ミマモリストの実践

ミマモリング=心を寄せること。

カグヤでは一緒に働き、一緒に生きる中で、お互いに心を寄せ、思いやることの大切さと、
そこで生まれる感動や豊かさを大切にしたいと思っています。
ただ仕事をするのではなく、自分の心の環境がそのまま仕事に表れるからこそ、
「心を寄せること」を大切にしていきたい。
そんな「ミマモリングを実践していく人々=ミマモリスト」の取り組みを紹介していきたいと思います。



「教育の軸」

2017年10月12日

私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもがいないと、いつもつまらなそうである。イザベラ・バード『日本奥地紀行』

この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことができなかった私は、おお、神よ、この幸福は情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない。
ヒュースケン『逝きし世の面影』p14

私は日本の子供が天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われている国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。モース『逝きし世の面影』p390

私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないと芯から満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りを持っている。毎朝六時ごろ、十二人か十四人の男たちが低い塀に腰を下ろして、それぞれ自分の腕に二歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしているのを見ていると大変面白い。その様子から判断すると、この朝の集まりでは、子どもが主な話題となっているらしい。イザベラ・バード『逝きし世の面影』p390

われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ言葉によって譴責するだけである。フロイス『逝きし世の面影』p393

注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも舟でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。
ツュンベリ『逝きし世の面影』p393

日本人の性格として、子供の無邪気な行為に対して寛大すぎるほど寛大で、手で打つことなどとてもできることではないくらいである。フィッセル『逝きし世の面影』p393

怒鳴られたり、罰を受けたり、くどくど小言を聞かされたりせずとも、好ましい態度を身に付けてゆく。
フレイザー夫人『逝きし世の面影』p396

彼らが甘やかされてだめになることはありません。分別がつくと見なされる歳になると、いずこも六歳から十歳のあいだですが彼はみずから進んで主君としての位を退き、ただ一日のうちに大人になってしまうのです。
フレイザー夫人『逝きし世の面影』p396

幕末から明治初期、世界の国々からは、日本はこんな風に称賛されていました。

しかし、時は流れ、明治維新を経て日本は近代化、西洋化が進み、
称賛される姿は暮らしや町並みからは段々と消えていきました。

数や量、計算、お金の使い方を教えてくれた駄菓子屋は
コンビニへと変わり、子どもは教育の対象から売り上げの対象になりつつあります。

大人たちと地域の子どもたちとの関わりも減少し、
教育の対象は地域に住む子どもたちではなく、「わが子」に変わりつつあります。

そして、教育の本質は「その子の天命に寄り添い、世の中の役に立たせること」
から「知識や技術を習得させ、良い学校へ行けること」に変わりつつあります。

「全体最適(みんなが幸せになるため)」ではなく、
「部分最適(自分が幸せになるため)」を追求する社会に変わりつつあります。

この現象は、私たちの国だけでしょうか。
もしかすると、世界的な現象かもしれません。

しかし、だからこそ、
乳幼児期という大切な時期を過ごす保育園では
その失われつつある姿を大切にしているのだと思います。

昨日、園の先生方と日本の保育を学び、深める中で
改めてこの教えの深さを感じる機会となりました。

【三省】
【子どもの存在を丸ごと信じただろうか】
子どもは自ら育とうとする力をもっています。
その力を信じ、子どもといえども立派な人格をもった存在として
受け入れることによって、見守ることができるのです。

【子どもに真心をもって接しただろうか】
子どもと接するときは、保育者の人格が子どもたちに伝わっていきます。
偽りのない心で、子どもを主体として接することが見守るということです。

【子どもを見守ることができただろうか】
子どもを信じ、真心をもつことで、はじめて子どもを見守ることができるのです。

この教えは、世界が称賛した当時の環境を実践するうえで、
欠かすことが出来ないまなざしなのだと感じます。

ついつい、自分の子どもにとって良いことをということばかりを考えて、
声掛けや関わりばかりをしてしまいますが、
「その子が誰かの役に立つような声掛け」なんて意識していませんでした。

自分の軸足が世の中の役に立てるための声掛けや姿勢になっているだろうか。
三省を踏まえて省み続けたいと思います。

ミマモリスト
眞田 海

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