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道徳が教科になって

道徳というものが2018年4月より小学校で「教科」になりました。

 

「道徳を教える」「評価軸にする」という事について賛否両論はあるかと思いますが、
「教科」にしてみて改めて気づくものがやはりあります。

 

道徳の教科書でよく犠打落として取り上げられるようになった
「星野君の二塁打」

 

内容はこうです。

 


 

【星野君の二塁打】
(打てる、きっと打てるぞ!)
星野君は、強くバットをにぎり直した。
(かんとくの指示は、バントだけれど、今は打てそうな気がするんだ。どうしよう……。)
ピッチャーが第一球を投げ込んできた。星野君は反射的に、思いきりバットをふった。

 

バットの真ん中に当たったボールは、ぐうんとのびて、セカンドとショートの間をあざやかにぬいた。ヒット! ヒット! 二塁打だ。ヒットを打った星野君は、二塁の上に直立して、思わずガッツポーズをとった。この一打が星野君の所属するチームを勝利に導き、市内野球選手権大会出場を決めたのだ。

 

その翌日も、チームのメンバーは、練習を休まなかった。決められた午後一時に、町のグラウンドに集まって、焼けつくような太陽の下で、かた慣らしのキャッチボールを始めた。

 

そこへ、かんとくの別府さんが姿を現した、そして、
「みんな、今日は少し話があるんだ。こっちへ来てくれないか。」
と言って、大きなかしの木かげであぐらをかいた。
選手たちは、別府さんの周りに集まり、半円をえがいてすわった。

 

「みんな、昨日はよくやってくれたね。おかげで、ぼくらのチームは待望の選手権大会に出場できることになった。本当なら心から、『おめでとう。』と言いたいところだが、ぼくにはどうも、それができないんだ。」

 

別府さんの重々しい口調に、選手たちは、ただごとではなさそうなふんいきを感じた。
別府さんは、ひざの上に横たえたバットを両手でゆっくり回していたが、それを止めて、静かに言葉を続けた。

 

「ぼくが、このチームのかんとくになる時、君たちは、喜んでぼくをむかえてくれると言った。そこでぼくは、君たちと相談して、チームの約束を決めたんだ。いったん決めた以上は、それを守るのが当然だと思う。そして、試合のときなどに、チームの作戦として決めたことは、絶対に守ってほしいという話もした。君たちは、これにも気持ちよく賛成してくれた。そうしたことを君たちがしっかり守って練習を続けてきたおかげで、ぼくらのチームも、かなり力が付いてきたと思っている。だが、昨日ぼくは、どうしても納得できない経験をしたんだ。」

 

ここまで聞いた時、星野君はなんとなく
(これは自分のことかな。)
と思った。けれども自分がしかられるわけはないと、思い返した。

 

(確かにぼくは昨日、バントを命じられたのに、バットをふった。それはチームの約束を破ったことになるかもしれない。しかしその結果、ぼくらのチームが勝ったじゃないか。)

 

その時別府さんは、ひざの上のバットをコツンと地面に置いた。そしてななめ右前にすわっている星野君の顔を、正面から見た。

 

「はっきり言おう。ぼくは、昨日の星野君の二塁打が納得できないんだ。バントで岩田君を二塁へ送る。これがあの時チームで決めた作戦だった。星野君は不服らしかったが、とにかくそれを承知した。いったん承知しておきながら、勝手に打って出た。小さく言えば、ぼくとの約束を破り、大きく言えば、チームの輪を乱したことになるんだ。」

 

「だけど、二塁打を打って、このチームを救ったんですから。」と、星野君のヒットでホームをふんだ岩田君が、助け船を出した。

 

「いや、いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことに変わりはないんだ。いいか、みんな、野球はただ勝てばいいんじゃないんだよ。健康な体を作ると同時に、団体競技として、協同の精神を養うためのものなんだ。ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ。」

 

別府さんの口調に熱がこもる。そのほおが赤くなるにつれ、星野君の顔からは、血の気が引いていった。選手たちは、みんな、頭を深く垂れてしまった。

 

「星野君はいい選手だ。おしいと思う。しかし、だからといって、ぼくはチームの約束を破り、輪を乱した者を、そのままにしておくわけにはいかない。」

 

そこまで聞くと、思わずみんなは顔を上げて、別府さんを見た。星野君だけが、じっとうつむいたまま、石のように動かなかった。

 

「ぼくは、今度の大会で星野君の出場を禁じたいと思う。そして、しっかりと反省してほしいんだ。そのために、ぼくらは大会で負けるかもしれない。しかし、それはしかたのないことと、思ってもらうよりしようがない。」

 

星野君はじっと、なみだをこらえていた。
別府さんを中心とした少年選手たちの半円は、しばらく、そのまま動かなかった。

 

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原作は児童文学者の吉田甲子太郎(1894-1957)。もとは1947年に雑誌『少年』に掲載された作品で、1950年代から小学校の国語の教科書に掲載され、1970年代からは、「道徳の時間」(正式教科となる前)の副読本の教材としてもしばしば使われてきた経緯があるそうです。

 

そしてまた、教科書に掲載される内容も、時代に併せて変化してきており、原作では、出場禁止を言い渡した監督が「星野君、異存はあるまいな」と聞き、「異存ありません」と答えたという記述がありますが今は教科書には掲載されなくなっています。

 

先日、セミナーの中で藤森先生から「問題はこの教材の目的が、『星野君の取った行動を通してきまりを守り、義務を果たすことの大切さについて考える』というように星野君のとった行動が間違いであり、監督の指示に従うことが正解であることを教えるような指導内容になっていること」

 

「本来の道徳とは先生が教えることではなく、子ども同士で話し合い、お互いの意見を聴き合い、落としどころを見つけていくその営みにあるのではないか」

 

そんなお話がありました。

 

教科化されることによる「評価軸」と「導きたい方向性」が生じたのだと思いますが、道徳というものを日本人は古来からどんな風に伝承してきたのかを調べてみると、「教師を育む教育者」と呼ばれる森信三先生はこんな風に仰っています。

 

「己を正せば、人はむりをせんでも、
おのずからよくなっていく」

 

「道徳とは自分が行うべきもので、
人に対して説教すべきものではない」

 

「教えよう」とするから本末を間違えてしまうのかもしれません。

 

私たちがまず、徳のある生き方を目指し、歩む姿が先であり、
そして「教える」よりも「子どもたちで話し合い、傾聴しあう場」が先なのだと思います。

 

「場づくり」の要点はそこにあるように感じました。
カグヤの社業を通じて、世の中に「場づくり」していきたいと思います。

 

ミマモリスト 眞田 海