統のなかで成長する子どもの社会的なものの見方の発達と、もっと共同体意識の強い伝統のなかで育てられる子どものそれとは異なるかもしれません。子どもたちの自己中心的な段階が、以下に述べるようには顕著に現われない社会もあるかもしれませんが、子どもと一緒に活動しようとすれば必ず、ある状況を同時に多面的に考えることが子どもたちには難しいということに気づかされるであろうとハート氏は言うのです。非常に限られた側面においてではありますが、子どもは3歳までには他人にはそれぞれのものの見方があることを知るようになると言われています。しかし、他人にはそれぞれの感情と思考があることにだんだん気がつくようにはなっても、一方で5、6歳までは、人の行動に潜在する主観的・心理学的側面と、客観的・身体的側面との間で混乱が生じます。例えば、他人がわざとやっていることと、そうでないことの区別ができません。7歳から12歳で、子どもは自分を外から見ることを覚え、他人との関わりを自省的に見ることができるようになり、そして他の人々も同じことができるということが分かるようになると言われています。

しかし、この能力は、実は最近の研究では、もっと早い時期に分かるようになるのではないかということが研究されています。ですから、子どもは早い時期から他の人が考えたり、行なったりしていることを、予測できるようになり、自分と他人のものの見方をうまく整理する能力がだんだんに高まってくるのです。初めのうち子どもは、他人の見方をとり入れて、その結果、他人のものの見方や行為の意図がわかるようになります。おおよそ10歳以上になってやっと、自己と他者の間の心理関係を認識するようになると言われてきました。つまり相互的な見方をすることができるようになるということです。そして子どもはこの頃、興味はあるが少しこわいといったような、多面的で入り交じった感情が人にはあるらしいことを知るようになるのです。

青年期までには、人は他人の考えに気づいているだけでなく、他人が自分のことを考えているかもしれないということを鋭く感じるようになります。そのような内省的な力ができてくると、他人と方略的な計画をもって関わるようになります。互いに相手の見方に立つことは、持続的な民主主義のグループに身をおくことができるためには必要なのです。これらの能力はまた、青年期の初期から中期にかけて特徴的な自己意識を高めることになり、そのためにしばしば仲間から孤立してしまったり、仲間との関係や自分が仲間にどう見られているかに極端に重きをおくようになるのです。こういった感情は、若者が他者と一緒のプログラムに参画しようかしまいかを選ぶうえで重要な役割を果たすとハート氏は言います。

青年期のこうした相互的な見方の能力を超えたところに、もっと次元の高い「社会的・象徴的な見方」がある、とセルマンは仮説を立てています。この見方ができてくると、すべての個人が共有できるような、一般化された社会的・法律的・道徳的な見方を形づくっている、複合的で、相互的なものの見方がどのようなものかを想像できるようになるというのです。

人は、正確に意思を伝達するため、また理解を容易にするために、他人はこの共通の視点を使っていると信じています。12歳以降になればいつでも現われ得るこの最終段階は、子どものためにもっとも実り多い、協力的なプロジェクトを用意するべき段階だというのです。

社会性

大人は子どもに、もっとも身近なことを自分で決めさせることによって、自分でも何かができるという感覚を育むことも考えるべきであると言います。自分の着る服を選んだり、作ったりすることや、自分の寝室を飾ることをやらせてもらえなかった子どもは、コミュニティの環境の改善に自分が関わることができるとか、関わるべきであるという気持ちをもつことが少ないようだというのです。

ドイツで子どもの参画の話を聞いたときに、例えば、昼食を、「誰と、どこで、何を、どのくらい食べるのか」を自分で決めることができるといったのは、ここでハート氏が言っているような、大人が子どもに、最も身近なことを自分で決めさせることによって、自分でも何かができるという感覚を育むことなのですね。

ここでひとつハート氏は、注意をしています。アメリカ合衆国のあるところで、自尊感情を育てるためのプログラムが実行されました。それは、あるグループ、あるいはあるカテゴリーの子どもたちは、特定の標準的な学業についていけないので、そういう子どもを元気にするには、特別の努力が必要だと考えて行なわれたものだったそうです。そのような取り組みは、ややもすると、子どもに横柄な態度を取ったり、攻撃的になったりしやすいのですが、子どもたちは、自分たちが真面目に扱われていないことを見て取ってしまうものです。子どもたちは、世界で競争ができるようになる必要がありますし、大人は子どもたちの強さと弱さを正直に彼らに伝え、その正直さのうえに立って指導をする必要があるというのです。どんな子どもにも、なんらかの優れた点があります。一人ひとりの子どもを支えるのに、これらの優れた点を認めることは確かに良いことではありますが、別の分野の劣っている面をカバーするようなことまでしてはならないというのです。これは、慎重に歩みを進めなければならない指導の過程であり、子どもを参画させるファシリテーターの質とトレーニングが非常に重要な理由のひとつはここにあるとハート氏は言うのです。

次に、社会性の発達については、ハート氏はどう考えるでしょうか?まず、その中の「他者のものの見方を理解する能力の発達」について考えます。参画する能力は、他者の考えや感情について考えるという基本的な能力に関係しています。自分の見方とは違った見方があることを理解することは、子どもたちにとって難しいことだとハート氏は言います。しかし、このことを知ることは、子どもと一緒に協力的なグループ活動をしようとする人にとっては、大事なことだというのです。少なくとも知的な面からいえば、小学校低学年でも子どもは大人と一緒に活動する能力があるのです。しかし大人は、子どもが他人のものの見方を理解する力には限界があるということをよく知っておく必要があると言います。しかし、残念ですが、ここでもまた理論は北半球の先進工業国の子どもたちに関する研究に基づいていると言います。英国およびヨーロッパ大陸の個人主義文化の伝統のなかで成長する子どもの社会的なものの見方の発達は、もっと共同体意識の強い伝統のなかで育てられる子どものそれとは異なるに違いないというのです。では、日本の子どもたちはどちらでしょうか?私は、日本は、非常に共同体意識の強い伝統を持っていると思っていますが、最近、どうも欧米化したり、欧米の考え方が正しいと思って、それを取り入れた育て方をしている人が多くなっている気がするのです。

未知の可能性

子どもたちはいろいろと違った環境の下に生きているのですが、子どもが自分の能力に対する考えを発達させるうえで、その社会の構造が重要な役割を果たしていると言います。自分を抑えて、言われたことをするようにと強制される学校のような環境では、それが極端になると、子どもたちは依存性が高く過度に控えめになり、その結果、学びたいとか働きたいという欲求を失ってしまうと懸念します。それとはまったく逆に、完全に自由に遊ばせ、好きなことをさせれば、子どもたちは混乱に陥ります。子どもたちが、自分は人の役に立つ現実的な仕事ができるのだということを発見できるようにしておく必要があるというのです。こうした達成感によって、彼らは自分自身の未知の可能性に気づくようになるとハート氏はいうのです。

コミュニティプロジェクトに関わりたいという子どもの欲求や、その能力を踏みにじる最大の要素は、自分自身に対する感情だとハート氏は考えています。これは、自分の属している社会階層や文化について、どう感じているかということと関係していることがたいへん多いと言います。ロバート・コールスは、アメリカ合衆国の貧しい家庭の子どもと一緒に行なった研究を通して、貧乏に加えて差別と無力感の経験が重なると、子どもの自分に対する感覚および何かを変える力が、どんなに打撃を受けるかを、明らかにしました。自尊感情が乏しい子どもは、自分の考えや感情をゆがめて伝えてしまう、防衛機制を発達させる傾向があるので、こういう子どもはグループに参画することがとくに難しいと言います。ブラジルのもっとも貧しい都市近郊で、「路上教育者」や、正規ではない学校や民間の学校の教師たちは、「貧困のなかで生活をしている子どもと一緒に活動する場合、まず彼らの心に自分が属する文化に対して強いアイデンティティを育てることが大切である」と、ハート氏に繰り返し説明したそうです。帰属の意識があってはじめて、子どもは自分のため、また自分のコミュニティのためによく働くことができる、と彼らは説明したのです。こういうわけで、子どもと一緒のプロジェクトでは、最初に音楽やタンスや劇を重視しながら、彼らの文化的なアイデンティティの表現を創り上げることに集中します。こういうイベントを創り出す過程で、子どもたちは、彼らの文化の歴史や貧困・差別のルーツに直面することになるのです。それはまさに、パウロ・フレイレが「意識化(conscientization)」と名づけたプロセスです。この機会に、子どもの参画において文化がどんなに大切な役割を果たしているか、ということを反芻してみるとよいとハート氏は提案しています。文化が違えば、労働を担う子どもの年齢や性別役割分担が違い、子どもたちを参画させるためのプロセスが違ってきます。一部の子どもが、遠慮して割り当てられたことをしないように見えるのは、子どもがもつ役割に対する期待が、文化によって違うことと関係があるかもしれないとハート氏は、考えています。

大人が期待しているほど、積極的に参画していないようにみえる子どもたちを、もっと本格的に参画させようとするなら、状況を確かめ、もっている力を表現する能力を最大限引き出せるような機会をその子に与える、という原則に従うことが大事であるというのです。これはさまざまな参画の方法と、多様な表現のメディアを使わせることを示していると言います。

文化による違い

エリクソンは、アイデンティティの意味を「ある人が内的な同一性と連続性を維持する能力が、他者の目にうつるその人の自己の意味の同一性と連続性に合致していることから生じる自信である」と言っています。したがって、青年はよく心の中に湧き出てくる自己の感覚を、いろいろな状況の下で、服装とか振るまい、言葉などの強いシンポルを使って試すというのです。青年はもっと深い内面を問題にしているのですから、彼らが取り組むプロジェクトは、自分と他人をとことん比較し、対比させることができるようなものでなければならないと言います。シンボルは若者の文化を目に見える形で結びつけるものとして機能するものであり、言葉、服装、音楽、儀式、活動などがその役割を果たします。若者の団体にとって大事な機能は、若者が個人的・社会的アイデンティティを積極的にぶつけあいながらひとつの文化をつくりだせるような状況を用意することだというのです。

また、団体はメンバーが自分たちのシンボルと、儀式を何度でもつくり直せるだけの柔軟性をもっていなければならないといいます。若い人たちの心を捉え続けている団体には、いくつかの大きな特徴があるようです。若者の団体は複合的にならざるを得ません。とくに、若い人たちが彼ら自身のやり方で定めたたくさんの文化やアイデンティティに参画する場合にはそうです。うまくいっている団体では、若者はいろいろな役割を試す機会をもつことができ、また見習いとしても、専門家としても、活動する機会があるのです。これらの団体で、大人はその団体の文化はこういうものであると決めつけ過ぎてはいけないと言います。そうではなくて、大人は信頼にあたいする基盤を用意し、目的意識を持ち続け、そして若者のもつ問題や目的、要求を、彼らが自分自身で定義したように理解する必要があると言います。大人は自分たちの価値観を正直に伝えたり、それらを若者の価値観と比べてもいいのですが、評価という形をとるべきではないとハート氏は言います。もしそうすれば、若い人たちの仕事に対する責任感や、アイデンティティが弱くなってしまうからだというのです。このように、若者の団体を支援することは、たいへん難しい仕事だと言います。その構造と支援体制はきわめて重要ですが、大人の役割も重要だと言います。これらの団体が若い人たちを引き寄せて、その若い人たちにコミュニティに参画したり、コミュニティのために働くことを促そうとしているなら、大人はその団体の文化が若者たちの力で、しっかり形づくられるようにする必要があるというのです。

ハート氏は、年齢とともに進むと思われるアイデンティティの発達のいくつかのパターンについては、このような見解を持っているようです。しかし、彼は普遍的なものととらないでほしいと注意しています。この話をなお複雑にするのは、アイデンティティとか自己概念は文化によってたいへん違うものだということがあるからです。彼は、そのことにほんの少ししかふれることができないと言います。例えば、アジア文化圏の子どもたちは、北アメリカの子どもたちよりも集合的な言葉で自分のことを話す傾向があると言います。参画のためのどんな機構も、子どもや青年が自分の文化に合った方法で、アイデンティティや行動を世の中に探し求め、発達させることが許されるような柔軟なものでなければならないのは、当然であるというのです。国連子どもの権利条約の「参画の条項」が西欧社会の偏見を反映していることもあり得るというのです。これらの原理がいろいろな文化圏に広まる前にしっかりと反省し、議論しなければならないというのは、こういう理由によるのだとハート氏はいうのです。

アイデンティティの発達

さらにパーソナル・アイデンティティとか自己概念というのは、どちらかというと西欧的な観念であり、他の文化ではより広く社会につながっていることが個人の位置づけとして重視されているかもしれないとハート氏は考えています。しかし、子どものアイデンティティの発達に限っては、アイデンティティとは何かしら個人の内部にだけあるものではなく、社会的なプロセスであるという点が、すべての理論において共通していると考えます。社会への理解と、自分の理解は、相互に影響しあい、規制しあいながらできていくと言うのです。

いろいろな説があるなかで、児童期中期と青年期におけるアイデンティティの発達の度合は違うという点ではみな一致しています。このことは子どものコミュニティ参画ととくに関係があり、子どもと青年とでは違った参画の仕方が必要であると言われています。8歳から11歳の子どもたちは、独立したアイデンティティを形成するにつれて、熱心で、外向的で、勤勉になります。一方、青年はより内省的、哲学的で、自分でつくってきたアイデンティティを試すという特徴があると言います。ですから、子どもにとってのグループが、自分の力や独立心の芽生えを表現する場所であるのに対して、青年にとってのグループとは、つくりあげつつある自分のアイデンティティを試すための舞台の役割を果たすと言います。

児童期中期の勤勉さの高まりは、いろいろなことを他の人と一緒にすることとも関係していると言います。労働というものが、いろいろに分かれていることに気づき、この時期に広がる機会を仲間と分かち合うことを覚えるのです。そして子どもたちは、経験や自己像を自分のものにしていくやり方は、他者が自分を見る見方とほぼ同じであることを、きちんと認めてもらいたがります。この年齢の子どもたちのための団体は、例えば地域調査を行なうというような取り組みやすく、知的な魅力のあるプロジェクトへ誘う刺激と材料を与えるべきだと言います。この年齢の子どもは、自分のアイデンティティを感じようとして、世間に対して積極的になることに、たいへんなエネルギーと意気込みをもっており、また次第に世界を鏡として使うようになります。しかし、10代の初めぐらいの子どもは、強い勤労意識に突き動かされる一方で、努力がうまく実らなかったとき、あるいは適切な反応がなかったときには、劣等感で挫折してしまうこともあり得ます。子どもは、ときには高過ぎる望みを実現しようとしますが、そうしたときには団体がそれをサポートする必要があると言います。団体は、意義のある具体的なプロジェクトに子どもを関わらせるだけではなく、子どもの大きな計画をその団体の仕組みと実際的な資金の面で支え、失敗しないようにできるだけ守ってやることも必要であります。またその団体は、子どもが失敗に対処することを学ぶ手助けをしなければならないこともあります。もし確実なプロジェクトと適切な指導が行なわれるならば、この年齢の子どもは地域の一員としての役割を果たすことができるというのです。そこでは勤勉さが評価され、仲間や大人と一緒に意味のある仕事に従事することができるからです。青年は大きな生理的変化を経験するとき、自分の社会的な役割を確かめようとして、いくつもの違ったアイデンティティを試してみます。有名な理論家エリック・エリクソンは、アイデンティティの意味を定義づけています。

それぞれ違った能力

学校の成績がよい子どもの親は、実践的な知能よりも言語能力や公式的な数学の知識の方が大切だとする、学校と同じ教育観をもった人々でした。世界のどこでも、親たちは、特定の子どもたちは音楽の才能や他者と関係を結ぶ能力が、他の子より速く発達する、あるいは、そういう能力が他の子より大きく発達することを知っています。しかし、教育界では、言語能力のある子どもがより知的であるとみる傾向があります。それに対して、ガードナーは、「少なくともひとつの文化圏で重要とされている、問題を解決したりものを作りだしたりする能力や技術、およびその集合体」を知能と呼びました。この定義は、参画する時期が異なるさまざまな子どもの能力を考えるのに役に立つとハート氏は言います。私もガードナーの理論は知っていましたが、それが、参画に関係するとは考えませんでした。

このガードナーによる知能の概念は、子どもが参画する際に、子どもはある年齢ではこれができる、あれができないと普遍的に決めつけてはいけないということを意味しているというのです。むしろ私たちは、すべての子どもの参画する能力を最大にするために、参画の仕方や、利用できるメディアをいろいろ用意すべきだというのです。また、それぞれの力量に応じて、子どもたちを別のグループに分けてしまうことも、やはり間違っていると言います。私たちの多くは、子どもの頃クラスメートのなかに、自他ともに認める芸術家がいて、他の子が真似して描けるように、木や花の正しい描き方を実際にやって見せてくれたことを思い出すだろうと言います。私たちの目的は、伸びつつある能力を、知能のあらゆる領域で伸ばす機会をつくることでなければならないというのです。そのために大切なのは、みんな同じようにいい子だと思わせることではなく、子どもたちそれぞれに違った能力があることを子どもに正直に話すことだというのです。そうすればきっと、お互いの知識や技術を共有したり、必要なとき、例えば他の人に向けて発表するようなときには、その分野に関して代表として出ていくのにふさわしい能力をもった仲間を、こころよく選出するといった、協力の気持ちが、子どもたちの間に育ちやすくなるだろうというのです。

それでは、アイデンティティの発達はどうであるのでしょうか?また、それは、参画にどのような影響を及ぼすのでしょうか?

児童期および青年期のアイデンティティ形成に関する理論はいろいろありますが、それらはヨーロッパや北アメリカでつくられたものであるために、どうしても文化的に偏っていると言わざるを得ないとハート氏は言います。これと同じようなことが最近いろいろなところで言われています。例えば、日本人は、自尊感情が欧米の子どもたち、若者に比べてかなり低いと言われています。しかし、最近は、日本人は、自分を卑下したり、謙遜する文化であり、欧米は、自分を誇張したり、自分をよりアピールする傾向があるということからであり、必ずしも嘆かわしいことでもないのではないかと言われています。どうも、保育方法も、欧米を手本にしたり、標準化したりする傾向があります。例えば、西欧は、自分の意見をきちんと持ち、個々を大切にします、それに対して、日本では、同調圧力のような、集団における圧力を感じたり、皆がしているからというコック民政のようにネガティブに捉えますが、それは、逆に言えば、皆と協調する、皆と協力するという文化を持っているということになり、それは、人類がこれから必要な力を日本人はもともと持っているとも言えます。もう少し、日本の文化を大切に、それを生かす方法を保育では考える必要があると思っています。

参画する能力

コミュニティ参画のプロジェクトに子どもを参画させようとしている人たちは、身近な環境で起こっていることを知っていくなかで、プランナーの力も、もちろん自分たち自身の力も万能ではなく、プロセスが失敗することもあることを見ておく必要があると言います。子どもの参画プロジ=クトの主要な目的は、こういう難題に直面し、それをはっきり表現することを通して気づいていくこと、つまり「意識化」していくことであるとハート氏は言うのです。

では、子どもの参画する能力の発達について、ハート氏はどう考えているのでしょうか?そこには、保育に関係する内容が示されてきます。その発達を、ハート氏の観点から見てみたいと思います。

国連どもの権利条約は、子どもの能力の発達に応じた」考える自由の権利と、「子どもの年齢と成熟度に応じた」表現の自由の権利を与えるべきであると述べています。この草案者たちが、どの国連加盟国も納得するような、子どもの発達についての概説を述べようとしなかったのは正しかったとハート氏は思っています。それでも、能力と欲求に応じて子どもをコミュニティ活動に参画させようとしている私たちの努力に指針を与えてくれる、いくつかの原理があると言います。それらはどんな文化にもあてはまるものだとも言います。

子どもの参画の能力と関係があるもっとも重要な原理を、「人はそれぞれ知能の違った領域で、違った度合で発達する」ということであるということを挙げています。ピアジェの発達の理論が教育界で非常に普及しているので、子どもとともに働く多くの人々は、いまでも彼が提案した普遍的な発達段階の見方で子どもたちを見ようとすると言います。ピアジェの理論は、数学的論理的な知能(intelligence)を強調しているのですが、多くの人は知能のどの領城でも子どもの能力は同じ発達の段階を持ち、同じ制約を受けるものと信じてきたと指摘します。しかし、違った文化・環境・社会階層に住む子どもは、違った資源に囲まれており、違った経験をしています。そのうえ家族や隣人から受ける形のない教育の中身も違っています。その結果、異なる時期に違った能力が現われることになるというのです。

普遍的な知能の発達よりも、一人ひとりの子どもがもつ多面的な知能について考えるべきだというのです。そうした知能は、それぞれの子どもの内的な能力と、彼らが自らの能力を試したり練習したりする機会の多少に応じて、発達の度合いが違ってくるからだというのです。例えば、アメリカのヴァーモント州のある小さな町の子ども全員について、2年間実地研究した結果、親が大切だと思って子どもに教えたことが、各家庭でとても大きく違っていることがわかったそうです。肉体労働をしている親は、自分の子どもたちが、手先が器用で、材料をうまく使いこなし、景色をよく見て、周囲の位置を確認しながら道を見つけていくことに長けることを求めました。結果として、こういう家庭の子どもの多くは、知能のうちでも実践的な領域でとても優れていたそうです。しかしながら、この地域の小学校は比較的斬新な学習のさせ方をしているとはいっても、子どもたちのこういった能力は認めていませんでしたし、こういう家庭の子どもたちは、学校のテストではよい点がとれませんでした。